問いのたてかた | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

なにかを考えるとき、「問い」をどのようにたてるかが、めちゃくちゃ重要である。


たとえば、僕は宗教を研究する立場にいるけれど、この領域では、微妙な問いのたて方の差異が、

まったく別の結論へと導くことがおおいから、問いをたてるにはすこぶる慎重にならなくてはならない。


ひとつ例をあげてみよう。


「どう生きるべきか」と問い始めるか、「生きているとはどういうことか」と問い始めるかで、

たちあがってくる思考の色合いはまったく異なる。


僕自身の感触をいうなら、問いのたて方としては、後者のほうが、つまり「生きているとはどういうことか」

のほうが、適切であると思う。


なぜなら、前者には価値判断が入ってくるから、答えが多様になることが予想される。

多様な生き方の優劣をつけることは、なかなかむずかしいし、むしろあんまり

してはならないことだと思われると僕には思われるからだ。


また、もし「どう生きるか」という問題に答えたければ、まずは「生きているとはどういうことか」が

明らかにならなければ、問題に答えるための材料が不足だと思うのは、僕だけだろうか。


こんな風に、「問い」の立て方に敏感になればなるほど、僕は、宗教を学ぶ立場に身を置きながらも

いわゆる宗教的なものにはねづよい不信感をもたざるをえない。


たとえば、「宗教に入信すると、生きる意味を見出すことができます!」というような

言い方は、まやかし以外のなにものでもない、と僕には思われる。


人生の意義を見出し、それを他の人に押し付けるということを宗教がしてしまったとき、

その宗教は、ほぼまちがいなく、なにかへんてこなものを抱えている。


永井均がどこかでニヒリズムについてこんなことを言っていた。

「この世界には、すべて意味がない」という考えがニヒリズムなのではなく、

「この世界にはなんらかの意味がなくてはならない」と考える立場こそがニヒリズムだ、と。

この言葉は大切なことを指摘していると思う。


おそらく、全ての人に共通して納得してもらえるような「価値」はこの世界の中に存在しない。

その意味では、この世界のなかで、価値をはかる基準を一つに定めることはできないのだ。

したがって、誰もが共通にいだけるような「生きる意味」など存在しない、それこそが普通なのだ。


もし、「生きる意味」がないといけない、と強く思う人がいたならば、その人たちは、「論理的には」

間違っていると言えるだろう。


しかし、「論理的」に間違っていることが、なぜダメなのか?といわれたら、

僕には返す言葉がない。


他人の考え方を、とくに「生きる」ことにかかわる考え方を批判することは、なかなかむずかしい。

だから、僕は、僕なりに、「生きているということがどういう成り立ちをしているか」ということを

考えていければ、それでいいとおもう。


そして、「言葉をつかって考えることができる」、「事象が言葉としてかたどれる」という、

まったくもって神秘的な事態に、静かにとどまっていたいと思うのである。