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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

もう三十路近くになって、あまり「怒る」ことがなくなってきた僕ではあるが、

先日、親の発言に対して久々に怒りがふつふつとわきあがってしまった。


親からみると、子供である僕は、いつまでたっても子供であるらしい。

それはそうだ。


しかし、僕はすでにだいぶ年をとったいい大人である。いまだに学生ではあるけれど。

自分のことは自分で考えて決めさせていただく。

もし自分の判断で行ったことで失敗しても、その責めを自分で負う。

そのぐらいの覚悟はだいぶ前からできている。


だから、僕は、「親だから」という理由だけで、親を敬うようなことはしたくない。

こんなことを書くと親不孝者だと怒られてしまうだろうか。


たしかに、今まで教育を受けさせてもらったという親への感謝の気持ちはある。

しかし、子供を産んだのは親なのだから、ある程度、子供の教育に対して親は責任がある。

僕の側で、親に対して「産んでくれ」と頼んだ記憶はない。


「いままで育ててきたのに」とか「今まで応援してきたのに」とか恩着せがましく言われても、

僕からすると「育ててほしい」や「応援してほしい」と頼んだ記憶もない。


などとえらそうなことを親に言い返していたら、

「哲学なんか勉強してるから、口だけは達者になって」と親がおっしゃる。

たしかにソクラテスの両親は結構大変だったのではなかろうか(笑)。

ちなみに僕が達者なのは、もちろん口だけではない、といわせていただこう。


挙句の果てには、親から「じゃあ子供ってなんなの?」という質問が飛び出す始末。

「それぐらい、自分で考えてから子供を産んでください」とシャーシャーと答えさせていただいた。

親からしたら「飼い犬に手をかまれた」という心境だったのだろうか。


親が尊敬できるような人であれば、尊敬する。

親がまわりに害を及ぼすような人であれば、危険なのでさっさと距離をとる。

親だからという理由でその人を判断しない。これが、僕のスタンスである。


僕の身体はたしかに親から与えられたものかもしれない。

しかし、僕が僕であるということは、親から受け継げるような種類のものではないと思う。

(心が生育する環境を親に与えられるということはあるだろうけど)


そう考えているうちに、僕には「自分の子供が欲しい」という気持ちが、自然な感覚とは

思えないようになってきた。


「子育てはいい経験になる」と多くの人が言う。確かにそうかもしれない。

しかし、子育てをするだけなら、育てる子供が自分のDNAを受け継いでいる必要はない。

別に、どんな子供であれ、子供を育てるという経験は貴重なものになるだろう。


などとダラダラと書いてみた。

家族とは、たまにとても暖かいものではあるが、たまに面倒きわまりないものでもある。

まぁ、その時々で感謝したくもなったり、うえっとなったり、これからも色々と話題を

提供してくれそうだから、まぁ家族というのも悪くはない気がする。


それにしても、我が親よ! なにとぞもう少し柔らかい感性をもっていただきたい!!

昨日、合格発表があり、来年から医大生となることになりました。

だいぶ年をとってからの新たなスタートになりますが、寄り道した経験をいかしたよい医師になれるよう、今後も勉強に励みたいと思います。


神学・哲学の研究もライフワークとして続けていくつもりです。

気にかけてくださったすべてのみなさま、ありがとうございます。

そして、この挑戦を決心するきっかけをくれただけでなく、いつも一番近くにいて背中を押し続けてくれた人へ、本当にありがとう。

カート・ヴォネガット氏原作の『スローターハウス5』を鑑賞。

監督は、『明日に向かって撃て』などのジョージ・ロイ・ヒル。


主人公のビリーは、時間軸を前後に行き来し、自分の人生の誕生から死までの様々な場面を

繰り返し追体験する。次の瞬間に自分の人生のどの場面を体験するかは、自分の意志では

決められない。だからストーリーは、断片的で、錯綜している。


例えば、ある瞬間、ビリーは、捕虜として第二次大戦下のドレスデン大空襲を体験する。

(このとき、ビリーが収容されている監獄が、第五屠殺場(slaughter house 5)である)

また次の瞬間、ビリーは、トラルファマドール星人という地球外生命体に誘拐され、

彼らの星の動物園に陳列されている。

あるいは次の瞬間、ビリーは、第二次大戦後にアメリカにもどり、妻や子供たちと暮らしている。

あるいは次の瞬間、ビリーは、トラルファマドール星流の運命論哲学を地球で広めて有名になる。

あるいは次の瞬間、ビリーは、運命論についての公演中に狙撃され、地球上での死を迎える。


というぐあいだ。


ビリーの目の前で、たくさんの愛すべき人々が死に、多くのおぞましい悪行が繰り返される。

しかしビリーは、決して悲嘆にくれることなく、淡々と生き続ける。

それは、トラルファマドール星人の運命論から、ビリーが強い影響を受けているからだ。


主人公のビリーを誘拐したトラルファマドール星人は、四次元に生きているため、

時間を、過去/現在/未来という区別なしにすべて見通せるだけでなく、

時間軸を自由に行き来することができる。いわば神のような立場にある。

そのため、一回限りの生→死という図式ではなく、何回も自分の死を体験したり、

はたまた死の後に生を体験したり、そんなへんてこな時間の捉え方を彼らはしているのだ。

でも、それゆえに、地球人からするとすこし突飛な運命論をトラルファマドール星人は持っている。


たとえば、次のようなトラルファマドール星人の言葉は、僕の琴線にふれる。

「自由意志といったものが語られる世界は地球だけだった。」

「世界の終わりに、地球は何の関係もありません。」


極めつけは、トラルファマドール星流のあいさつ "Hello, farewell."

日本語ならば、「こんにちは、さようなら」とでもいったところだろうか。

出会いと別れの言葉が同時に語られるということには、ものすごい切なさが溢れている。


出会いが別れとすぐ隣り合わせにある、言いかえれば、生と死が表裏一体であるという、

ヴォネガットの洞察は、冷静で正確だと思う。


人間は、自分がすでに生きていて、まだ死んでいない状態しか体験できない。

同様に世界は、すでに始まっていて、まだ終わっていない状態でしか体験されない。

つまり、世界の始まりの瞬間も、世界の終りの瞬間も、生まれる瞬間も、死ぬ瞬間も

人間には体験できない。なぜだろうか。

というよりも、この「なぜだろうか」という問い自体が、この世界の内部でしか意味を持たない。

それほどまでに、人間は徹底的に世界の内部に閉じ込められた仕方で存在している。

So it goes. そういうものなのだ。


この映画は、ドレスデン大空襲を描いているという点で、反戦映画として、

あるいは、ヴォネガット流の諦念をよくあらわしているという評価をしばしばされている。

でも、ヴォネガットの真意は、反戦でもなければ、諦念でもないだろうと僕は思う。


戦争はたしかに悲惨だ。しかし、その悲惨さは、人間にとっての悲惨さでしかないのではないか?

戦争する人間はたしかに愚かだ。でもその愚かさは、人間にとっての愚かさでしかないのではないか?

「人間にとって」という部分の意味するところは何か。この問いにきちんと答えられますか?

ヴォネガットが残した宿題はでかすぎる。


物語が飛躍に満ちていて、話の筋を追いながら鑑賞すると苦労が絶えないけれど、

見終わった後のプチ幸福感は捨てがたい、そんな不思議な味わいをもった作品になっていると思う。

個人的には大好きだ。

大学院やら試験やらが一段落したので、滋賀の祖父母宅にて畑仕事のアルバイト(三食昼寝つき)中。

お風呂を借りたときに、半年ぶりに体重計にのってみると、なんと半年で五キロ増が発覚した。

わわわ。おうち引きこもり型缶詰め勉強法の悪い影響が出てしまった模様。

明日、京都の下宿に帰るのだが、帰る途中で体重計を買おうと密かに決心。

健全な運動したいなぁ。

話はかわるが、最近、悲劇と喜劇の違いについて考えてみたりしている。


人生は喜劇だ。

「人生は喜劇だ」ということは悲劇だ。

「『人生は喜劇だ』ということは悲劇だ」ということは喜劇だ。

どの例文もそれなりに意味が通じている気がする。

悲劇と喜劇が紙一重で反転しつづけるのが、僕はすきだ。

あ、小津安二郎の作品なんて、ほとんどそうだったなぁ。

などと、適当なおもいつきとともに、いつのまにかすぎさってしまうひなまつりでありました。

ユダヤ人哲学者・宗教学者マルティン・ブーバーの名著『我と汝・対話』を再読。

初めて読んでからもう7年くらいたったが、ようやくブーバーのいうことがしっくりしてきた。


世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
人間の態度は人間が語る根源語の二重性に基づいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく、対応語である。
根源語の一つは、<われ-なんじ>の対応語である。
他の根源語は、<われ-それ>の対応語である。この場合、<それ>の代わりに<彼>と<彼女>のいずれかに置き換えても、根源語には変化はない。
したがって人間の<われ>も二つとなる。なぜならば、根源語の<われ-なんじ>の<われ>は、根源語<われ-それ>の<われ>とは異なったものだからである。

根源語は、それをはなれて外にある何かを言い表すのではなく、根源語が語られることによって、存在の存立が引き起こされる。
根源語は、存在者によって語られる。<なんじ>が語られるとき、対応語<われ-なんじ>の<われ>がともに語られる。
<それ>が語られるとき、対応語<われ-それ>の<われ>がともに語られる。
根源語<われ-なんじ>は、全存在をもってのみ語ることができる。
根源語<われ-それ>は、けっして全存在をもって語ることができない。
(植田重雄訳、岩波文庫、pp.7‐8)


卒論でブーバーを扱ったときは、自己と他者の関係をどう記述するかという問題に関心があったので

この冒頭にある根源語Urwortについては、あんまりつっこんで考えようとはしてなかった気がする。


率直に言って、「根源語が語られることによって、存在の存立が引き起こされる」という部分が、

当初あまり納得がいかなかった。


言葉を発する以前から僕はちゃんと存在してるでしょ、と僕は思っていた。

だから、なぜ根源語が語られることで僕が存在していることになるのかが腑に落ちなかったのだ。


でも、「僕が存在しているかどうか」という問題と、「僕は存在していると言えるかどうか」という問題は、

似ているようで微妙に違うのだと最近気がついた。


「僕が存在しているかどうか」という問題は、議論の余地なく、というか他の人にどういわれようと、

僕ひとりだけが正解を決められる種類の問題である。

たとえば、他の人から、「君は存在していない」と言われたら、激しく納得がいかない(笑)!!


一方、「僕は存在していると言えるかどうか」という問題は、僕一人ではなくて、他の人にとっても

意味をもつ問いになっている。俄然、学問の様相を呈す。


結局、学問的な正しさというのは、とくに人文系の学問の場合、「○○かどうか」という点ではなく、

「○○と言ってよいかどうか」という点をめぐる議論を無事に通過できた物事に対して言われるのだ。


そう考えると、ブーバーの「根源語を語ることによって、存在の存立が引き起こされる」という文章は、

「”議論可能な”という意味での僕の存在が、言語によって初めて扱えるようになる」ということを

言わんとしているのかなという気がして、なんか納得できたのである。


まぁあくまでも勝手な解釈だけれど。


神の存在についても、「神が存在するか」ではなく、「神が存在すると”言える”か」という問題に

ついてしか人間は議論することができない。


これは、胸に刻んでおいてもいいことだと僕は思うのだ。