あっという間にGWである。そう書いてみるだけでなにやらよろこばしい。
世間が浮足立っているときこそ、いつも浮いてる足を必死に地につけようとする僕であります。
さて、話は大きくかわるが、「神秘」とはなんだろうか?
信仰の「神秘」、存在するという「神秘」。
こうした表現から考慮して、僕は「神秘」の意味を次のように考えている。
「そうなっている理由をどうしても考え付くことのできないような事態」=「神秘」。
すると、次のようなことになってしまいはしないだろうか?
まず、信仰が神秘であること、存在が神秘であることが誤っていない、と仮定する。
このとき、なぜ信仰するのか?と聞かれて、「神がそう命じるから」などと答えられるならば、
その答えを出した人が思い描いている意味での「信仰」は本当の「神秘」ではない。ゆえに、
その人の「信仰」は、正確な意味での「信仰」ではない、、と。
あるいは、なぜ存在するのか?と聞かれて、「神が創造したから」と答えられるならば、
そのように答えられてしまう意味での「存在」は「神秘」ではない。ゆえに、答えられてしまう
意味での「存在」は、正確な意味での「存在」ではない、と。
逆に、信仰も存在も「神秘」ではない、と仮定することも可能だ。
その場合、本当に「神秘」と呼べるような事態とは何かを考えてみることが大切になるだろう。
ここで大切なのは、
考え付くことのできた理由が適切なものかどうかの吟味が重要でない、ということだ。
たとえば、「神が創造したから」という理由が納得のいくものであるか、その点を考えることは
重要ではない。
なぜなら、いかなる理由をもどうしても考え付くことができない事態こそが「神秘」なのであって、
なんらかの理由が(たとえ適切ではない理由だとしても)考え付くのであれば、その事態は
本当には「神秘」とは言えないと僕は思うからだ。
このように、「神秘」について考えてるうちに、僕はだんだん「神秘的事実」という言い方が
不正確だなと感じるようになってきてしまった。
おそらく、正確には、神秘的ではない事実なんてない。
もっと正確には、事実そのものよりも、その事実が事実であると「言える」ことのほうが、
「神秘」という言葉にふさわしい。
事実が事実であると「言える」ということ、これこそが滝沢克己がいうところの「原事実」だと
僕は考えている。その「原事実」は、事実よりもさらなる神秘だということになる。
たぶん、事実と神秘が厳密に重なっていることを直観する立場、それを理解・直観できれば
滝沢克己のいっていることは腑に落ちてくるだろう。