話題の大作『アバター』の3D版を見てきました。
ストーリーうんぬんよりも、スケール感とスピード感、
そして幻想的な映像の美しさに圧倒された3時間弱だった。
賛否両論あるとはおもうけど、映画館で見る価値のある作品だと思う。
以下、ネタバレがあるので、未見の人はご注意ください。
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『アバター』の設定は、『マトリックス』と似ていながらも、微妙に異なっている。
両者が似ているのは、世界が二重になっているところ。
どちらの作品でも、主人公は、神経的にリンクした自分の身体ではない体を操る。
両者が異なっているのは、虚構と現実の線引きの仕方。
『マトリックス』では、現実世界と、コンピュータの支配する仮想世界(マトリックス)が独立に存在する。
したがって、主人公ネオは、現実世界にくらす自己と、マトリックス内のどちらが本当の自己かという
問いにはいきつかない。ネオにとっては、マトリックスはあくまでも虚構である。
一方、『アバター』では、地球も、惑星パンドラも現実世界である。
しかし、下半身不随の主人公を実とするならば、その主人公が操るアバターは、虚といえるだろう。
したがって、主人公ジェイクは、現実世界にいながら、人間としての自己とアバターとしての自己、
どちらが本当の自己かという問いに悩まされることになってしまうのである。
結局のところ、『アバター』が描いている世界は、「何が本当か」ということをきめるのが、
身体ではなくて精神なのだという強い信念に支えられている。
これは、近代以来の西欧文明を支えてきた考え方である。
だからこそ、ジェイクは、自分の精神に従って、自分の本当の身体ではなく、アバターという身体を選ぶ。
それは、本来「実」だった自分の身体を捨て、「虚」だった「アバター」を「実」に反転させたことを意味する。
しかし、皮肉なことに、ジェイクが選んだナヴィ達の世界は、アフリカやシャーマニズムといった
前近代のモチーフにあふれている。
つまり、ナヴィ達の世界において、「生きる」こととは、ジェイクのように精神にしたがって自分の人生を
選び・決定するということではなく、むしろ、「ホーム・ツリー」なる木の言葉に聞き入ろうとする態度に
基づいている。言いかえれば、自分が自分の人生を選ぶというよりも、自分の宿命にそって生きるという
スタンスのほうが、ナヴィの世界にふさわしいのである。
パンドラに生きるすべての生物が、電気パルスによるネットワークでつながっているという設定も、
ナヴィ達が、一つの個ではなく、ひとつの大きな生命の一部であるという感覚に説得力を持たせている。
つまるところ、ナヴィ達の生きる世界は、「自己決定、自己選択」を排除する世界である。
にもかかわらず、ジェイクは、ナヴィ達と共に生きることを「自己決定」した。
この皮肉のもつマイナスのイメージが、映画では描かれていない惑星パンドラの未来に、
一抹の不安を投げかけているような気がしてならない。僕にはそう感じられた。
別の観点からひとこと。
この映画をみて、「善と悪の区分けが単純すぎる」という批判があるかもしれない。
しかし、人間には善と悪が同居しており、善と悪の間で葛藤する人間の姿のほうが「深い」と
感じるのは、ニーチェの言うところの「あまりに人間的な」感覚ではなかろうか。
たとえば、ドストエフスキーが描いた人間は、悩み苦しみ、善と悪のあいだでゆらぐ。
その複雑な人間心理の描写を、ある人々は「深い」と称賛する。
しかし、ドストエフスキーのすばらしさは、そのような人間の複雑さを描いたことではなく、
そのような苦しみの果てに、ある種の救済を見出した人間像を描いたことにあるのではないか。
つまり、ニーチェの言葉を借りるならば、「善悪の彼岸」に立つこと、もっと手垢にまみれた言葉でいえば、
今ここに生きていることを素直に受け入れるというしかたでしか本当の救いはないと言ったことにおいて、
ドストエフスキーは肯定されるべきではないか。そんな気が僕にはするのである。
もしかしたら、今後、ロボットという仕方ではなく、アバターというしかたで、人が自分の身体を
自由に着替えのように取り換えられる時代が来るのかもしれない。
それは、自分の身体の不自由さに悩む人たちにとっては、ものすごい吉報なのかもしれない。
しかし、自分の身体を簡単に捨てられるということは、どんなことを意味するのか。
これは慎重に考えないといけない難問であるように僕には感じられた。