行定勲監督の『今度は愛妻家』を拝見してきた。
高名だが現在はスランプ中の写真家の北見俊介(豊川悦司)と、
その妻さくら(薬師丸ひろ子)が、沖縄に旅行に行ったときの回想シーンから
映画は始まる。
舞台の脚本が原作になっているということもあり、非常に限られた空間の
中でストーリがー展開していく。ピンと張りつめた画面がすばらしい。
主演の二人に加え、濱田岳と水川あさみのサイドストーリー、石橋蓮司の
秘密などが絡まって、謎を抱えた物語がすこしずつ加速していく。
※※※以降はネタバレがあるので、未見の人は見ないでください※※※
急激に汚くなっている部屋、ブティックの井川遥のさびしそうな笑顔、
薬師丸ひろ子が出て行ったあと、すぐ入ってきた濱田岳が、薬師丸
ひろ子とまったくすれ違っていないこと、薬師丸ひろ子が飲んだはずの
ニンジン茶が減ってないこと、いくつもの「奇妙な」シーンが蓄積していく。
実は、薬師丸ひろ子演じる「さくら」は、一年前の沖縄旅行で事故にあい、
すでに死んでしまっていたのだった。
映画に出てくる「さくら」のほとんどは、俊介が自らの記憶だけから再生させた
架空の「さくら」なのである。
俊介が架空の「さくら」に向けてつぶやくセリフ、
「一度でいいから、俺の想像もつかないようなことを言ってくれよ」で、僕はすこし
涙がでた。
アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』にも似たような状況が出てくる。
『惑星ソラリス』では、主人公の物理学者(?)の、何年も前に亡くなっている妻が
惑星ソラリスに生きる地球外生命体によって再生される。
しかし、その再生は主人公の物理学者の記憶に基づく再生だったため、
細部が妻そのものと決定的に違ってしまう。再生された妻のドレスをとめる
背中のひもが、妻の背中と一体化してしまっていたのである。
妻と抱擁した物理学者は、背中の一体化したひもに気がついて愕然とする。
自分は深く妻を愛していたつもりだったのに、実際に物理学者の記憶に残っていた
妻の姿は、ドレスのひもと背中が一体化してしまう程度にあいまいだったことを
思い知らされたからである。
同様に、『今度は愛妻家』でも、「さくら」は俊介が記憶をもとに再生した虚像だ。
だから、「さくら」の言葉は、俊介の想定範囲からでないのである。
自己がどれほど深く他者を愛そうとしても、愛せるのは自己が認識した限りでの
他者の「姿」であって、他者そのものではない。
すなわち、愛するということには、「他者そのものを愛することはできない」
という事実の痛切な自覚がなければならない。
この映画の俊介は、目の前の「さくら」が本物の「さくら」ではないことを知っている。
その点をきちんと明示しているから、僕は、この作品をいい作品だと感じた。
その点、豊川悦司の演技はすばらしい。彼は、「さくら」とのやり取りが、自作自演で
あることを自覚しながら、「わざとらしく」生きている。これほどまでみごとに
「わざとらしさ」を表現できている俳優さんはなかなかいない。
なかなかに歯ごたえのあるいい作品だったと思う。
