ひきつづいて、白川静先生の本に考えさせられたことを。
白川先生の発想を徹底させると、白川先生のご専門である「文字」も、
人間が作り出したものという意味では、ノモスの一種に入ると思う。
だから、膨大な白川先生の漢字研究は、文字そのものよりも、文字は孕む意味を問う研究だった。
いいかえれば、ノモスである文字の根底にあるロゴスの解明こそが白川先生の課題だったのだ。
日本はオリジナルの文字を発明しなかった。
(かたかな、ひらがなは漢字から作られたし)
この事実は、古代日本において、ノモスが弱かったことを示していると思う。
それは、裏を返せば、古代日本にはロゴスがしっかりとあったということも意味するのではないだろうか?
つまり.,
古代の日本人にとって、ロゴスは、みんながちゃんと理解している当たり前のことだったのではなかろうか。
それゆえ、文字を発明してまで、ロゴスを表現する必要はなかったのだ。だって、あたりまえなんだから。
そう考えると、オリジナルの文字をもたなかったということが、単純に文化のレベルが低かったというような
ネガティブなとらえ方をされるべきことでもないように思われてくる。
むしろ、ロゴスが文字化(=ノモス化)されることで、失われたこともすくなくないのではないか。
さらに、文字について考えてみると、漢字が表意文字であるということは、重要な意味をもつように思う。
表意とは、文字そのものが意味(ロゴス)を宿しているわけで、表音文字とだいぶ違ってくる。
表意文字は、表音文字よりも、よりロゴスに近いといえるのではないか。
現在、文明は文字にだいぶ引っ張られた形で形成されている。
インターネットでやり取りされる情報は、表音文字文化の末裔であるといえるだろう。
しかし、本当に大切なのは、文字ではなく、テキストに書かれた意味をどう再構築するかということ、
あるいはむしろ、文字になっていないものを、見落とさないということではないだろうか。
などと、考えてみた。それにしても、現代と古代を比較すると、人間は進歩したのだろうか、
それとも後退したのだろうか。考えれば考えるほど、現代のほうが進歩しているとは言えない気がしてくる。
現代においても、アメリカや日本と、ユダヤ・イスラーム的世界とは、現代と古代に似た対立を見せる。
法律なるものが、人間の多数決でいとも簡単に改変されるのが、現代アメリカ、日本のノモス社会である。
一方、ユダヤ民族やイスラーム世界は、神の律法なるものを遵守しつづけるために、膨大で煩雑な
律法解釈を行ってきた。
アメリカや日本、ユダヤとイスラーム、どちらがロゴスを見ているだろうか。
問題は、ロゴス消滅の危機を感じ取っている人たちにとっては、すこぶる重大である。