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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

前の記事でも書いたが、『トリック 劇場版』を見てきた。

もう3作目だが、相変わらず(笑)のテンションで楽しめる。


今作の最大の見どころは、松平健出演、テレビ朝日系列ということで、

「暴れん坊将軍」についてのオマージュ(パロディ?)の数々が登場するところ。


実はトリックはテレビシリーズ時代にも、暴れん坊将軍をネタにしてきた。

一日中暴れん坊将軍しかやってないという「暴れん坊将軍チャンネル」があることに

山田奈緒子がめちゃくちゃよろこぶシーンがあったり、「暴れん坊将軍」が最終回を

迎えた時に、山田奈緒子が嘆くシーンがあった。伏線はばっちりというわけである。


むろん、パロディ以外のネタも満載。

個人的には、蛇酢湖(ジャスコ!!こんな漢字だったような?)で大笑い。


というわけで、今回の劇場版も、外国の人がみたら「なんのこっちゃ?」という作品に

なっている。パロディ満載は、元ネタを知っている人には楽しいけど、知らない人に

とっては、はてなマークオンパレードになってしまうので、もろ刃の剣である。


同様に、映画の中に登場するシークエンスだけを丹念に見るという仕方で映画を

扱おうとする、あるいは批評しようとする立場の人からすると、この作品は非常に

扱いづらいはずである。なんたって、映画を理解するのに、映画以外の知識が

必要になる。少なくとも「暴れん坊将軍」についてのリテラシーがなければ、この

映画を十分に楽しんだことにはならないだろう。


人によっては、このようなパロディ映画のもつ間口の狭さを、「下らない」と評する

かもしれない。たしかに、「間口が狭い」ということは、分かる人にはわかるけど、

分からない人には分からない、という状況を生んでしまう。

でも、だからといって、この映画の「間口の狭さ」に文句をつけるのは、

呼ばれていないパーティーに出かけて行って、サービスが悪いと文句をいうのと、

大差ないのではないか?


この映画の場合、間口が狭いとはいっても、その間口に合致する人にとっては

極上のサービスが用意されている。そのような間口に合致する観客は、見逃した

ネタがあったかもしれないと、何回もこの映画を見直すはずである。


他の人がどう思うかはしらないけれど、少なくとも僕は、何回も見たい映画は、

いい映画だと考えることにしている。


だから、今回の劇場版も、いい映画だと僕は思うのだ。

新しい環境に足を踏み入れて1月半くらいが過ぎた。

週5日、火曜以外は5コマみっちり講義がある。レポート課題も毎週いくつかでる。
ヒイヒイなのは数学や物理と実験実習。前世の記憶を掘り出しながら勘を適宜導入。

大変だけど、新しいことを学ぶというのは割と楽しいものだ。なんたって、自分の
頭の中に「勘」が生成されるプロセスを体験できる。訳分からない黒板の数式を
やみくもにノートに書き写しているだけでも、量をこなすと、なんとなく意味が
つかめたような気になってくる。「学問とは写経である」という名言のとおり、
「理解する」とは、しばしば「慣れ親しむ、馴染む」ことと同義なのだ。

休みはほとんど相方さんと一緒に過ごしている。ランニング、ごはん、散歩など
ちょっとしたことの中身を濃くしてくれる人と一緒にいるというのは、そのまま
縄文式土器の魅力に通じる。

昨日は『トリック劇場版』と、ビルボード大阪での「Take 6」ライブに二人で参戦。
ひとしきり笑ったあと、重厚な和音にしびれた。帰り、駅から家まで歩きながら、
ついつい鼻歌が出てしまった。とてもうまい歌を聞くと、自分も真似したくなる。


どうやら、勉強も音楽もすごいものの模写から始まるようである。というわけで、
自分のまわりにすごいものに触れる機会を増やしておくことは大切であるようだ。

さて、本日は雨。法事に出たあと、明日の実習の予習がまっている。

なにやら、いい感じだ。

グレゴリー・ベイトソンの『精神と自然 生きた世界の認識論』を読んだ。

そのなかで、Logical Type(論理階型)についての箇所が興味深かった。


論理階型を説明するための例として、ベイトソンは上下と左右の違いを考える。

セーターの着間違えについて考えてみよう。

僕らはセーターを上下逆さまに着ることができる。表裏反対に着ることもできる。
しかし、どうがんばっても左右逆にセーターを着ることはできない。なぜなら、

左右逆に着たつもりでも、それは瞬時に「前後反対」と認知されてしまうからだ。


それゆえに、ベイトソンは上下と左右が異なるLogical Typeに属していると結論する。
より正確にいうと、上下は重力方向という客観的な外部条件によって決まる。

逆立ちしたとき、人間の上にあったはずの頭は「下」にあることになる。

一方、左右は人間の主観的・内的な判断によってきまる。

右手はいかなる状況下でも主体の右側にあり、左手も同様だ。

つまり、上下については客観的な合意が可能だが、左右については「○○にとって」

という但し書きなくして客観的な合意はありえないということになる。なぜならば、

向かい合わせ同士の二人にとってそれぞれの左右は反対になるからだ。


よく考えると論理的に同等に扱うべきではではないものを、僕らはしばしば一緒に

扱ってしまっている。そのことによっていろんな議論の混乱が生じている。

物事を厳密に考えるということは、かくも難しいのだ。


この本のラストで、ベイトソンは宗教について軽く触れている。


「私は長いこと宗教のためには一種の低能さが必要条件だと思っていたが。

そしてそれが耐えられないほど嫌だったのだが、しかしどうもそうではないらしい。

(中略)彼らは信仰を教え、降伏せよと説教する。しかし私の望みは明晰さにある。

(中略)理解の曇った部分を信仰で埋めるなんて、私はご免こうむるよ。」

(本書、285頁)


「雨乞いダンスの本来の目的が雨を降らせることにあったとは、私は信じない。

そんな浅薄なもんじゃない。もっと深い、何というか、人間もまたエコロジカル・

トートロジー―つまり生命と環境を一まとめにした不変の真理だね―その中に

ちゃんと属しているんだというメンバーシップの肯定、そういう深い宗教的要請が

あるはずだよ」(本書、286頁)


この引用箇所のあとで、ベイトソンは、「神聖さ」が「美」と関連していることを指摘する。

つまり、「神聖さ」は認識される対象がもつ属性ではなく、認識する主体側が読みとる

感覚のことなのだ。この点で、「神聖さ」と「美」は同じである。


だから、ベイトソン的に可能な神学は、美学と同じ方向性に成立する。

これは、カントが三大批判書でたどり着いた結論と同じである。カントが「神聖さ」を

扱うためのツールとして行きついたのは、純粋理性や実践理性ではなく、判断力だった。

ベイトソン的に言い換えれば、カントの提示した三つの理性の分類は、それぞれ異なる

Logical Typeを扱うために分類されていると言えるだろう。


そして、偉大なるベイトソンには申し訳ないが、彼のいう生命と環境を一まとめにした

メンバーシップについては、すでにキリスト教神学によって答えが出されている。

それは、「言語」によるメンバーシップである。


すべての存在は、言葉によって表象される。

言い換えれば、言葉に表象されることによって、その存在は客観的な世界に居場所を

もつ。その意味では、言葉が存在を創造する(=世界内に招き入れる)といえる。

だから、「言葉は神であった」のである。


世界のあらゆる存在が、言葉にからめとられるというしかたでつながっている。

これが、キリスト教神学の提示した「生命と環境の一体となった不変の真理」である。

と、僕は考えているのだが、おそらく多くのキリスト者、神学者は反対するだろう。

だからといって、僕の中にある明晰な理解がゆらぐことは、ない。たぶん。

『スター・ウォーズ』は冒頭のテロップからして不思議な作品である。


いきなり観客の目に飛び込む「A long time ago, far away in a galaxy・・・」という文言。

ものすごい宇宙戦艦が行きかうSF作品なのに、大昔の話だというのだ。


通常私たちは、SFといえば、未来を描く作品だと思い込んでいる。

スター・ウォーズはこの我々の常識が思いこみであることを教えてくれる。


なぜわれわれは、SFが未来を描くものとおもっているのだろうか。

SFは科学的フィクションだから、ひとつの虚構である。一方、未来はまだ我々にはわからない。

だから、我々は、未来と虚構の結びつきにはそれほど違和感を感じない。

しかし、過去は実際に起きた事実の集積である。

だから、過去にはフィクション(虚構)の入り込む余地はないと思える。


しかし、過去は我々が思っているほど確かなものでもない。

思い起こすたびに過去の記憶が違う様相をもって現れることは我々が良く経験するところだ。

南京大虐殺をめぐる歴史論争が示唆する通り、我々は直接見たことのない過去については、

手掛かりから推測して再構成することしかできないのだ。


だから、過去についてのフィクションも十分にあり得る。

というよりも、直接経験したことのない過去を我々が手掛かりをもとに再構成するとき、

その再構成された過去も、一種のフィクションなのである。

なぜならば、我々は「本当に過去に起こった事実」を完璧に知ることはできないがゆえに、

再構成された過去が、本当に事実起こった過去と同じになっているかを確認できないから。


そう考えるとき、過去についてのフィクションもありえる、つまり過去についてのSFが可能である、

もっといえば、歴史上の出来事をテーマにしていても、すべてはSFであると言えることになる。


つまり、我々が過去についてなるべく正確に考えようとする限り、

現在に近い時期の過去について再構成した後に、すこし昔にさかのぼって再構成するというように、

現在→過去というしかたで、歴史を考えるほうがより確からしいということになる。

歴史の授業でよくやるような、昔→現代という順番で歴史を探求するのは変なのだ。


世界の最初は、一番我々から遠いのであるから、分かりにくいはずである。

世界の最初からではなく、身近な時代から昔に向かってすこしずつ再構成を積み重ねる。

これこそが、歴史を真摯に考える態度ではないか。


そう考えるとき、スター・ウォーズがエピソード4から始まった意味が明瞭になってくる。

スター・ウォーズは、物語の最初を描かずに、途中から描くことを選んだ。

これは、過去をまず自分たちに近いところから再構成していくという歴史への真摯な態度の現れなのだ。


ふと考えてみると、すぐれた小説というのもしばしば過去を題材にフィクションを紡ぐ。

村上春樹は一貫して過去を変奏し続けている。

カート・ヴォネガットも、ある本の冒頭に、「この本に真実はいっさいない」と断りつつ過去を描く。

別の本でヴォネガットは、「本書の中の人物、場所および事件は、すべて実在する」と書いている。

どちらも、まったくの嘘っぱちであることは間違いないが、いずれにしろ過去を描いている。


おそらく、虚構であってもいいやと思える出来事の範囲が広い人ほど、強い心の持ち主だろう。

そして、全くの僕の経験則ではあるが、そういう人ほど、優しさもあわせ持っているものなのだ。


僕にとっての『スター・ウォーズ』の魅力は、この映画冒頭の一文に全て凝縮されている。

あっという間にGWである。そう書いてみるだけでなにやらよろこばしい。

世間が浮足立っているときこそ、いつも浮いてる足を必死に地につけようとする僕であります。


さて、話は大きくかわるが、「神秘」とはなんだろうか?

信仰の「神秘」、存在するという「神秘」。

こうした表現から考慮して、僕は「神秘」の意味を次のように考えている。


「そうなっている理由をどうしても考え付くことのできないような事態」=「神秘」。

すると、次のようなことになってしまいはしないだろうか?


まず、信仰が神秘であること、存在が神秘であることが誤っていない、と仮定する。

このとき、なぜ信仰するのか?と聞かれて、「神がそう命じるから」などと答えられるならば、

その答えを出した人が思い描いている意味での「信仰」は本当の「神秘」ではない。ゆえに、

その人の「信仰」は、正確な意味での「信仰」ではない、、と。


あるいは、なぜ存在するのか?と聞かれて、「神が創造したから」と答えられるならば、

そのように答えられてしまう意味での「存在」は「神秘」ではない。ゆえに、答えられてしまう

意味での「存在」は、正確な意味での「存在」ではない、と。


逆に、信仰も存在も「神秘」ではない、と仮定することも可能だ。

その場合、本当に「神秘」と呼べるような事態とは何かを考えてみることが大切になるだろう。


ここで大切なのは、

考え付くことのできた理由が適切なものかどうかの吟味が重要でない、ということだ。

たとえば、「神が創造したから」という理由が納得のいくものであるか、その点を考えることは

重要ではない。

なぜなら、いかなる理由をもどうしても考え付くことができない事態こそが「神秘」なのであって、

なんらかの理由が(たとえ適切ではない理由だとしても)考え付くのであれば、その事態は

本当には「神秘」とは言えないと僕は思うからだ。


このように、「神秘」について考えてるうちに、僕はだんだん「神秘的事実」という言い方が

不正確だなと感じるようになってきてしまった。


おそらく、正確には、神秘的ではない事実なんてない。

もっと正確には、事実そのものよりも、その事実が事実であると「言える」ことのほうが、

「神秘」という言葉にふさわしい。


事実が事実であると「言える」ということ、これこそが滝沢克己がいうところの「原事実」だと

僕は考えている。その「原事実」は、事実よりもさらなる神秘だということになる。


たぶん、事実と神秘が厳密に重なっていることを直観する立場、それを理解・直観できれば

滝沢克己のいっていることは腑に落ちてくるだろう。