W・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』。
この作品を見て、僕は映画をよくみるようになってから初めて涙を流した。
映画にちょっと詳しくなってくるとき、必ず目にするのがこの作品。
だいぶ前に公開されたものなのに、まったく古びていない。
冒頭、トラビスというひげもじゃの痩せこけた男性が荒野の中で発見される。
その荒野の地名は、アメリカのテキサス州にある「パリ」という町。
洗練された都市を思い起こす「パリ」という地名の場所が、テキサスの荒野にあるという違和感。
トラビスは、この違和感を自らの人生に体現した人間である。
トラビスには大切に思っている妻がいる。
二人は、お互いがお互いをとても思い合っているのに、
しかも、二人の間にはかわいらしい子供までいるのに、
それなのに一緒に住むのではなく、みんなバラバラに暮らしている。
バラバラになっている経緯や理由は映画では明かされない。
(理由なんてものはないのかもしれないが)
そんなふしぎな家族がこの映画には登場する。
たしかに映画という虚構の中ではあるけれど、この家族の姿には
ヴェンダース監督が吹き込んだリアリティが感じられるのだ。
僕は、この作品を見てから、
「好きだ」という感情と、「一緒にいる」という行為の結びつきが
絶対的なものではないのだと感じるようになった。
感情と行為のリンクが緩くなりうるということ、
それは、とても恐ろしく、また悲しいことではあるけれど、
人と人がそれぞれ異なった人である限り、この可能性が消えることはない。
こんなふうに、
ヴェンダースの映画には、なにかしら幻想を打ち砕くようなところがある。
しかし、なにかが幻想であると分かるということは、
そのなにかを幻想だとみなすときに立っているその場所自体が、
ある意味では確かなものだと気付かされるということでもある。
このたしかな場所こそが、ヴェンダースの映画にあふれるあたたかみの正体だろう。
むろんその場所とは、ヴェンダース監督にとってはスクリーンという外枠に他ならない。
なぜなら、スクリーンを通過する光によって映し出される世界だけが、映画にとってはすべてだから。
むろんそのスクリーンとは、僕にとっては「自分」という外枠のことである。