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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

10月1日は、天下一品の日である。

ラーメン一杯食べると無料券を一枚もらえるというとてもありがたい日である。


去年は、7杯たべてジエンドだった。

今年は、授業があった関係で、夜21:30から参戦。4杯ぐらいを目指す。

後輩たちは、昼から天下一品をまわって、すでに5杯程食べている状態。ツワモノである。

しかも、もともとお腹の弱い後輩もひとり今年から参戦しているのだが、お腹一杯で

食べれないときは、ビールを飲んでいたらしいというアホぐあいである。ぎゃ。


まずは北野白梅町店に集合。

かなりの行列ができていたが15分ほどならんでお店に入れた。

ここではお店のおすすめメニューとしてプッシュされているピリ辛ラーメンをいただく。


Nothingness of Sealed Fibs-kitano

こってりラーメンに辛いパウダーがかかっている。

見た目はいかついが、かなりうまい。これは掘り出しものである。

一杯目ということもあり、あっさり完食。

後輩が、「”こってり”ならぬ”こっぴり”ですね」という名言を残すが、

多分歴史には残らない名言だろう。


次にむかったのは、すこし北に上がったところにある仏大前店。

佛教大学のまえにあるお店で、両隣もラーメン屋さんなのだが、

天下一品だけやたら混んでいた。ここでも10分ほど並んで入店。


Nothingness of Sealed Fibs

ここでは普通のこってりラーメンをいただく。二杯目ということで、

ややペースは鈍るものの、とくに迷いはなく完食。


次に向かったのは、さらに北上した上賀茂神社ちかくの御園橋店。

しかし、到着してみると、営業は昼間だけらしく、しまっていた。残念。

上賀茂神社のまわりは照明がほとんどないので、ほんとくらい。

今回のメンバー4名のうち、自転車のライトが無事なのは一人しかおらず、

みんなでびびりながら、自転車をこぐ。


御園橋で敗れたので、今出川店へ。ここでも5分ほどならんで入店。

もちろんこってりラーメンである。


Nothingness of Sealed Fibs-katsura

だんだんと、塩味にしか感じてこなくなり、「しおかれ~よ」を連呼しながら食べる。

お店の人に悪かったかな。

後輩が「昔、砂糖とまちがって塩をガツンとなめたら、塩分とりすぎで気を失いました」という

逸話をさりげなく披露。僕は気を失うわけにはいかなかったので、お水をたくさん飲んだ。


やや塩っ気にやられながらも、なんとか完食。この時点で23:50。

いよいよ日付が変わってから、最後の大一番、北白川総本店に向かう。


Nothingness of Sealed Fibs-souhonntenn


ラストにやってきた北白川総本店では、締めのビールを飲もうとおもったが、

すでにお腹がうけつけず。でもなんとかお腹におしこみファイト終了。12:50。


というわけで、今年の戦いは4杯で終了。

やっぱりこの戦いを終えておもうのは、ラーメンよりも冷えた水がいちばんうまく感じられるということだ。

戦いとしては、途中参加ということもあり、いまいちな充実度であったが、去年回れなかったお店に

いけたのはいい収穫だったと思う。


はたして、来年の10月1日、僕はどこで何をしているのだろうか。

先日、さまざまなお詫びをかねて、相方さんと「ひらかたパーク」に行ってきた。

「ひらかたぱーく」は知る人ぞ知る関西の遊園地。「ひらぱー」なる愛称で親しまれている。


僕は、かつて絶叫マシーンを大得意にしていた時期があり、しかもかなりひさびさの遊園地ということで、

テンションも断然上がっていた。


ただ、いかんせんふたりともノンビリ型ということで、朝10時開園には当然まにあわず、

お昼すぎにようやく「ひらぱー」とうちゃく。


さっそく、木製コースターにのり、ひさびさのジェットコースターを堪能すると、あの楽しい感覚が

戻ってきた。テンションも最高潮に。勢いにのったまま、休憩もせずにアトラクションに挑み続ける。


ところが、激流下りや別のコースターに乗っているうちに、だんだん首がいたくなり、

おまけに気持ちも悪くなってきた。


おそらくコースターが急に方向転換するときに首をかるくムチウチっぽくいためてしまったのと、

ぐるぐる回る回転系にのりすぎて、軽く乗り物酔いしてきたためだと思われる。


ひとやすみにと、おばけやしきや、観覧車、パターゴルフなどやってみるうちに、

気持ち悪さはなくなったのだが、身体がかなりどんよりとした重さをかかえていることに気付いた。

おそらく、普段使わない筋肉を使ったので、疲れやすくなってしまったのだろう。

ガキのころはなんともなかったのだが。


最後は、木製コースターと激流下り、フリーフォールの二回目を堪能して、終了。


ひさびさの遊園地はとても楽しかったのだが、おわったあとの疲労感が半端なく、

しばらくいかんとこうと、二人できめたのであった。


こう考えてみると、ディズニーはほんとに身体に優しい。大人になっても行きたくなるわけである。

すっかり更新が滞ってしまっていた。今回は、あんまりネタもないので、

二カ月ぐらい前に読んだヘーゲルの『キリスト教の精神とその運命』について。


Nothingness of Sealed Fibs-ヘーゲル

ヘーゲルはもっぱら大哲学者として知られているが、はじめは神学のフィールドからキャリアを始めている。

最終的にヘーゲルは当時の神学界に満足できずに哲学に転身するわけだけれど、その転身の意味については

あまり精密に研究がされてないのではないだろうか(よくは知らないが)。

この本は、そんなヘーゲルが哲学に転身する前の青年時代に描きためた神学論集。

僕個人としては、第三章「イエスの道徳」と第四章「イエスの宗教」が刺激的に思えた。


ヘーゲルは、イエスの出現を、「ユダヤ律法を超える新しい道徳律の出現」とはとらえない。

宗教を道徳の一種と考えても決して間違いではないだろうが、宗教の本当に深い部分を見失うことになる。


たとえば、イエスには「右のほほをうたれたら、左のほほをむけなさい」という有名な言葉がある。

この言葉を、「目には目を、歯には歯を」という既存の道徳律へのアンチテーゼとしてみなすと、

イエスは、既存の考え方へ反抗を試みた存在として位置づけられる。

事実として、イエスの言葉は、モーセ律法の中にある道徳律とはちがう新しい合理性をあらたに打ち立てた。

それはそれでいいだろう。


でも、僕は、イエスは単に既存の考え方への反発から「右のほほを・・・」と言ったとは思いたくない。

イエスが神を直観し、人間が生きているということがどのように神に支えられているかとういうことを理解し、

つまるところ、神であるロゴスを直観して、その直観に従おうとした結果「目には目を・・・」ではなくて、

「右のほほを・・・」と言わざるを得なかったのだ、とぼくは考えたい。


この本の中でヘーゲルは、第三章で、イエスを新しい道徳律を打ち立てたものととらえる考え方を批判し、

第四章では「神的なるもの」としてのGeistを直観するイエス像を提唱している。

僕は基本的な方向性に関してはヘーゲルに賛成である。

たとえば、次のようなヘーゲルの言葉は非常に僕にしっくりくる。


「それ自身精神でないものが、どうして精神を認めることができよう。」

「神的なものに対する信仰は、信仰者自身のうちに神的なものが宿っていて、その神的なものが、

当の信仰の対象のうちに、-たとえそれとして自覚されてはいないにせよ-己れ自身を、己れ自身の

本性を再認するということによってのみ可能なのである。」


日本語では精神あるいは霊と訳し分けられているが、ドイツ語ではどちらもGeistである。

つまり、ヘーゲルは、すべての人間には精神=霊があると言っており、そのことを最初に明確に

述べ伝えたのがイエスだと言っているわけである。

すごいことを言っていると思う。

ヘーゲルの代表作『精神現象学』も、ある種「霊的なもの」をめぐる思索、最終的に「聖霊」を目指す

思索だったのかもしれない。


しかし、僕は微妙なところでヘーゲルとは袂をわかつ。

ヘーゲルは、文字通り、人間の精神と、神的な霊を同一視している。

Geistは精神でもあり、霊でもある。人間的なものと神的なものをつなぐのがGeistであるというわけだ。


だが、僕は、あえてというか、やはりこの二つは違っているとおもうし、その点にこだわりたい。

(人間の)精神の中に、たとえば人間の意識・無意識がふくまれるとヘーゲルが考えていたのなら、

それは僕には誤りだとおもうのだ。


なぜなら、霊とは、人間が人間である、あるいは人が人である、私が私であるところの最後の外枠であり、

それは、あらゆる人間の意識・無意識が超えようとするたびごとに、決して超えられない自己の境界として

あるいは自己の限界として現前すると、僕には思われるからだ。


いや、思われるというよりも、僕にはそう直観される。


コリント前書の有名な個所(15章44節)はつぎのような文章である(訳文は口語訳聖書による)

「肉の体でまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。」


このコリント前書の文章は、正直なぞな文章である。難解だ。

しかし、「肉のからだ」には、人間のいわゆる「精神」も「身体」も含まれると読むと理解できるように僕は思う。

なんとなくではあるが。


では、「霊のからだ」とは何か。これこそ、自己の境界・限界・外枠としての「霊」を、

自分ではないものとしてみとめながらも、なおかつその「霊」こそが自分が自分であることの

最後の砦であることを、そのままにうけとる精神と身体の統合である。


後半はなんだか抽象的になってしまったが、この考えをできるだけ明快に具体的に精密に言葉で表現する、

それが、修士論文での僕の課題になっている。


やっと、人が人であるということ、僕が僕であるということ、その意味と構造がつかめてきた気がする。

一昨日、たびからかえってきた。


コンサート本番では、その時できる最善を尽くせた、と思う。


息をたくさん吸って、思いっきり声にしてきた。


自分の声の反響を確かに聞いた気がした。


ひさびさにこころが高ぶった。


たくさん来てくださった観客のみなさま、ありがとうございました。


長崎は、モコモコとした坂が多くて、いろんな文化がまざっていて、


不思議な町だった。


4泊3日。うち深夜バスで2泊という強行日程。


ほとんどの食事を、ちゃんぽんと、皿うどんですませた。


二回、豚の角煮まんじゅうを食べた。どれも、とてもうまかった。


京都に帰ってきて約2日たった。


僕は相方との約束に大遅刻してしまったり、遠い国に旅立つ友人の出発を祝したり、


そんなふうに、いつもの日々に戻っている。


一日づつ、目標をクリアする日々が続く。



Nothingness of Sealed Fibs-neko

聖福寺境内でみかけたネコさん。ずっと僕を見ていた。



Nothingness of Sealed Fibs-sakamichi

興福寺のすぐまえの細い坂道。こういうちょっとした下り坂をみると、なんかわくわくする。


Nothingness of Sealed Fibs-tenshudou

浦上天主堂が夕日に照らされていた。光あれ。



とあるコンサート出演のため、大阪から深夜バスにのって、長崎入り。

バスの中であんまり眠れなかったものだから、長崎一日目はものごっつ充血した目でスタート。

朝7時開店の「旅人茶屋」なる喫茶店でモーニングを食す。今回僕も出演するコンサートのビラが貼ってあってビビった。午後からの練習、がんばらないと。

長崎の町は、まだあんまり目が覚めている感じがしない。ゆっくりと町全体が朝になっていくタイプの場所のようだ。

入場無料の聖福寺にいってみると、丘の斜面にそって、唐式の門・お堂と墓地が広がっている。

斜面ってのは住むにはなにかと不便だから、いつのまにか、住まいは平地に、お墓は斜面にっつう棲み分けができたのかもしれないなと思い至る。

墓地のある斜面からは、長崎の町全体が見渡せる。先祖の霊が街を見守っている。それもなかなかすてきだなぁと思いながら、墓地のあいだをぬう細道で、コーラをいただく。

街の大きさといい、墓地の感じといい、長崎はなんとなくハイデルベルクに似ているように感じられた。

さてと。次はどこいこうかね。