死者の霊をおくる | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

なんだか人が多いなぁと感じていたら、なんと五山の送り火の真っ最中であった。

たくさんの人があつまる出町柳の橋の上から、パシャり。


Nothingness of Sealed Fibs-だいもんじ

ついに、京都八年目にしてはじめて、大文字と正々堂々のご対面である。


大学生のときはバイトしてたので、送り火の日といえば、

稼ぎ時ゆえ必ず出勤だった。去年はばあさんちに帰省していたし。

意外に僕は、大文字と接点がないのだ。


とはいえ、大文字山には大変お世話になった。

大学時代、サークルの仲間で飲むときは、天下一品をたべた後に、

みんなで大文字山にのぼって、朝をむかえるというのが定番だった。


ちょうど「大」の字の一画目ぐらいのところにたって、

京都の街をみおろしながら、ぐだぐだとしょうもないことをしゃべったものだ。


日がうっすらとのぼってくるにつれて空が白くなって、

車の走る音がすこしづつたちのぼってきて、

大きな蚊にさされながら、なんかしんどいような、しんどくないような、

単なるちっぽけな人間にすぎない自分なのに、一人で世界をあいてにしているような、

おわってほしくないようで、眠りたくてしょうがないような、

そんな時間がすぎたものだった。


あれから約6年がたち、一緒に京都の朝を見下ろした友が一人、死んだ。

今日、送り火といっしょに、あの友もかえってしまったのだとおもうと、

目の奥が熱くなる。


僕はまだ生きている。

この六年間には、失ってしまったものも多かったけれど、

得るものもおおかった。なにしろ、大切なひとにであったのだから。


身がひきしまった。