昨夜ついに、いままで使っていたはみがき粉がなくなったので、
今宵、新しいはみがき粉がデビューです。
いつものようにはみがき粉をハブラシにつけて、しゃかしゃかとみがきはじめると、
ふと、世界にはどれほどはみがき粉があるのかなと、考え始めてしまった。
世界中のはみがき粉を集めたら、結構な量になることは間違いない。
すくなくとも、僕の今住んでる下宿を埋め尽くすぐらいはあるだろう。
そんなことを考えていると、なんだかいつもより丁寧に歯をみがいてしまった。
あしたもはりきっていこきましょうかね。
昨夜ついに、いままで使っていたはみがき粉がなくなったので、
今宵、新しいはみがき粉がデビューです。
いつものようにはみがき粉をハブラシにつけて、しゃかしゃかとみがきはじめると、
ふと、世界にはどれほどはみがき粉があるのかなと、考え始めてしまった。
世界中のはみがき粉を集めたら、結構な量になることは間違いない。
すくなくとも、僕の今住んでる下宿を埋め尽くすぐらいはあるだろう。
そんなことを考えていると、なんだかいつもより丁寧に歯をみがいてしまった。
あしたもはりきっていこきましょうかね。
W・ヴェンダース監督の映画は、ずっと見続けていたいと思わせるなにか、に満ちている。
『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)は、9.11を扱っている作品だが、
だからといって9.11という事件を直接扱っているわけではない。
事件に巻き込まれたわけではないのに、9.11のために、なぜか深く
心に傷を負ってしまった普通のアメリカ人の日常生活を描いた作品である。
だいぶ前にみたのだけれど、ふと思い出す機会があったので書いておくことにする。
この映画をみたあとも、ハリウッドではいくつかの9.11を描いた映画が製作された。
ハリウッド映画では、「大きな危機」そのものが中心的に描かれ、
アメリカが「被害者」であるという印象を誇示するタイプの作品が多かったと思う。
しかし、この作品はそういったハリウッド作品とは一線を画す。
あまり華のある映画ではないが、僕が見た限りでは、
9.11と本当の意味で「真摯」に向き合っている数少ない映画のうちの一本だろう。
印象に残っているのはラストで、主人公とその叔父が、グラウンド・ゼロをフェンス越しに眺めるシーン。
ふたりとも、かつてはニューヨークのシンボルだった瓦礫の山を目の前にして、なにも言葉を発しない。
カメラは上昇し、ニューヨーク市の全景を映しながら、エンドロールが流れる。
人間の言葉は、たいていの場合、過剰である。言葉は、現実の一部しかかたどれない。
だから、現実をありのままに表現しようとすると、必然的に言葉は過剰にならざるを得ない。
でも、『ランド・オブ・プレンティ』の二人は、なにもいわない。
通常であれば、「グラウンド・ゼロ」を目の前にして、その悲劇を生みだしたテロリストたちへの
憤りを感じるところなのかもしれない。その憤りを、なんらかの仕方で表現するべきなのかもしれない。
でも、この映画の二人は、だまったまま。このスタンスが、僕は好きだ。
僕は、「グラウンド・ゼロ」を目の前にして、「何らかの憤りを感じるような人」ではありたくないと思う。
単に、たくさんの人がなくなったこと、その事実に哀悼の念をいだくだけではだめなのだろうか。
憤りにいたらず、悲しみにとどまりつづけることは不可能なのだろうか。
もし憤ってしまったら、そこからは、新たな攻撃しか生まれないのではないか。
たんなる物質にすぎない瓦礫の山に、意味を与えるのが人間の想像力。
その想像力の延長線上に、「倒すべき敵」を作りだすのは簡単。でも、本当に、そんな敵は存在するのか?
僕たちが本当に聴き入るべきなのは、
「被害者」の立場から、残された物質に過大な意味を負わせて「死者を代弁する」人々の声ではない。
「生き残った人」として、見える形ではまったく残されていない「死者の声」にただただ耳を澄ますひとたちの
言葉なのだと僕の直観は告げる。
原爆について描いたもっとも誠実な映画の一つが『黒い雨』であるように、
9.11についても描いたもっとも誠実な映画として、この作品は参照され続けるだろう。
奇妙なことにどちらの映画も、「大きな危機」を乗り越えた人たちの「その後」の日常生活を描いている。
この奇妙さの意味がしっくりくるときには、静かで力強い希望が見えはじめているはずだ。
僕自身は、自分の下宿にあったテレビ画像から二機目の突入の瞬間を眺めていた。
それはとても淡々としたが映像ではあったけれど、たしかに衝撃的だった。
しかし、不思議なことに、なぜだかわからないけれど、その衝撃によって僕はうろたえなかった。
僕の中の芯みたいなところは揺らがなかったのである。
そのことの意味を、僕はこれからも考えつづけて行きたいと思う。
日本史を学ぶと、たいてい最初の時間に、土器について勉強する。
土器といえば、縄文式土器と弥生式土器である。
他にも違う種類の土器があるのかもしれないが、寡聞にして知らない。
こちら縄文式土器↓
中学校でならったときは、たいして不思議にもおもわなかったのだが、
最近、気になってしょうがないことがある。
「なぜ縄文土器と弥生土器がこんなに違うのか」という疑問である。
縄文土器のなんかメラメラした感じは、プリミティブな感触とどうじに、
なにかあつくたぎるものを呼び起こしてくれるきがする。
一方の弥生土器は、スッとしていて洗練されているように思える。
二つの土器は、だいぶ異なった印象を僕たちに与えるのだ。
中学生のとき、縄文と弥生のこの圧倒的な違いは、縄文人よりも弥生人のほうが
精神面で、あるいは土器を焼く技術の面で発達しているからだと僕は勝手に納得していた。
しかし、思想の勉強をしているうちに、僕はだんだんと、「精神的発達」という言葉に対して
抵抗感をもつようになってきている。「精神的発達」というような単純な言葉で、
この二つの土器の違いを片づけていいのかな?と思ったりする。
というわけで、なんの予備知識もなく、まったくの思いつきで、二つの土器の違いを説明してみる。
まず、縄文人は狩猟採集生活をおくり、弥生人から農耕生活がはじまった。
これが前提。土器の写真と一緒に教科書にのっている説明である。
そしておそらくは、この狩猟採集生活と農耕生活という生活スタイルの違い、
いいかえれば、自分たちの将来を、ただ運任せにするではなはくて、
より高い確率で人間自身がコントロールできるようになったという、
世界と人間の関わり方の決定的な違いが、この二つの土器の外見を
これほど大きく変えているではないだろうか。
まったくの想像だが、
縄文時代、人間は、世界の一部としてのみ生存を許されていた。
弥生時代、人間は、すこしづつ世界を支配する存在へと変貌し始めたのだ。
見方を変えると、
世界のなかで、自分たちが自由にできる領域をすこしづつ増やすこと、
これを近代化と呼ぶのであれば、近代化は、弥生時代から始まっている。
そして、実は現代もこの意味での近代の路線上にありつづけていることは間違いない。
ゆえに、近代化の反省は、いまだかつて根本的にはされてこなかったのだと思う。
なぜなら、近代化の弊害を我々人間がどのように解決していくべきか、という問い方が、
近代化の内部にとどまっているのだから。
クールな弥生土器の機能的な美しさも捨てがたい。
でも、土器を機能で語ることは、世界を価値でとらえることと同じだ。
僕は、世界を価値でとらえたいとはおもわない。
もちろん、人間の目には、世界は意味を帯びたしかたでしか現れない。
でも、価値をもつまでに至っていないような純粋な意味っていうのがあるのではないか。
たとえば、目の前に広がる緑の山を、人に有益な環境の緑としてみるか、
美しい色の緑として受け取るか、二つの見方のスタンスはだいぶちがう。
僕は、できるだけ後者でいたいと思っている。
だからこそ僕は、縄文土器の大袈裟なギラギラ感に、なんか心ひかれるのだ。
きっとそうにちがいない。
三谷幸喜監督の『マジックアワー』をテレビで拝見。
劇場公開した時も見に行ったが、ひさびさに見てみて、あらためて大笑い。
三谷監督は映画も大好きらしく、和田誠との対談本で、『ダイ・ハード』の脚本について
あつくかたってる文章は、爆笑ものだった。
三谷監督の「笑い」が、「伏線の回収」と激しくリンクしながら考えられていることをあの本は教えてくれたなぁ。
そういえば三谷監督が脚本の『12人の優しい日本人』や、前作『有頂天ホテル』も、
ベースには往年の名作映画のパロディがある。
上にはりつけた『マジックアワー』のスチールも、ライアン・オニールの『ペパー・ムーン』や、
ウッディ・アレンの『ギター弾きの恋』を思い起こさせてくれて懐かしい気分になる。
というように、この『マジック・アワー』は随所に映画に対するあたたかいオマージュに
あふれていて、玄人ほど味わい深く見れるかもしれない。
もちろん、三谷監督の十八番、「一生懸命な勘違いが生むおもしろさ」も健在である。
三谷監督の作品に徹底しているのは、「観終わった後、とくになにものこらないこと」である。
『マジックアワー』を見て、人生において大切な真理について考えさえられたりする観客は
あまりいないだろう。でも、そもそも、そんなふうに深刻なことばかりかんがえることが、
なんか大切なことに近づくベストの方法かどうかなんて、誰も知らないのだ。
なんとなくではあるが、
三谷監督には、「あー面白かった!」以外の感想を観客に求めていないところがあるように思う。
それは、三谷監督の「おもしろさに対する美学」みたいなものからきているのではないか。
森山直太朗の「生きてることが辛いなら」という曲に、こんな歌詞がある。
♪何にもないとこから 何にもないとこへと
何にもなかったかのように 巡る生命だから
僕は、二段目の「何にもなかったかのように」という部分がとても好きなのだが、
この言葉の感覚は、三谷監督の「おもしろさの美学」に通じるところがあるのかなと、
『マジックアワー』をみて、笑いながら感じたのだった。
だからこそ、『マジックアワー』は、また忘れたころに見ると、何度でもおもしろいのだと思う。
三谷監督、次回作お待ちしております。またすごい佐藤浩市が見てみたいですし。
なにかを考えるとき、「問い」をどのようにたてるかが、めちゃくちゃ重要である。
たとえば、僕は宗教を研究する立場にいるけれど、この領域では、微妙な問いのたて方の差異が、
まったく別の結論へと導くことがおおいから、問いをたてるにはすこぶる慎重にならなくてはならない。
ひとつ例をあげてみよう。
「どう生きるべきか」と問い始めるか、「生きているとはどういうことか」と問い始めるかで、
たちあがってくる思考の色合いはまったく異なる。
僕自身の感触をいうなら、問いのたて方としては、後者のほうが、つまり「生きているとはどういうことか」
のほうが、適切であると思う。
なぜなら、前者には価値判断が入ってくるから、答えが多様になることが予想される。
多様な生き方の優劣をつけることは、なかなかむずかしいし、むしろあんまり
してはならないことだと思われると僕には思われるからだ。
また、もし「どう生きるか」という問題に答えたければ、まずは「生きているとはどういうことか」が
明らかにならなければ、問題に答えるための材料が不足だと思うのは、僕だけだろうか。
こんな風に、「問い」の立て方に敏感になればなるほど、僕は、宗教を学ぶ立場に身を置きながらも
いわゆる宗教的なものにはねづよい不信感をもたざるをえない。
たとえば、「宗教に入信すると、生きる意味を見出すことができます!」というような
言い方は、まやかし以外のなにものでもない、と僕には思われる。
人生の意義を見出し、それを他の人に押し付けるということを宗教がしてしまったとき、
その宗教は、ほぼまちがいなく、なにかへんてこなものを抱えている。
永井均がどこかでニヒリズムについてこんなことを言っていた。
「この世界には、すべて意味がない」という考えがニヒリズムなのではなく、
「この世界にはなんらかの意味がなくてはならない」と考える立場こそがニヒリズムだ、と。
この言葉は大切なことを指摘していると思う。
おそらく、全ての人に共通して納得してもらえるような「価値」はこの世界の中に存在しない。
その意味では、この世界のなかで、価値をはかる基準を一つに定めることはできないのだ。
したがって、誰もが共通にいだけるような「生きる意味」など存在しない、それこそが普通なのだ。
もし、「生きる意味」がないといけない、と強く思う人がいたならば、その人たちは、「論理的には」
間違っていると言えるだろう。
しかし、「論理的」に間違っていることが、なぜダメなのか?といわれたら、
僕には返す言葉がない。
他人の考え方を、とくに「生きる」ことにかかわる考え方を批判することは、なかなかむずかしい。
だから、僕は、僕なりに、「生きているということがどういう成り立ちをしているか」ということを
考えていければ、それでいいとおもう。
そして、「言葉をつかって考えることができる」、「事象が言葉としてかたどれる」という、
まったくもって神秘的な事態に、静かにとどまっていたいと思うのである。