生きることと、天気予報はどこか似ている。 | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

土曜日に同志社大学で行われた向谷地先生の講演会に参加してきた。

向谷地先生は、「べてるの会」のソーシャルワーカーとして、薬物にたよらず、

患者さんたちが自らおこなう当事者研究を提唱している著名な先生である。


一番心に残ったのは、患者さん自身の言葉として紹介されていた次の言葉。


「病気が治ったら、実社会で働かなければならない。そこに悩みが生まれる。

病気のままでいれば、実社会での悩みはないけれど、病の苦しみがある。

つまり、生きるということは、どう悩むのかという悩み方の選択なのである。」


どんな道にも、その道なりの幸せになり方、悩み方がある。

病とともに生きていくという方法も、十分にありえる選択なのである。なるほど。


講演会の後は、久々に漫画喫茶にいって、医大の同級生に進められた漫画を

読破。タイトルは『ぼくらの』。かなり暗い内容だが、いろいろ考えさせられる。


夜は、丸太町のバーで日本×オランダ戦の応援に同級生と参戦。

残念ながら日本は負けてしまったが、かなりいい試合だったように感じた。


試合の後は、三条河原に座って、みんなでだべる。

サークルや部活での人間関係やらいろいろ悩みがあるらしい。

そういう集団作業から身を遠くに離している僕には、関係のない話ではあるが。


グレッグ・イーガンやヘルシングなど、新たに読んでみたい本も

同級生に紹介された。刺激をもらうということはよろこばしいことである。

しゃべっているうちに、いつのまにか朝が白じんでくる。


早朝にラーメンをいただいて、そのまま家に帰って、たちまち爆睡。

起きたら昼過ぎになっていた。来週の授業の予習をして、ランニングをして、

あっという間に時間がたつ。やることをやったあとは、自分の好きな本を読む。


部屋の窓から空をみると、あんまりすっきりしない雲の様子だ。

雨が降るかなぁなどと考えながら、本を置いて、窓に近寄って空をじっくり見てみた。

とたんに、体中の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じた。


そのときふと、生きることと、天気予報はなにかしら似ているのではと思いついた。


どうしたらいいのかを考えることと、天気を予報することは、どちらも、限られた情報を

もとに世界「読む」作業を必須とする。

今は、人工衛星の雲の写真や、何十年もの天気の情報が蓄積されているけれど、

むかしの人にとっては、天気の予報は、いろんな知識と経験を総合して立ち向かう

大きな課題だったのだろう。


自分で、天気を予測してみるのも、悪くないという気がしてきた。

僕の予想では、明日は曇りである。 はたして結果はいかに??