僕には、人を見る眼がまったくないと最近よく指摘される。
自分でも確かに、ふだんからあまり人を見ていない気がする。
どうやら、いつのまにか、僕は、「人を見る」ということよりも、
「その人が言っていること」のほうに興味をもつようになってしまったようなのだ。
こんなことでいいのだろうか。自分でも激しく心配である。
たとえば、イチローがテレビとかでかっこいいことを言っていたりする。
でも、「イチローが言っているから」という理由で、僕はイチローの言葉を受け入れたくない。
言葉はあくまでも言葉。
だれが言っているかに関係なく、言葉として単独に判断すべきではないか。
同様に、マイケル・ジャクソンが私生活でどんな人であろうと、マイケルの曲は好きだ。
それでいいのではないか?
僕はいつのまにかそんな風に考えるようになった。
たぶん、研究していくなかで、「○○はこう言っている」という文章にどうしてもうさんくささを
感じてしまうからだろう。
「○○が言ってるから正しい」なら、文系の学問なんぞほとんど無意味だ。
そんなこんなで、僕はその人をあんまり見ようとはせずに、
どっちかというと、その人を聞こうとしているような気がする。
そのせいかはしらないけれど、僕は、人を見るときに、細かいところを目を配るのではなく、
「ぼやっ」と見るくせがついてしまっている。
だから、他の人のちょっとしたしぐさとかに鈍感で、気配りもできないというあわれな結果となる。
生きるということは、「ぼけっ」としていてはダメなようである。
やれやれ。
もっと「ぼけっ」としていたいなぁと思ってしまう自分に喝!!
でも、本当のことをいってしまえば、「ぼけっ」としていることのほうが僕に合っている気もする。
他の人のしぐさを見逃すことがダメだとしても、ダメなほうが的確なときもあるのではないか。
ミスチルの名曲「Sign」に反して、僕は「見逃す」のも悪くないという気がしている。