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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ゼミが終わり、家に帰っると社会人時代の先輩と同期からメールが来た。

なんと京都に来ているとのこと。久々の再会である。

もう退職して三年目だが、いまだに声をかけてくれていてありがたい限りである。

近況報告やらなんやら話が弾む。楽しい一時でありました。

持つべきものは友。

願わくば、お二人に幸あらんことを。

卒業後も顔を出させていただいているゼミで久々に熱くなってしまった。

キリストは神性と人性をもっている。しかも、半神半人ではなく、全神全人とされる。

これは有名なキリスト両性論だが、一見すると矛盾以外のなにものでもない。
僕は、イエスという一個人において神性と人性を統一しているのはイエス自身の

「自分」という枠ではないかと思っているのだが。

昨日発表してくれた院生は語学力も高く期待の新人だったので、

僕は興味しんしんに、キリスト両性論の矛盾をどのように解消するかと質問してみた。

帰ってきた答えは、「私には信仰があるので、私にとってキリスト両性論は矛盾

ではなく事実です」というものだった。

僕は正直がっかりした。トラさんではないけれど、それをいっちゃあおしまいである。

学問の場で「信仰」を根拠にしてもいいのは、「最後の最後」か「最初の最初」でなければならない。
「信仰」を根拠にするならなぜそうせざるを得ないかは納得いくまで考えないといけない。

学問は調査と思考によって生まれるものだ。

どんなに調べても、あつめた情報をもとに考えるまでいかないと、おもしろい話までたどりつけない。


もっとウダウダと考えるのが好きな人が増えて欲しい。
そう強く願った金曜日だった。

W・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』。

この作品を見て、僕は映画をよくみるようになってから初めて涙を流した。


映画にちょっと詳しくなってくるとき、必ず目にするのがこの作品。

だいぶ前に公開されたものなのに、まったく古びていない。


冒頭、トラビスというひげもじゃの痩せこけた男性が荒野の中で発見される。

その荒野の地名は、アメリカのテキサス州にある「パリ」という町。

洗練された都市を思い起こす「パリ」という地名の場所が、テキサスの荒野にあるという違和感。

トラビスは、この違和感を自らの人生に体現した人間である。


トラビスには大切に思っている妻がいる。

二人は、お互いがお互いをとても思い合っているのに、

しかも、二人の間にはかわいらしい子供までいるのに、

それなのに一緒に住むのではなく、みんなバラバラに暮らしている。

バラバラになっている経緯や理由は映画では明かされない。

(理由なんてものはないのかもしれないが)

そんなふしぎな家族がこの映画には登場する。


たしかに映画という虚構の中ではあるけれど、この家族の姿には

ヴェンダース監督が吹き込んだリアリティが感じられるのだ。


僕は、この作品を見てから、

「好きだ」という感情と、「一緒にいる」という行為の結びつきが

絶対的なものではないのだと感じるようになった。


感情と行為のリンクが緩くなりうるということ、

それは、とても恐ろしく、また悲しいことではあるけれど、

人と人がそれぞれ異なった人である限り、この可能性が消えることはない。


こんなふうに、

ヴェンダースの映画には、なにかしら幻想を打ち砕くようなところがある。

しかし、なにかが幻想であると分かるということは、

そのなにかを幻想だとみなすときに立っているその場所自体が、

ある意味では確かなものだと気付かされるということでもある。


このたしかな場所こそが、ヴェンダースの映画にあふれるあたたかみの正体だろう。

むろんその場所とは、ヴェンダース監督にとってはスクリーンという外枠に他ならない。

なぜなら、スクリーンを通過する光によって映し出される世界だけが、映画にとってはすべてだから。


むろんそのスクリーンとは、僕にとっては「自分」という外枠のことである。

いよいよ明日から大学が始まるというわけで、うす曇りの空の下、

京都北辺の未到達地域をチャリを漕ぎ漕ぎ探訪しに行った。


金閣寺の北に「しょうざん」という結婚式場、庭園などで有名な場所があるが、

本日は、さらに北へと自転車を漕いでみる。


だんだん道が登り坂になってきて、息もたえだえになったころ、

ようやく目的地の源光庵に到着。

Nothingness of Sealed Fibs


この曹洞宗の寺院は紅葉が有名なので、春の月曜日は完全にオフシーズン。

参拝者は僕ただひとり。


丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」が有名である。

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誰もいない本堂のなかで、しばし二つの窓越しに庭を眺めた。

ゆるやかな風がとおりぬけ、少しひんやりとした空間に身が引きしまる。


ふと、小津安二郎監督がカメラ越しにみていた映像は、僕がこうして

窓越しに景色を眺めていることとあまり違わないのではないか、と思いいたる。


30分ほどゆっくりさせていただいて源光庵をおいとまし、

すぐ近くにある光悦寺にお邪魔する。

Nothingness of Sealed Fibs


金欠のため、内部の拝観は断念。自転車の向きをかえて、坂を下る。

下れるだけ下ってしまおうと、気持ちよく下っていたら、いつのまにか

丸太町通りまできてしまっていた。下りすぎである。


丸太町寺町からすこし南下したところでこんな像がおいてあった。

Nothingness of Sealed Fibs


手の甲の形をした石が4つあるせいで、腕が四本あるようにみえる。

人間の認識能力は、しばしば実際には見えていないものを補ってくれる。

この像をみたとき、カントだったらなんというだろうか。


しょうもないことを考えつつ、さらに自転車を漕いで下宿にもどる。

いい運動になったので、おうちで本でも読むことにしようかね。

「結婚」ということを考えるとき、僕にはいつも使徒パウロの言葉が思い出される。

第一コリント書7章で、パウロは結婚について割りと具体的に書いている。


もし妻に結ばれているなら、解こうとするな。妻に結ばれていないなら、妻を迎えようとするな。

しかし、たとえ結婚しても罪を犯すのではない。(中略)ただ、それらの人々はその身に苦難を

うけるだろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。(第一コリント7:27)


兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。

今からは妻のあるものはないもののように、泣くものは泣かないもののように、

喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、

世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。

なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。(第一コリント7:29-31)


だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい。(第一コリント7:38)


生涯独身だったパウロの言うことは、シンプルである。

結婚することは、決して悪いことではない。

しかし、結婚すると、夫あるいは妻を大切にしようとするあまりに、どうしても神をないがしろにしがちになる。

だから、結婚しても差し支えないが、結婚していないほうが神のほうを向きやすい。

結婚しつつ、しかも神をないがしろにしないためには、それなりの覚悟と苦難が必要だというわけだ。

そして、いったん結婚したならば、それをやりぬかねばならないともパウロは言っている。


「神をないがしろにする」といわれてもピンとこないので、もうすこし具体的に考えてみよう。


たいていの「戦争」は、「大切な人を守るため」という理由で正当化される。

「愛する人を守る」という理由があれば、見知らぬ人を殺すこともいたしかたない、そういう考え方もある。


ならば、結婚とは「結婚相手を他の人よりも優先的に扱うということ」なのだろうか?

あるいは、「結婚相手を、他の誰よりも大事にする」ということなのだろうか?

パウロはそうではないと言っているように僕には思われる。


結婚することで、人は生活面でも、精神面でも何かしらの変化を経験するだろう。

でも、パウロのいう「妻のあるものは、ないもののように」という有名なくだりは、

「結婚前と結婚後で、二人に大きな違いなど『あたかも』ないかのようにふるまえ」と言っているように聞こえる。


二人で一緒に、世界を受け入れ、日々を楽しみ、二人で時間を共有することが、

「あたかも」自然にそうなったことであるかのように過ごす。

二人の距離は、もちろん遠くはないけれど、近づきすぎてもいない。

そんな風に結婚生活を生きることができたら、どれだけうれしいだろうか。


いまどきのキリスト教式結婚式では、神にむかって新郎新婦が永遠の愛を誓う。

でも、イエスは、「いっさい誓ってはならない」(マタイ5:34)とはっきり述べている。

人間にできることに「絶対」はない。「誓う」という行為は、”絶対に○○を守る”という

言い方をする時点で、人間の領域を超えてしまっているのである。


結婚は一つの大事な節目ではある。

でも、その節目を、「誓い」のような堅苦しいものとは無縁なままで区切りたい。

自然に、力みから離れて、柔らかく、二人の門出をはじめられたらと僕は思っている。