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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

アウグスティヌス研究、トマス・アクィナス研究の大家、

山田晶先生の『アウグスティヌス講話』(講談社学術文庫)を読んだ。


教会で話された講話がもとになっているので、非常に柔らかい語り口で、わかりやすい。

タイトルからは、アウグスティヌスの解説本か?という印象をもたれるかもしれないが、

どちらかというと、「煉獄」、「創造」、「終末」、「ペルソナ」など、キリスト教の主要なテーマを

山田先生自身の関心に引き付けながら明快に説明する本である。

アウグスティヌスの思想は、参照されるものの、決してこの本の本流を流れていない。

あくまでも、山田先生自身の強靭な思考が、しっかりとこの本を形作っている。


山田先生のすごいところは、純粋な意味での、丁寧な思考をされているところだ。

例えば、アウグスティヌスやトマス・アクィナスという西洋の大物だけでなく、

道元や源信、西田幾多郎といった日本の思想にも山田先生の配慮はおよぶ。


また、山田先生は、キリスト教の伝統的な教義すらも、「聖書に書いてあるから正しい」と

うのみにするのではなく、伝統的な教義とその解釈を咀嚼し、それらに疑問を抱き、

その疑問に自分なりの回答を考えていくという仕方で、ひとつひとつ思考の糸を紡がれている。


本当の思考というものは、最終的には、テキストを根拠とするのではなく、

自分で考えて納得できるかどうか、その一点にだけを信頼してなされるべきだ。

その意味で、山田先生のキリスト教思想への深い理解、しかも現代の日本の状況における

キリスト教の意味を考えることを忘れない態度、これらは本当に読む者の胸を打つだろう。


いくつか、気に入った言葉を引用しておきたい。


この世は苦しいことにみちている。さながら煉獄である。しかし地獄であるとはいわない。

なぜならこの世はくるしいけれども希望があるからです。しかしもしわれわれがこの世の中で

絶望したら、そのときこの世は地獄になる。(文庫107頁)


一つ一つの小さな日常の行為において、われわれは尽十方界を洗浄するということです。

つまり、道元の言葉で申しますと、米一粒洗うにも、その粒一粒を細やかに洗うという行為において、

実はこの宇宙全体を洗っているのである、洗浄しているのである、そういうことをいっています。(文庫169頁)


自分が世界の一部として自覚される、しかもそれが、単に偶然的な、あってもなくてもよい、

ちっぽけな一部ではなくて、世界を成り立たしめている本質的な一つの部分として自覚されること(文庫174頁)


いつ来るか分からないものを待っているという、目ざめて待っているという、その待ち方、

それがわれわれに課せられているのではないでしょうか。(中略)待つということが、人間同士の

愛の浄化作用をするのではないでしょうか。(文庫版208-209頁)


われわれが具体的に社会に寄与することのできる確実な一つの方法があります。それは、

われわれの一人一人が、自分の中に神の憩いの空間を持って、この騒がしい世間の中に

住むということです、いうなれば、われわれの一人一人が、この社会における静かな空間に

なるということです。そのことが結局においては非常に具体的に、また非常に現実的に

この社会を静かにしていゆくことになるのではないでしょうか。(文庫252頁)


とてもわかりやすいが、含蓄のある言葉だと思う。


世界を洗う。日常のひとつひとつの行為が、世界を支えているという考え。

このあたりは、村上春樹の「文化的雪かき(ダンス・ダンス・ダンス)」のモチーフにも通じるだろう。


世界のなかに自分がいて、その自分が含まれた世界をみている自分がいるという自覚。

けっして、世界と自分が向き合って相対しているのではない。

このへんは、西田幾多郎の「行為的自己の哲学」のモチーフに重なるだろう。


山田先生のもっと学問的、理論的な著作にも機会をみつけて触れていきたいと思わされた。

静かで丁寧な思考を、僕も心掛けたいものである。

土曜日の午後。


今度授業で、ディベートをするのだが、その下準備をするということで、

同じ班の人(ほとんどが学部生の若者!)と集まって話し合うことになった。


若者たちが集合場所に指定してきたのは、キャンパス内でもっともオシャレな校舎。

少々気は引けるものの、勇気をだして行ってみることにした。


やはり、とても、おしゃれだ。


つっかけ草履+ぼろジーンズという自分のモサイいでたちが、

浮いてしまうのでは…と少々心配していたのだが、予想に反して問題なかった。


ぼくの恰好は、たしかにおしゃれ校舎のなかで雰囲気を乱していた。

けれど、僕自身はその事実が、あんまり気にならなかったのだ。


慣れというのは、おそろしい。


さて、班員があつまて話し合いがスタートしたものの、30分ぐらいすると、

議論がにつまり、みんながウンウン言い出したので、とりあえず休憩することにした。


僕は、いつもどーり、コーラを買おうと自動販売機置き場にいってみると・・・


Nothingness of Sealed Fibs

なんだか、すてきな表示を見つけてしまった、のだ。


このきもちは、いったいなんだろう?

このなんともいえない、温かい気分はなんなのだろう!


ちょびっとテンションが上がったので、僕は予定通りコーラを買い、

そのおかげかどうかはしらないけれど、無事に話し合いは終結に向かったのだった。


めでたし、めでたし。

三木聡監督の最新作、『インスタント沼』を観てきた。

『転々』に続いて、またまた快作である。笑い転げさせていただいた。


Nothingness of Sealed Fibs-インスタント沼

ストーリーはうまく説明できない。

というか、この映画のディテールは物語を超えていて、うまく物語を説明したところで、

この映画をうまく見れていることになるのかよく分からない。実際に見てもらうしかない。


三木聡監督が得意としてるのは、何といってもちょっとした日常の中に、ものすごく

楽しいことを見つけるということだろう。そして、たまに、ちょっとどきっとする鋭い

セリフがちりばめられているのが、三木作品の魅力。


今回は、映画のラストのところでやられた。

諸般の事情で賀須電気店(!)の仕事を手伝う麻生久美子の脇を、

恋人を連れた白石美帆が通り過ぎる。

白石美帆は、「今度、あそこのカキ食べに行こうよ!」と恋人を誘う。


これは、強烈なアンチテーゼだ。


「おいしいカキを食べに行く」ことはオシャレだ。でも、どこかしら、

出来合いの作られた「楽しさ」を買いに行っているという感覚があるのではないか。

だとしたら、このタイプの「楽しさ」は、一種の「消費」であり、

みんなが楽しいといっていることをやってみたら、たぶん楽しいだろうという

ある種、確実性の高い、でもある意味で凝り固まった世界観でしか成り立たない。

この世界観では、「みえないものは存在せず、みえるものだけが存在する。」


三木監督は、この「出来合い」の「楽しさ」に対して、別の形の「楽しさ」が、

ちゃんとあるんだよと言っているように僕には思えた。その「楽しさ」は、

「みえないものだって、存在する」というハチャメチャな世界観の延長線上に現れる。


世界は、そのままで楽しくて、可能性に満ちている。

世界を固めるか、柔らかくするかは、人間次第なのだ。


選んではいけない。見出せ。


すでに見えているものから何かを選ぶ自由は、まだ本当の自由ではない。

本当の自由とは、世界をじーっと見つめることで、世界の新しい見え方に気付く事なのだ。


三木監督という人は、面白い人というよりは、面白い世界をよく見てる人なんだと思う。

「これが、俺のみつけた世界の楽しさだ。君がみつけた楽しさを見せてみな。」

この映画を観終わったとき、そんな問いを監督から突き付けられているような気がした。


お金をはらって、映画を見に行っていることは、本当の自由なのだろうか?

むむむ。まずは、自分なりに、「じーっ」と見始めることとしよう。話はそれからだ。

先月、寺町通りの三月書房で『バベルの謎』(長谷川三千子著)を見つけて即購入。

創世記11章に出てくる「バベルの塔」の物語について、常識を覆す探究を行っている。


Nothingness of Sealed Fibs-バベルの謎


ふつう「バベルの塔」の物語は、おごり高ぶった人間が天に届く塔を作ろうとし、

それに対して怒った神が、それまで一つの言葉を話していた人間たちの言葉を

ばらばらにした。それが原因で、現在のような多言語、他民族の世界になった、

という世界の由来を説明するお話として理解されている。


しかし著者は、旧約聖書の原文にもとづいて、上の常識的な理解を批判する。


第一に、バベルの塔は、原文通りに読めば、神の賛美のために作られた一種の神殿であり、

決して、人間の傲慢さを示すための建造物ではない。


第二に、神が一つだった言語を、多言語に分けたとは明確に本文に書いてない。

本文では、神は、「言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにした」と

書かれているだけである。


そして、著者は、バベルの物語を次のように解釈する。


バベルの物語は、もともと一つの言葉を話していた民族が、

神によってその傲慢さをとがめられ、そのとがめの結果として、

言葉をバラバラにされ、多民族、多言語になってしまった、という物語ではない。


そうではなく、神について言葉をもちいて語ることができるという素朴な共通理解が、

ヤハウェによって崩され、「言葉が崩壊した事態」が生じたことを伝える物語である。

「言語の崩壊した事態」とは、「一人一人の発する言葉が、あたかも乳児の喃語の

ように、その人独りの閉じた空間のうちに響くのみで、決して他の人間へとどくことが

ない(中公文庫版376頁)」という状態のことを指している。


ヤハウェは、物質的なものを神の代理物とみなす偶像崇拝を厳しく禁じた。

そのため、人間は、物質的ではない「ことば」をもちいて、宗教を作ろうとした。

この点において、バビロニア語やヘブライ語など、さまざまな言語を話していても、

人々の間では、「神」について「語る」ことができるという共通の理解が成立していた。

しかし、ヤハウェは、そのような、共通理解が可能な言語上の「神」の概念ですら、

「偶像崇拝」であると考えた、というわけだ。


こうして本の結論だけ書いてしまうと、突飛なようだが、

この本の神髄は、その丹念な論証にあり、実際に手に取ってみれば、

この結論にも、かなりの説得力があると感じられるはずだ。


僕自身の感想を言えば、この本はとても面白かった。

欲をいえば、この本の結論でいわれている「言葉をもちいて語ることができない神」が、

そもそもなんなのかという問いが、この本の中では扱われておらず、ちょっとものたりない。

しかし、それは、この本の範囲外だろう。


そこから先は、自分で考えるしかないのだろう。

「言葉をもちいて語れない」という事態の意味は、もはや意味としては抽出できないのかもしれない。

しかし、意味を抽出できない言葉とは、なんなのか。意味を抽出される前の言葉とはなんなのか。

この本が残した問いかけは、めっぽう深い。

教職の授業で、昨年12月末におこなわれた教育基本法の改定内容について

レポートを書いた。


地域と学校の連携や、義務教育の目的の明確化など、現在の教育事情を

反映した改定もある中で、前文の改変箇所について、ちょっと気になる点があった。


旧法では、「われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の

育成を期するとともに・・・」となっている部分が、

新法では、「我々は、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を

尊び、豊かな人間性と創造性を兼ね備えた人間の育成をきするとともに・・・」と

改定されている。


「平和」の希求が、「正義」の希求に変えられ、「公共の精神」、「豊かな人間性と

創造性」があらたにくわえられ、強調されている、とまとめられるだろう。


僕は、「正義」に変えるよりも、「平和」のままにしておいたほうが、良かったのではと

率直に思う。


おそらく、今回の改定は、”「平和」を希求する”が、”「正義」を希求する”に含まれる

という解釈がなされているのだと思う。つまり、「平和を希求する」ということが、

「正義」の一種類と考えられているのではないだろうか。


もしそうなら、僕はその考えに素直に賛同できない。


矛盾するようだけど、僕は、「正義」よりも「平和」がより優先されるべきだとは考えない。

「平和」と「正義」のどちらがより大切なのかときかれても、僕には正直よくわからない。

その問いに答えるは、現実主義と理想主義、アメリカ路線と日本路線の違いなどまでも

視野に含めた複雑な議論が必要だし、おそらく容易に結論が出ないだろう。

なによりも、僕に、そのような正攻法の議論をする力がない・・・。


しかし、しょぼい僕にでも分かることがある。

たとえば、「正義」を希求するがゆえに「平和」が曲げられてしまうような事態と、

「平和」を希求するがゆえに「正義」が曲げられてしまう事態とがあるとき、

後者のほうがまだマシであると、僕にはハッキリと感じられる。

これは、いたって普通の感覚だと、僕自身は思っているのだが、どうだろうか?


もちろん、たいていの場合、「正義」と「平和」は重なるだろう。

「正義」が守られないから、「平和」が実現しないんだという意見はよくある。

この意見においては、「正義」と「平和」は同じ延長線上にあると考えられている。

でも、注意すべきは、上とは逆の意見が、ほとんど聞かれないという点ではないだろうか。

つまり、「平和」が守られないがゆえに、「正義」が実現しないんだという主張は、ほとんど言われない。

だから、やっぱり、「正義」と「平和」は微妙なところで確実に違っている、と言えるのではないか?

「正義」と「平和」が重なっていない領域があることについては、もうちょっと厳密に考えてみるのは、

結構たいせつなことなのではないかと思う。


つぎに、別の視点から、「平和」を希求するほうが「まだマシ」であることを補強してみよう。


現代は、たくさんの「正義」が乱立しているといえるだろう。

人には人それぞれの、国には国ごとの「正義」がありえる。(アメリカはそう思わないと思うけど)

言いかえれば、「なにが正義か?」という問いへの答えには、相当のバラつきがある。

一方、「なにが平和か?」という問いへの答えは、「正義」ほどはブレが少ない、と僕は思う。


ならば、「平和」か「正義」か迷った時に、よりブレのすくない「平和」を希求する、

というのは割と的を得た発想だと思うのだが・・・いかがだろうか?


以上のような理由で、僕は「平和」が「正義」に変わってしまった今回の教育基本法の改定に

ちょっとした危惧を抱くのではあるが、ちょっと考えすぎだろうか。


おもいすごしであればいいのだが。