W・ヴェンダース監督の映画は、ずっと見続けていたいと思わせるなにか、に満ちている。
『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)は、9.11を扱っている作品だが、
だからといって9.11という事件を直接扱っているわけではない。
事件に巻き込まれたわけではないのに、9.11のために、なぜか深く
心に傷を負ってしまった普通のアメリカ人の日常生活を描いた作品である。
だいぶ前にみたのだけれど、ふと思い出す機会があったので書いておくことにする。
この映画をみたあとも、ハリウッドではいくつかの9.11を描いた映画が製作された。
ハリウッド映画では、「大きな危機」そのものが中心的に描かれ、
アメリカが「被害者」であるという印象を誇示するタイプの作品が多かったと思う。
しかし、この作品はそういったハリウッド作品とは一線を画す。
あまり華のある映画ではないが、僕が見た限りでは、
9.11と本当の意味で「真摯」に向き合っている数少ない映画のうちの一本だろう。
印象に残っているのはラストで、主人公とその叔父が、グラウンド・ゼロをフェンス越しに眺めるシーン。
ふたりとも、かつてはニューヨークのシンボルだった瓦礫の山を目の前にして、なにも言葉を発しない。
カメラは上昇し、ニューヨーク市の全景を映しながら、エンドロールが流れる。
人間の言葉は、たいていの場合、過剰である。言葉は、現実の一部しかかたどれない。
だから、現実をありのままに表現しようとすると、必然的に言葉は過剰にならざるを得ない。
でも、『ランド・オブ・プレンティ』の二人は、なにもいわない。
通常であれば、「グラウンド・ゼロ」を目の前にして、その悲劇を生みだしたテロリストたちへの
憤りを感じるところなのかもしれない。その憤りを、なんらかの仕方で表現するべきなのかもしれない。
でも、この映画の二人は、だまったまま。このスタンスが、僕は好きだ。
僕は、「グラウンド・ゼロ」を目の前にして、「何らかの憤りを感じるような人」ではありたくないと思う。
単に、たくさんの人がなくなったこと、その事実に哀悼の念をいだくだけではだめなのだろうか。
憤りにいたらず、悲しみにとどまりつづけることは不可能なのだろうか。
もし憤ってしまったら、そこからは、新たな攻撃しか生まれないのではないか。
たんなる物質にすぎない瓦礫の山に、意味を与えるのが人間の想像力。
その想像力の延長線上に、「倒すべき敵」を作りだすのは簡単。でも、本当に、そんな敵は存在するのか?
僕たちが本当に聴き入るべきなのは、
「被害者」の立場から、残された物質に過大な意味を負わせて「死者を代弁する」人々の声ではない。
「生き残った人」として、見える形ではまったく残されていない「死者の声」にただただ耳を澄ますひとたちの
言葉なのだと僕の直観は告げる。
原爆について描いたもっとも誠実な映画の一つが『黒い雨』であるように、
9.11についても描いたもっとも誠実な映画として、この作品は参照され続けるだろう。
奇妙なことにどちらの映画も、「大きな危機」を乗り越えた人たちの「その後」の日常生活を描いている。
この奇妙さの意味がしっくりくるときには、静かで力強い希望が見えはじめているはずだ。
僕自身は、自分の下宿にあったテレビ画像から二機目の突入の瞬間を眺めていた。
それはとても淡々としたが映像ではあったけれど、たしかに衝撃的だった。
しかし、不思議なことに、なぜだかわからないけれど、その衝撃によって僕はうろたえなかった。
僕の中の芯みたいなところは揺らがなかったのである。
そのことの意味を、僕はこれからも考えつづけて行きたいと思う。