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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

漢文のお勉強の助けになればと、白川静先生の『孔子伝』(中公文庫)を読む。


中学生のとき、漢文の時間に『論語』を読まされたが、あんまりおもしろく感じなかった。

何才で耳に従うとか、天命を知るとか、そういうのは経験論にすぎないのではないかと、

思っていた。もし、孔子の言葉が、長生きしたら誰もが自ずからわかるようになることだとすれば、

別に若い時に読む必要はないと僕は思っていた。おまけに、孔子の言う「天」がよくわからない。

「天」をちゃんと説明しないとダメでしょと僕なりに考えていた。


そのような僕の孔子のイメージを、白川先生の本は見事にひっくり返してくれた。

白川先生の孔子論は、孔子の「仁」を、西欧で言うことろの「ロゴス」として理解している。

そこがおもしろい。


ロゴスは、ギリシャ語で「言葉」、「秩序」を意味する単語である。

孔子は、古代中国の伝統(儀礼、音楽、祭祀など)を深くまなび、

種々多様な伝統に通底する「意味」を極限まで追求した。

そして、多様な伝統の根底にあって、それらの伝統を形作るところの「真理」として、

「仁」を発見するに至ったのだ。

つまり、孔子の「仁」とは、人が生きているというその事実そのものを成り立たしめるもの、

すなわち世界を形作る「ロゴス」の働きに他ならない。


したがって、孔子が周公旦の時代を理想化したという通説は、もう一歩つっこんで解釈しなければならない。

孔子は、周の時代に行われていた「儀礼」を理想としたのではない。

白川先生が丹念に論証するように、儒教の述べる儀礼は、実際には周時代には行われていなかった。

孔子が理想としたのは、周の時代に行われていた、神(天)の声(仁)を聞くという「精神」なのである。

孔子は、周の時代に行われていなかった儀礼を、「仁」にしたがって新たに作り出したのである。


ここにいたって、孔子が自らを評して「述べて作らず」という真意が明らかになる。

通常の解釈では、孔子が言おうとしたのは次のようなことである。

言葉を書物に著すと、意味が固定化するので、それをさけるために孔子自身は本を書かないのだ、と。

しかし、エクリチュール(書き言葉)に対するパロール(話し言葉)の優越を孔子は言っているのではない。


白川先生の説によれば、孔子が「述べて作らず」といった真意は次のようなことである。

神(天)の声を聞き、その声を自らの言葉として述べるのが孔子自身だといっているのだ。

つまり、孔子は、神の声を聞くものであり、決して世界を成り立たしめる創造者ではないということなのだ。


このような白川先生の孔子像は、非常にキリスト教やギリシャ哲学との接点を感じさせる。

というようなわけで、僕にとって、わけわからんことを言っている人にすぎなった孔子が、

にわかに真理の探究者に見えてきた。「仁」が「ロゴス」のことであれば、あいまいなのも

しょうがない。なぜなら、物事を明確に表現するためにはロゴスが必要であり、

そのロゴスそのものを明確に表現する手段を、人間は初めからもたないのだから。


この本は、思想史的にも興味深い指摘を含んでいる。


通常、荘子は儒教の批判者であり、孟子こそが正統な儒教の継承者といわれる。

しかし、白川先生は、孔子の「仁」を正確に理解し、さらにつきすすんだのが荘子の「道」であり、

逆に、「仁」と「義」を並立させる孟子の立場は、思想史的には、孔子からの後退だというのだ。


つまり、孔子の精神をノモス化(=道徳主義化)したにすぎないのが孟子であると白川先生は指摘する。

逆に、独善的といわれる荘子の「道」こそ、反ノモスという点で、孔子の精神を正統に受け継いでいるのだ。


では、孟子に対する白川先生の評価は低いのかというと、そういうわけでもない。

孟子が孔子の精神をノモス化(=律法化)せざるをえなかったのは、孟子の生きた社会が、

もはやノモス化しなければ、秩序を保てなかったからに他ならない。

つまり、孟子は、神(天)の声をだれも聞かなくなってしまった時代を生きたがゆえに、

ノモス化せざるをえなかったのだ。


ノモス化の弊害は、孔子の言葉がそのまま格言になるのに対し、孟子の言葉はことわざどまりだ、

という点に如実にあらわれていると白川先生は指摘する。


なるほど。めちゃめちゃ面白い。


荘子は一度たりとも読んだことがなく、論語も大学時代に読んで、やっぱり「あいまいだ」といって

途中で読むのをやめてしまった僕であるが、この『孔子伝』を読んで、やおら古代中国の思想も

読んでみたくなってきた。


白川先生のおっしゃるごとく、現代は、ものすごくノモス化が進んでいる時代である。

このような時代に、神あるいは天の声について語ることは、つねに眉唾ものとみなされる。

しかし、本当に確かなものとはなんだろうか。


道徳や、法律や、常識という現代のノモスも、その究極的な根拠をノモス内に見出すことはできない。

なぜ法律をまもらなければならないのか、なぜ常識に従わなければならないのか、

なぜ物をぬすんではならないのか、という問いは、ノモスによって立ててはならない問いとされる。

これがノモス化の正体である。ノモスは、ノモス自身の存在を脅かす問いを、規範によって押さえつける。

この仕組みを取り込むことによって、ノモスは生きながらえてきた。


しかし、ノモスはピュシス(nature)に基づいて初めて意味をもつものではないか。

人間が存在してはじめてノモスは意味をもつのではないか。

であれば、人間とはなにか、ということをもっとしっかり考えるべきだろう。

そのようなところまでいきつけば、人間とは「仁」によって成り立つという孔子の思想の意味は、

つねに読み返すべき輝きを取り戻すのではないだろうか。


小さな文庫本ながら、爆発力を秘めた真剣な書物である。

唯一気になったのは、白川先生が、ロゴスとイデアをほとんど同じニュアンスで使っていること。

ロゴスとイデアには、もちろん共通点もあるけれど、微妙な点で違って理解されているのが通常だろう。

だとすれば、仮にロゴスとイデアが根底では同じことを意味しているとしても、もうすこし精密に、

使い分けないと、誤解を招くことになると思うのだ。


でも、そんなことは、この本の魅力の前では、些細な問題に過ぎない。

『エヴァンゲリオン劇場版:破』を拝見してきた。


今回の劇場版をみて強く感じたのは、「アニメーションのおぞましさ」だ。


エヴァ初号機を暴走に導くシンジの衝動的な表情は、あまりにもおぞましい。

このおぞましさは、どこからきているのだろうかと考えてみる。

僕が行き着いた答えは、『スカイ・クロラ』についても書いた事と重なっていた。


「アニメーションの表情が、決定的に人間の表情とちがっている」からこそ「おぞましい」のだ。


言い方を変えれば、実写映画は俳優が演じているからこそ、

おぞましくなりきる一歩手前で救われる余地があるのではないか。


俳優は、俳優自身の顔をもち、表情をもっている。

どんなにおぞましい表情をしていても、生身の人間が演じている限り、

観客は、俳優自身がおぞましいとは感じないし、考えないだろう。


しかし、アニメーションの場合は違う。

アニメーションは、生身の人間がもっている表情を正確には再現しない。

だから、シンジのおぞましい表情は、人間の表情としてはどこかしら「いびつ」になってしまう。

しかし、その「いびつ」さがゆえに、生身の人間の表情以上に、「おぞましさ」を感じさせる表情に

なっていないだろうか?


同じことを、他者論の立場から考え直してみよう。

実写映画の場合、観客は、俳優の演技に自分の感情を重ねて鑑賞しているだろう。

しかし、俳優という生身の存在は、どこまでいっても観客にとって他者ではないか。

観客は、俳優の演技を、自分ではない、他者の振る舞いとして理解している。

それゆえに、「映画とは本質的に覗き見である。」(加藤幹郎 ”ヒッチコック『裏窓』 ミステリの映画学”)


しかし、アニメーションの場合、キャラクターは観客にとって完全な他者ではない。

キャラクターが質感を失った存在である(=生身の人間ではない)からこそ、

そのキャラクターは、観客にとって、異質な存在としての他者としてよりも、

観客自身に近い存在のように感じることができるのではないか。


つまり、アニメーションにおいては、キャラクターが生身の人間のようなリアリティーを持たないがゆえに、

観客が感情をキャラクターに投影しやすいのではないか。そう考えられるのである。

言い方を変えれば、アニメーションのキャラクターのほうが、実写映画の俳優よりも、

観客の自由な「意味の読み込み」を許容するとも言える。

ここに至って、アニメーションは「覗き見」をこえて、「観客とキャラクターの同化」を果たしうる媒体で

ありうる可能性が示唆される。


実写映画が「他者を覗き見ること」であるならば、アニメーション映画は

「キャラクターに投影された自己をのぞき見ること」なのかもしれない。


キャラクターに自分自身を重ねる観客は、キャラクターが発露する凶暴性、おぞましさが、

まるで観客自身の内部にはじめから潜んでいたもののように感じられる。

それゆえ、アニメーション映画が感じさせるおぞましさは、観客が自分自身のおぞましさに

直面したところに生じるのだ。


この「おぞましさ」を人類補完計画はどのように癒すのだろうか?

僕は、人間は完全だとは思わないけれど、同時に人間を補完する必要もないとおもっているのだが。

次回作も楽しみである。

ついに衆議院が解散されて、どうやら総選挙が行われるようである。


テレビでは、「政権交代はおきるか?」というテーマでキャスターがいろいろとしゃべっている。

あげくのはてに、NHKでは「今回の選挙に有権者は何をのぞむのか」とインタビューをするしまつ。


有権者は選挙には何ものぞんではいない。

もし、望んでいるという人がいたら、それはちょっとした勘違いだ。

有権者は、選挙に期待するのではなく、選挙後の国の政策に期待するのである。


そんな風に感じてしまう僕にとって、政権交代が起きるか、起きないかという興味はあんまりない。

自民党がなろうと民主党がなろうと、ほんとうにどっちでもいい。

どっちになっても、「国」はあんまり変わらないだろうという感じがすごくするからだ。


僕が小学生の頃、日本新党の細川さんが総理大臣になり、はじめて自民党は下野した。

でも、気がついたら、いつのまにか、また自民党が政権に返り咲いていた。


大切なのは、自民党が下野しているときと、返り咲いたときで、

「何かが大きく変わっていたという記憶」がまったくないことである。おそろしいほどにない。

唯一の変化は、選挙区制度が変わっていた、という点だけだった。


今回、もし政権交代が果たされたとしても、前回の政権交代とおなじような顛末になるのであれば、

「国」がどれだけ変われるか、怪しいものではないか。私の考えすぎだろうか?


いや、「国」が変わるといっても、そもそも何でも変えればいいというものではない。

「現状」は、長い時間をかけて慎重に形成されてきた姿である。

「現状」を形成してきたそのような慎重さの意義を簡単に否定することは、あまり歓迎できない。


大切なのは、「変わるべき点」は何で、「変わるべきでない点」は何なのか、さらには、

なぜそう言えるのかということをちゃんと考えている人がどれだけいるか、そういうところではないか。


某野党党首は「革命的な政権交代という歴史的な使命を帯びて選挙にのぞむ」と言ってる。

かっこいい言葉にだまされてはいけない。それは、小泉首相のときですでに懲りてはいないか?


「聖域なき構造改革は痛みをともなう」という小泉首相の演説はかっこよかったけれど、

改革当時の人たちだけでなく、未来の人まで痛む結果になってしまってはいないだろうか?

かっこよさの代償は大きい。


僕が願うのは、どの政党が政権を担うにしろ、目先の議席の増減に一喜一憂するのではなく、

「国」について将来も含めて真剣に考えた政策がおこなわれること、それにつきる。


気がつけば、民主党が公明党と連立していた、などというオチだけは勘弁してほしい。

もし、そうなれば、まじで「仁義なき戦い」だ(笑)

僕は、不謹慎なことをいっているのだろうか??? 自分でもよく分からない。

相方の誕生日が近づいてきて、僕はプレゼントについて、

重大なことを見落としていたことに気付かされた。


いぜん、このブログにもかいたけれど、

これまでの僕は、プレゼントをもらうこともあげることも、大の苦手であった。


プレゼントをもらったとしても、自分のほしいものをもらえることは少ない。

そもそも、僕の場合、本当に必要で欲しいものと思えるものが残念ながら(?)あまりないので、

「以前からずっと欲しかったもの」をプレゼントしてもらったという経験は、ほとんどない。


たとえ欲しいものとは違うプレゼントをもらった場合でも、その場では喜ばなくてはならない。

もらってしまえば、またお返しをしなくちゃいけないなぁというしがらみに捉えられることになる。

おまけに、どんなお返ししたらいいかは結構難しいから、あれこれと悩まなくてはならない。


だから、プレゼントをもらうことは、あまりよろこばしいことではないし、

プレゼントをくれる人の「好意」はおしつけがましくて苦手だ、というのが、いままでの僕の正直な感覚だった。


というようなわけで、僕からプレゼントをあげる、ということは積極的にはあまりしなかった。

相手が、お返しをどうするかと悩まなくてもいいようにするには、プレゼントをあげないことが一番だ、

僕はそう考えていた。


どうしても、なにかしたいなと思うときは、極力なにか「もの」をプレゼントするのではなく、

手紙を書くことにしていた。言葉は、タダだから、相手に余計な負担を感じさせないと思われたから。

しかも、いい言葉が相手に届いた時の喜びは、なにか具体的な「もの」を贈った時よりも素敵だと思われた。


でも、今日、僕は、プレゼントについて大きく考えを改めた。


相方は、「ほしいと思ってるものをプレゼントでもらえるからうれしいんじゃなくて、

あなたからプレゼントしてもらったら絶対うれしいから、だからほしいのよ」と言ってくれた。


「この人からプレゼントをもらいたい」と思ってもらえるのは、ものすごい素敵なことだと思う。


普通、僕らは、プレゼントをもらったとき、はじめて、「あ、ありがたいなぁ」と感じるものだと思う。

でも、相方は、「この人にプレゼントしてほしいなぁ」という目で僕を見ていてくれたのだ。


それは、とてもとてもとても、うれしいことだと思う。


単に「プレゼントがほしい」という事と、「この人からプレゼントをもらいたい」という事の、

微妙だけれど決定的な違い。この違いを僕は見落としていた。


「この人は大切な人だ」と思うことから、「この人にプレゼントをあげたい」という気持ちが自然にでてくるかは、

僕には、よく分からない。


でも、「この人からプレゼントをもらいたい」と思ってくれる人のその思いには、応えたいと素直に思うのだ。

いや、「応える」ってのもちょっとちがうかもしれない。


でも、なにやら「プレゼントをあげたいぞ!!と」だいぶ前向きに感じられてきたのはたしかなのである。

先日修士論文草稿の一部をゼミで発表した。

なんか、ゼミの人にうまく伝えられていないような、もどかしさが残る発表だった。


論文は、えてしてロジックの積み重ねによる説明になる。

それはしょうがないとしても、ちまちました論証を面白く、かつ分かりやすく言葉で

説明するのは、非常に難しいということをあらためて、感じさせられた。


論理的な厳密さを保ちながら、もっと自由に、考えることはできないだろうか?

そこで、ふと、いままで神学に抱いていた悪しきイメージが払しょくされていくのを感じた。


いままで、僕は、神学を根本的な意味では受け入れていなかったと思う。

なぜ、そうやすやすと「神」という言葉を発することができるのか?

そもそも、いったい「神」とは何か?という問いこそがもっとも問うべき問いではないのか?

いままで、僕はそんなふうに神学をとらえていた。


しかし、そういう僕の考え方は、「説明できなくては意味がない」、

あるいは、「説明できないことはうけいれられない」という、

悪しき意味で哲学的、科学的な偏見に過ぎなかったのではないだろうか?


これまで、僕は、次のように考えていた。

もし、神を論理的に語ることができないとしても、

なにゆえ神を論理的には語れないできないのかというその点までは、

論理によって説明していかねばならないのではないか?


どこまでも論理的に突き詰めていこうとして哲学がいきづまるところ、

その地点にいたってはじめて、そこから神学がはじまる可能性が開けるのではないか。

僕はそう考えていたのだ。

そう考える僕にとって、神学が飛躍に満ち、厳密さを欠いた思考にみえるのはいたしかたない。


でも、神学が内にはらむ飛躍は、哲学とは別の仕方で、厳密でありうるのではないか。


たしかに、神学は飛躍の結果しか言葉にしない。

しかし、神学は、飛躍の結果を言葉にすることで、飛躍のときの踏み台となっているもの、

つまり「神」の存在を、告げ知らせようとし続ける営みと言えるのではないか?


その意味で、神学は、「神」についてすでに気付いている人にしか理解できない営みなのかもしれない。

そして、ある意味で、神学は、「気づいている人」にむけた信頼にあふれた言葉の積み重ねではないか?


と、またうだうだと考えていくと、

神学の飛躍は、他者を「気づいている人」として信頼しているぞ、という証しのような気がしてきた。


そのとたん、神学の飛躍は、論理性・厳密性の欠如ではなく、

「のびやかさ」の顕れだと感じられてきた。


だから、神学は、その根底に明るいものをもつのではないか。

神学には、哲学のような暗い点がない。

(逆に、明るいと表現しうる哲学者を、僕はベルグソンしか知らない。)


まわりからみると、神学の「そんなバカな」という飛躍に満ちた話の展開は、

もともとは、他者への全幅の信頼が生んだ「のびやかさ」だったのだ。


ただし、その「のびやかさ」は、「気づいている人」にとってのみ「のびやかさ」である。
もし、「気づいていない人」が神学の飛躍を利用したとしたら、そこには恐ろしい勘違いが生まれるだろう。

他方、哲学の緻密さは、徹底的に誤解を防ごうとするがゆえに、その歩みはひどく遅い。


だから、神学のほうが、哲学よりも「のびやか」であるというとき、

同時に、神学のほうが、哲学よりも、誤解された時の損害が大きい、といえるのではないか?

なるほど。どうりで。


「のびやかさ」は非常に重要な意味において、もろ刃の剣なのだ。