Nothingness of Sealed Fibs -68ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ぐるり。


目が覚めてからたちあがり、両手を横に広げて、いざ。

ぐるりと一回転してみる。


このぐるりたった一回で、世界を全部見渡せていることになる。

理論上は。360℃回転するということは、そういう意味を持っている。


もちろん障害物が視線をさえぎっていなければ、だけど。

さらに正確には、水平方向だけでなくて、垂直方向にも

回転しなければならないけれど。


小さな下宿で、小さな頭をかかえながら、

大きな世界、細かい世界について考える。


なんか、生きてる気がする。

いや、生きてるから、そんな気がするのかな。









話題の大作『アバター』の3D版を見てきました。

ストーリーうんぬんよりも、スケール感とスピード感、

そして幻想的な映像の美しさに圧倒された3時間弱だった。

賛否両論あるとはおもうけど、映画館で見る価値のある作品だと思う。


以下、ネタバレがあるので、未見の人はご注意ください。

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『アバター』の設定は、『マトリックス』と似ていながらも、微妙に異なっている。


両者が似ているのは、世界が二重になっているところ。

どちらの作品でも、主人公は、神経的にリンクした自分の身体ではない体を操る。


両者が異なっているのは、虚構と現実の線引きの仕方。

『マトリックス』では、現実世界と、コンピュータの支配する仮想世界(マトリックス)が独立に存在する。

したがって、主人公ネオは、現実世界にくらす自己と、マトリックス内のどちらが本当の自己かという

問いにはいきつかない。ネオにとっては、マトリックスはあくまでも虚構である。


一方、『アバター』では、地球も、惑星パンドラも現実世界である。

しかし、下半身不随の主人公を実とするならば、その主人公が操るアバターは、虚といえるだろう。

したがって、主人公ジェイクは、現実世界にいながら、人間としての自己とアバターとしての自己、

どちらが本当の自己かという問いに悩まされることになってしまうのである。


結局のところ、『アバター』が描いている世界は、「何が本当か」ということをきめるのが、

身体ではなくて精神なのだという強い信念に支えられている。

これは、近代以来の西欧文明を支えてきた考え方である。

だからこそ、ジェイクは、自分の精神に従って、自分の本当の身体ではなく、アバターという身体を選ぶ。

それは、本来「実」だった自分の身体を捨て、「虚」だった「アバター」を「実」に反転させたことを意味する。


しかし、皮肉なことに、ジェイクが選んだナヴィ達の世界は、アフリカやシャーマニズムといった

前近代のモチーフにあふれている。


つまり、ナヴィ達の世界において、「生きる」こととは、ジェイクのように精神にしたがって自分の人生を

選び・決定するということではなく、むしろ、「ホーム・ツリー」なる木の言葉に聞き入ろうとする態度に

基づいている。言いかえれば、自分が自分の人生を選ぶというよりも、自分の宿命にそって生きるという

スタンスのほうが、ナヴィの世界にふさわしいのである。


パンドラに生きるすべての生物が、電気パルスによるネットワークでつながっているという設定も、

ナヴィ達が、一つの個ではなく、ひとつの大きな生命の一部であるという感覚に説得力を持たせている。


つまるところ、ナヴィ達の生きる世界は、「自己決定、自己選択」を排除する世界である。

にもかかわらず、ジェイクは、ナヴィ達と共に生きることを「自己決定」した。


この皮肉のもつマイナスのイメージが、映画では描かれていない惑星パンドラの未来に、

一抹の不安を投げかけているような気がしてならない。僕にはそう感じられた。


別の観点からひとこと。

この映画をみて、「善と悪の区分けが単純すぎる」という批判があるかもしれない。

しかし、人間には善と悪が同居しており、善と悪の間で葛藤する人間の姿のほうが「深い」と

感じるのは、ニーチェの言うところの「あまりに人間的な」感覚ではなかろうか。


たとえば、ドストエフスキーが描いた人間は、悩み苦しみ、善と悪のあいだでゆらぐ。

その複雑な人間心理の描写を、ある人々は「深い」と称賛する。

しかし、ドストエフスキーのすばらしさは、そのような人間の複雑さを描いたことではなく、

そのような苦しみの果てに、ある種の救済を見出した人間像を描いたことにあるのではないか。


つまり、ニーチェの言葉を借りるならば、「善悪の彼岸」に立つこと、もっと手垢にまみれた言葉でいえば、

今ここに生きていることを素直に受け入れるというしかたでしか本当の救いはないと言ったことにおいて、

ドストエフスキーは肯定されるべきではないか。そんな気が僕にはするのである。


もしかしたら、今後、ロボットという仕方ではなく、アバターというしかたで、人が自分の身体を

自由に着替えのように取り換えられる時代が来るのかもしれない。

それは、自分の身体の不自由さに悩む人たちにとっては、ものすごい吉報なのかもしれない。


しかし、自分の身体を簡単に捨てられるということは、どんなことを意味するのか。

これは慎重に考えないといけない難問であるように僕には感じられた。

いわずとしれた宮崎駿監督作品。


この作品は、子供でも楽しめる冒険ものという側面のほかに、

「人間の業」をみつめる思想的な側面がある。

とくに後者の思想的な側面は、コミックス版では、映画版に比して

はるかに大きな意義を持たされている。


世界最終戦争の後の未来世界、科学技術を過信して地球を汚し続ける人間、

人間に有毒な瘴気を発しつつも、実は地球を浄化している腐海、

神にせまる圧倒的な破壊力をもちながら、人間の道具となる巨神兵、

腐海の森にすむ虫たち、そして「森の人」とよばれる蟲使いたち、

神の化身ともいうべき王蟲。


その設定の卓抜さ、奥行きの深さは圧倒的で、もう何度も見ているというのに、

いまだにちゃんと理解できた気がしない。すごい作品である。


この作品の思想的なオチは、

「人間にとって有毒だと思われていた瘴気が完全になくなると、人間は生存できない」

つまり、

「人間は、純粋清浄な存在ではなく、ある種の汚れ(瘴気)なくして存在できない」

ということになる。


結局は、「この汚れた世界を浄化すべきだ!」という一見正論にみえる意見ではなく、

「この汚れた現状をふくめて世界を肯定せざるをえない」という苦い結論が肯定される。


なにが清浄でなにが汚濁かを決めるのは、人間がかってに設定した基準である。

人間は酸素なくして生きられないが、太古の地球には酸素があると死んでしまう生物がいた。

つまり、人間にとっての「清浄さ」は、他の生物にとっては「汚濁」である可能性がある。


このことを考えれば、ナウシカがいきついた「汚れさえも含めた肯定」は、

至極シンプルでまっとうな真理である。言葉で表現してしまったら、結構そっけない。


ところで、真理は、あらゆる人に理解されなければならない。

したがって、真理は、シンプルな言葉で表現されるはずだ。

しかし、そのシンプルな言葉が何故真理であるかという点を説明する言葉は、

真理それ自体とは逆に、複雑になるだろう。丁寧な論証は、とかく複雑な様相を呈すからだ。


人はしばしば、シンプルな結論よりも、その結論を導くための複雑な論証過程を愛する。

そして真理が信頼されるのは、そのシンプルさ故にではなく、論証課程の複雑さ故になのだ。

だから、真実そのものを直接に言うよりも、迂回路をとったほうが効果的なことが割りとある。

推理小説とは、この事実を徹底して利用することで成り立つ表現手法である。


だから、ある意味で、

『ナウシカ』の壮大な物語は、「汚れを受容する」というシンプルな真理を説得力あるものに

するための、大がかりな迂回路だったのかもしれない。


もしそうだとしたら、いや、もしそうだとしなくとも、宮崎監督、おそるべしである。

無事に年が明けました。今年もどうぞよろしくおねがいいたします。


今年の初記事は、東方神起的なタイトルではじめます。


新年といえば、箱根駅伝。

若者が走っている姿は、なんともいえない心躍る感覚をよびさまされます。


そこで、ふと、最近、運動不足というか、ほとんど運動していない、

つまりだいぶ長い間、全力疾走していないなぁと思い当りました。


僕の記憶が正しければ、

小学生時代の僕は、しょっちゅう学校の廊下を走っていた気がする。

廊下を走らないというのは、全国共通の校則だと思うが、ほとんどの

小学生は、破ったことがあるはずだ。だから校則も消えない。


中学・高校も校舎が直線形になっていたので、廊下をよく走っていた。

大学に入ったあたりから、校舎を走った記憶がなくなる。

でも、社会人になってからまたよく走っていた気がする。

すでに全力では走れなかったけれど小走りで。


現在、大学院生という身分なので、家で本を読んでいることが多く、

ほとんど走らなくなってしまった。外の空気が恋しくなることもしばしばだ。


いかなるときに僕は、走っていたのだろうか。

あらためて考えてみると、必ずなんらかの形で他の人が周囲にいるときだった。

校庭まではやく遊びに行きたくて、歩く時間がもったいない気がしたものだ。


気がついてみれば当然だ。人は、他の人のために「急ぐ」のだ。

あるいは、人は他の人がいるから「急ぐ」のだと言い換えてもよいかもしれない。

ひとりで「急ぐ」奴を僕は知らない。


というよりも、「急ぐ」は比較する対象を必要とする形容詞だから、

ひとりでいるときは、どんなスピードでも「マイペース」であるはずだ。


そんなものかもしれない。

新年早々、平凡なメロス的結論に落ち着いてしまった。


むろん、廊下を走る時は、曲がり角や階段が無い側の壁沿いに走るというのが、

僕なりのモラルだったことは言うまでもない。出会い頭にぶつかると痛そうだし。

それにしても、廊下を走る件では、よく怒られたなぁ。

でも、廊下を走るときって、だいたいなんか楽しい。テンションが上がっている気がする。

シティー・ボーイズの名作コント『廊下を走る人々』が思い出される。


そんなんふくめて、全力疾走とは言わないまでも、

小走り程度まで、徐々にスピードを上げていきたい、と思う新年でありました。


『容疑者Xの献身』がテレビでやってるので、ふたたびつぶやいてみよう。


この作品で福山雅治演じる湯川博士は「天才科学者」という設定になっている。

でも、僕は、『容疑者Xの献身』という作品を見る限り、湯川博士が天才であるかどうかは

よく知らないけれど、「科学者」であるかについては、疑問を禁じ得ない。


僕がひっかかるのは、湯川博士の「僕がこの事件を明らかにしても誰も幸せにならない」というセリフだ。


「本当の科学者」であれば、おそらく、いかなる出来事が過去にあったのかという点の解明のみに

興味があるはずで、事件の犯人が法律にのっとって裁かれるかどうかなんて興味がないはずである。

なぜならば、「法律」というものは「科学的根拠」に基づいてはいないから。


だが、「僕がこの事件を…幸せにならない」というセリフは、事件の真実が明るみに出て、

その事実にたいして法的な制裁が加えられることを含意していることにならないか。


僕のイメージする「本当の科学者」は、過去にどのような出来事があり、誰が何をしたのかという

事実を明らかにし、「矛盾なく納得のいく説明」がみつかれば、その時点で自己満足する。

したがって、「矛盾なく納得のいく説明」を他人に説明することには、なんら意義をみいださない、

そんな人物である。


だから、僕は『容疑者Xの献身』の湯川博士は、「本当の科学者」とは呼びたくない。

本当の科学者であれば、湯川博士のように、知り得た真実を事件の関係者に自ら告げてまわる

なんてことはしないのではないか。僕にはそう思われる。


言い切ってしまおう。この映画の湯川博士は、

たしかに科学的な知識と思考力をもってはいるが、科学者というよりは良識人である。

良識という非科学的なものを含んでいる限り、本当の意味で徹底した科学者ではない。


そんなどうでもいい微妙なところに、僕はひっかかる。

なぜなら、湯川博士が「本当に科学者」であったなら、この映画の容疑者Xのたくらみは成功し、

悲しい結末にはならなかったと思うからだ。


真実があの悲しい結末を導いたのではない。

真実をどこまでも追及する姿勢があの悲しい結末を導いたのでもない。

良識があの悲しい結末を導いたのだ。


そんなわけで、僕はたまに「良識」を憎む。