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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

谷川俊太郎さん、覚和歌子さん、丸尾めぐみさんによる、

「歌と詩の朗読ライブ」というものに、いってきた。


谷川さんが監督を、丸尾さんが音楽を担当されている

写真映画『ヤーチャイカ』も同時上映。


Nothingness of Sealed Fibs-ヤーチャイカ

この映画には、ひそかに僕が応援している尾野真千子さん(『萌の朱雀』や『殯の森』で有名)

が出演しているので、ぜひみたかったのだけれど、上映時間がちょうとラテン語の授業とかぶってて断念。


ライブの時間にも別の授業が入っていたのだが、

大好きな谷川俊太郎さんを、なまでみれるということで、

当然、授業はさぼらせていただいた。


はじめてみた谷川さんは、写真でみていたイメージよりも小柄。

ジーンズとTシャツをきた、やさしそうな、1931年生まれのちいさな体の詩人。


威圧感ではなくて、余韻。

オーラではなくて、みずみずしさ。


人間の目に、残像という現象がみられるように、

人間の耳に、残響が聞こえているのだとしたら、


谷川さんには、たしかに残響のような余韻を感じさせるものがあった。

その残響を作るのは、詩人の自信なのかもしれない。


10代のときに書かれた詩と、同じような内容を、今でも書かれることが、

あるそうだ。


世界でも、宇宙でもない、コスモスが好きだとおっしゃる谷川さんには、

全身で、現象を受け止めきるための、どこまでも新鮮な感性が、

ほとばっしてらっしゃる、そう思われた。


僕も、残響のような余韻の中を、生きていたい。

心がキューっとなった。

ゼミ発表のおかげで、徹夜。

あいかわらずぎりぎりなしあがりに、ひやひや。

いいかげん、余裕でのぞみたいですよ。


書きたいことはきまってるけど、

いざ、ちゃんとことばにしていくと、

いいたりないところ、いいすぎなところが

たくさんでてくる。


いか、おまけ。




いつも ぼくは さいご

きっと きみの おまけ

だから きみは やがて

じつは つぎの はじめ

きみも ぼくも あすは

そんな ふうに せかい

ふたり ちがう おなじ




言葉は、不思議た。

とくに、日本語は。


だれにもきづかれない世界の蠢動のリズムが、

言葉を生み出している、なんてことがあってもいいと思う。

たべてきてしまった。

Nothingness of Sealed Fibs-超こってり

天下一品の「超こってり」!!


一部の店舗でしか売っていない、裏メニューの「超こってり」。

天下一品三国店で食べられるという情報を後輩がもってきたので、

野郎四人で大阪までいざ出陣。


店員さんに、おそるおそる「超こってりってありますか?」と聞くと、

間髪をいれずに「はい、あります」とのこと。


ほっとしつつも、ビビりながらまっていると、出てきたのは、

あのドロドロ「こってり」の上に、さらに背油をのせるという、

まさに、これでもかの一杯。


味はとっても濃厚だ。いや、濃厚すぎる。

もはやビールのおつまみを軽く超えている。

超こってりを食べて直後に水分がほしくならない場合は、

いちはやく病院に行ったほうがよいだろう。


ちじれ気味の細麺を頼んだ後輩は、スープが麺にからみすぎて、

麺を食べ終わる頃にはスープがほとんどないありさま。

おそるべき”こってり度”である。


食後には、期待にたがわぬ胃のどんより感が到来。予想通り。

この様式美はクセになる。



はじめは「おいしい」と思わなくても、いつのまにか、「うまい」と

思ってきてしまうのが天下一品の魅力。

また思いだした頃に食べに行こう。

本日は葵祭。下宿の目の前を行列が過ぎて行った。

お祭りの行列だけではなくて、見物客の行列も。


祭りがあって、祭りを楽しみに見に来る人がいる。

それぞれの人がそれぞれの思いで祭りを眺めるとき、

祭りという一つの場所から、無数の思いが生まれている。

それは、とても不思議なことなのかもしれない。


さて。


先日、父親から問い合わせをうけて、一つの絵について調べることになった。

George Frederick Watts というイギリスの画家の「Hope」という作品。


Nothingness of Sealed Fibs-hope

結構有名な作品らしく、簡単に調べ物は終わった。

しかし、用が済んだ後も、なんかこの絵のことがちょくちょく頭に戻ってくる。

僕はあんまり美術とか理解するセンスをもたないけれど、この絵は美術という枠を超えて、

ものすごくガサツな僕の心にも分かるなにかを、なんか語ってくるように思われる。


僕らが普段「Hope=希望」という言葉からイメージする感触よりも、

この作品は暗いものを湛えている。


目隠しをされて、星の上にうずくまったこの人は、

自分の指で奏でた竪琴の音に全身全霊をかけて耳を傾けているようにみえる。


もし、この人が聴いている音こそが「希望」であるなら、

この絵の中に描かれていないものをWattsという人は、

「希望」として描いているということになる。


見えるものと、聴こえるものはちがう。

目に見えるものは、主体の前にしか現れないのに対して、

聴こえるものは、主体を包む。

そんなことをこの絵は言っているのだろうか?


あるいはむしろ、見えるものに「希望」を見いださない、

「希望」をごまかしにしてはならない、そんなスタンスを表現しているのかもしれない。


いずれにせよ、この世界に息づいているということ、

そのこと自体を、いいことも悪いこともふくめて、

そのまま受け入れた後にありうる「希望」は、

この絵のようなある種の暗さをともなうものなのかもしれない。


「せん方尽くれども、のぞみを失わず」

という曽祖父の座右の銘が、思い出された。

GWで祖父母の家まで、畑仕事を手伝いに行ってきた。もう80歳になる祖母はひとりで家の裏にある畑の面倒をみている。すこし、腰をいためているのに、ひとりでもくもくと畑仕事を続ける祖母をみていると、頭が下がる。

 

祖父母の家には、僕が大学時代に読み終わって、今は手元に置いておかなくてもいい本を

 

置かせてもらっているのだが、帰省するたびに、昔の自分が読んだ本を読み返したりすると、

自分が書いたなつかしい書き込みとかがみつかって、面白い時がある。

 

今回は、いろいろ進路に迷っていたときに初めて読んでみた哲学の本、『哲学入門』 カール・ヤスパース著 新潮文庫に、自分の書き込みを見つけた。

 

死や苦悩という不可避の苦しみに対して、「幸せ」あるいは「幸福」は解決策ではない。死をのりきるには、幸福以外の「意味」で戦わなければならない。幸福は苦悩、死を乗り越えた結果であり、決してのりこえるための手段ではない。

 

我ながら、若気の至りである。

 

それにしても、ヤスパースの文章は簡潔で明晰だ。ヤスパースは精神医学者としてスタートしながら、途中で哲学に転向した。同時代のハイデガーのようにおもわせぶりでかっこいい言い回しはないけれど、非常に、きっちりした分かりやすい文章が並んでいて、個人的には好きである。

 

いくつか僕が線を引いているヤスパースの文章を引用してみる。

 

「哲学は争うことも、証明されることもできない。しかし伝達することはできるのです。哲学は非難されても何らの抵抗を示さない。哲学は耳をかされることがあっても、勝ち誇らない。哲学は人間性の根底において、あらゆるものをあらゆるものと結合することがてきるところの、心の一致性に生きているのであります。」

 

「世界の”中”には神は決して存在しない」

 

「哲学の本質は伝達可能性そのものである」

 

「神は知的内容として確実であるのではない。むしろ神は実存にとって顕であることとして確実なのだ」


「神の信仰の根源性はあらゆる媒介者を拒否します。」

 

『哲学入門』は、一般の人向けのラジオ講演を本にしたものだけど、初めて読んだ時に、「包括者」という術語で「神」について臆することなく言及されているのに、心打たれた。当時の僕はまだ、生物学の畑にいたから、「神」なんて怪しいものを、現代の哲学者が堂々と語れるなんてことはないんだろうと思っていた。

 

真理は、科学的な真理以外にもありえる、ということに気付いたのは、『哲学入門』を読んだあとのことだったけど、そのことに気付いて以降、ヤスパースの言葉が、ものすごく分かりやすいことにも気がついたのだ。久々に読み返してみると、ヤスパースの文章はやはりものすごく僕になじんでくる。

 

思想のおもしろさには、久々に再会した知り合いと、なんか妙に意気投合することも含まれているのかもしれない。ついでにいえば、久々に再会したむかしの自分と今の自分との違いを楽しむことも、含まれているのだろう。