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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

僕には、人を見る眼がまったくないと最近よく指摘される。

自分でも確かに、ふだんからあまり人を見ていない気がする。


どうやら、いつのまにか、僕は、「人を見る」ということよりも、

「その人が言っていること」のほうに興味をもつようになってしまったようなのだ。

こんなことでいいのだろうか。自分でも激しく心配である。


たとえば、イチローがテレビとかでかっこいいことを言っていたりする。

でも、「イチローが言っているから」という理由で、僕はイチローの言葉を受け入れたくない。


言葉はあくまでも言葉。

だれが言っているかに関係なく、言葉として単独に判断すべきではないか。


同様に、マイケル・ジャクソンが私生活でどんな人であろうと、マイケルの曲は好きだ。

それでいいのではないか?


僕はいつのまにかそんな風に考えるようになった。


たぶん、研究していくなかで、「○○はこう言っている」という文章にどうしてもうさんくささを

感じてしまうからだろう。

「○○が言ってるから正しい」なら、文系の学問なんぞほとんど無意味だ。


そんなこんなで、僕はその人をあんまり見ようとはせずに、

どっちかというと、その人を聞こうとしているような気がする。


そのせいかはしらないけれど、僕は、人を見るときに、細かいところを目を配るのではなく、

「ぼやっ」と見るくせがついてしまっている。


だから、他の人のちょっとしたしぐさとかに鈍感で、気配りもできないというあわれな結果となる。

生きるということは、「ぼけっ」としていてはダメなようである。


やれやれ。


もっと「ぼけっ」としていたいなぁと思ってしまう自分に喝!!


でも、本当のことをいってしまえば、「ぼけっ」としていることのほうが僕に合っている気もする。

他の人のしぐさを見逃すことがダメだとしても、ダメなほうが的確なときもあるのではないか。


ミスチルの名曲「Sign」に反して、僕は「見逃す」のも悪くないという気がしている。

『容疑者Xの献身』をみた。


原作はいわずとしれた東野圭吾。ストーリーのおもしろさについてはとくに付け加える点はない。


僕がこの映画でもっとも印象に残ったのは、「堤真一」の演技である。

ラストで堤さんが「どうして・・・」というセリフとともに嗚咽する姿には、久々に演技で鳥肌が立った。

これほど、「ほとばしれる」俳優は堤さん以外にあまり思いつかない。


ただ、すこし鳥肌が立つ一方、僕には少し残念な気がしている。

なぜなら、堤さんの演技が西田敏行系だなぁと感じられたからである。


堤さんは、これほど見事に「ほとばしる」ことができる。そして、できるがゆえに、

(僕があまりみていないせいかもしれないが)寡黙な役を演じることが少ないのではないだろうか。


数学の天才という設定のこの『容疑者Xの献身』でも、たしかに全体的に寡黙ではあるが、

ラストの「どうして・・・」では見事に「ほとばしる」。


あえていうなれば、堤さんの演技は、ものすごくいい意味で、饒舌なのだ。

僕は、そこに西田敏行的なものを感じ取ったのだと思う。


役所広司以降、「ほとばしる饒舌さ」だけでなく「静謐さ」の両方で魅せてくれる主演級の俳優さんは

少なくなってしまった。それは、俳優の分業が進んでいるからではなかろうか。


役所広司の「静謐さ」を存分に引き出した『ユリイカ』の青山真治監督は、現在では「浅野忠信」を

被写体にしている。その浅野忠信は、ほとんどといっていいほど「饒舌」な役柄を演じない。

役所広司がほとんどしゃべらない『眠る男』を撮った小栗康平監督も、大物俳優を起用した映画はとらない。


「時効警察」で脱力演技をやってのけたオダギリジョーは、

『ゆれる』で、香川照之との「ほとばしり」合戦をみせている。

しかし、そのオダギリジョーの「ほとばしり」も、正確には「静謐さ」のほうに分類されるべきだろう。

なぜなら、『ゆれる』のオダギリジョーは、あふれでる感情の発露というよりも、兄(香川照之)の変貌を

目の当たりにしたときの「とまどい感」の表現だったからだ。その意味では、オダギリジョーの『ゆれる』の

演技は、自分の気持ちがもやもやしていてはっきりしないという感覚の発露なので、明確な感情が

内部からあふれ出てくる「ほとばしり」ではない。


結局のところ、「静謐さ」を代表する浅野忠信やらオダギリジョー、

「饒舌」な香川照之、堤真一というような分担がいまの俳優さんにはあるように思える。


それは少し残念である。ぼくは、堤さんが「ほとばしらない」演技をみせる作品を見てみたいなと思う。

西田敏行的だけでなく、緒方拳的な堤さんも拝見したいなと。そう思うのである。

「自分の愛するものが不死であるようにとねがわないこと。

人間に対しては、だれであろうとその人の不死も、死も、ねがわないこと。」


       ―シモーヌ・ヴェィユ『重力と恩寵』(ちくま学芸文庫32頁)



ゼミにシモーヌ・ヴェイユを研究している人がいるので、

最近は布団にはいってから、『重力と恩寵』を手にとることがおおい。


アフォリズム集なので、文章が短く簡潔で、寝る前に読むには最適。

ただ、一読しただけではしっくりこない言葉も多くて、考え出すと眠れなかったりする。


上の言葉は、読んだ瞬間に納得できた一行。


ものごとを徹底してありのままにとらえることができた時、

世界は、悲しみやよろこびとは別に、ただあることになるだろう。


人が生きる。人が死ぬ。


それは、本来は悲しいことでも、喜ばしいものでもなく、

たんなる出来事のはずである。


それらがたんなる出来事であるということが身にしみてわかってきたとき、

世界が「ありつづけている」ということが僕らの支えになっていることに

きづかされるのではなかろうか。


だれかを愛するということは、そのだれかが生きて「いる」ということを、

あるいは、そのだれかが死んで「いる」ということを、

そのままに見つめようとすること以外のことではない。


むろん、そのような愛の理解は、限られた人にしか受け入れられないだろう。

しかし、そのほんとに狭い意味での愛は、幻想を必要としないがゆえに、ゆるがない。


世界が「ありつづけている」ということは、そのめちゃめちゃ狭い意味での愛が、

それ自身まったく幻想を含まないがゆえに作り出せる幻想なのだ。


ふと、かんがえた。


「見まちがえ」「聞きまちがえ」という表現は良く使う。

しかし「触りまちがえ」とはあまり言わない。


そういえば、「においまちがい」や「味まちがい」もいわない。

五感の中で、視覚と聴覚だけが、なにやらひときわ信頼されていないようである。


でも、見ること、聞くこと、触ることはすべて人間の知覚である。

視覚、聴覚を疑うのであれば、触覚も疑えるのではないのか。


医学の世界ではよく知られているが、病気で手足を切断した患者には、

しばしば「幻肢」という症状が現れる。失ったはずの手足の感覚が残っていて、

風があたったように感じられたり、かゆかったりするらしい。

この例からもわかるように、触覚も間違いうる。

神経細胞が興奮してしまえば、現実の世界とは無関係に、知覚は起きるのだ。


そこでなんだかしらないが、十字架上で死に、三日後に復活したイエスのことが思い出される。

イエスが本当に肉体をもってよみがえったということは、現代人の素朴な感覚からすると

マユツバものだろう。


しかし、復活したイエスは、ヨハネ福音書20章17節において、マグダラのマリアに向かって

あの有名な一言を述べている。 「わたしに触れてはならない。」


また少し後の29節では、よみがえったイエスの体に触れなければ復活を信じられないとして

イエスの復活を強く疑う十二使徒のひとりトマスに対して、復活したイエスはこう言っている。


「あなたはわたしを見るので信じたのか。見ないで信ずるものは、さいわいである。」


このイエスの言葉は多様に解釈しうるとは思うけれど、すくなくとも、

視覚と触覚によって現実を確かめようとする態度をいさめていることはまちがいないだろう。


知覚の確かさはあてにならない。視覚・聴覚だけでなく、触覚でさえも。

目で見たことを疑うのであれば、直にさわったものも疑わなければならない。

では、たしかなことはなんなのか。「見ずに信じる」とはいかなることか。


この問いに答えるには、たぶん、なぜ知覚を疑うことができるのかについてもっと闡明に

考えてみなくてはならないのだろう。


この問いとその答えがはっきりつかめたら、勉強をやめてもいいやと思ったりする。

「信仰とは、事実をありのままに受け入れることである」というある人の言葉が浮かぶ。


事実と、(いわゆる客観的な)現実との微妙な意味の差異、そのあたりにヒントがありそうだ。

沈黙とは、文字通りに考えれば、みずから口をとざすことである。


しかし、逆から考えれば、自分ではないものの声に聞き入っていることである。


僕は、静けさが好きだ。


でもより正確にいえば、何かに聞き入っている時の沈黙が好きである。


さらにいえば、静けさに聞き耳をたてるときの、あの包まれるような感覚が好きである。


そんなわけで、今日みたいな寒い日も、電気カーペットをがんがんにあったかくして、


おもいきって窓をあけている。かなりさむい。毛布を腰にまくはめになった。


窓ごしでもなく、網戸ごしでもなく、直接に世界をみたいのだ、とうそぶいてみる。


そういう気分になっているのは、昨日テレビの『天空の城ラピュタ』をチラ見したからだとおもう。


宮崎駿監督の作品には、見終わると「ギュッ」と生きていたくなるという効能があるのだ。


ただ、残念ながら僕はメガネ必須人間なので、あらゆる世界はレンズ越しにしかみえない。


でも、別にメガネをかけてなくても、世界は網膜越し、あるいは水晶体越しにしかみえない。


結局のところ、「見る」ということばをどう定義するかで、


○○越しに見るというときの○○が変わってきてしまうようだ。


何が見ていて、何が見られているのか、世界はおもいのほか謎だらけである。


つまるところ僕には、自分がどこにいるかだけではなく、


世界がどこにあるといえるのかも、さっぱりわかっていないのだ。


やれやれである。