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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ゴールデン・ウィークになって、頭がゆるんできたせいか、

へんてこな考えが浮かんでしまった。


神と人をつなぐためにイエス・キリストが必要なのではなくて、

人がイエス・キリストにとどくためにこそ、神が必要なのだ。


この発想を今風に言い換えれば、こんなかんじだろうか。


私は、他者に出会うことによって神に届くのではなく、

私は、神に出会うことによってこそ、他者に届くのだ。


僕が、誰かと気持ちが通じ合っていると感じる時、

その感覚が、僕のたんなる思い込みに過ぎない可能性をぬぐいさることはできない。

なぜなら、相手に僕の思いが、僕の思い通りに理解されているかを確かめる方法が、

僕にはないからだ。


もちろん、相手の振る舞いや細かなしぐさから、僕の思いがどのように理解されているか、

推測することはできる。しかし、それはあくまで推測であり、確証にはならないのだ。


にもかかわらず、僕は、普段の生活において、僕の思いが、相手に伝わっていると確信できる

瞬間があることを知っている。


その確信は、上の説明のとおり、なんの根拠もない、いわば「無根拠の自信」みたいなものだ。

しかし、たしかに、そういう瞬間はある。そんなにたくさんあるわけではないが、ちゃんとある。


そういう瞬間に触れた時、僕は、僕にはどうしようもない出来事が起きているような気がして、

ふと素直な気持ちになって、ありがたいなと思ったりする。


その瞬間を、神と呼ばれる存在が創ってくれているのかどうかはよく分からないけれど、

たまにちゃんと相手に伝わってくれる言葉への、やんわりした信頼感みたいなものが、僕にはある。


でもその信頼感はものすごくよわっちいから、なんどもなんども、おんなじことを言いなおしたくなる。


だから僕があきもせずに言いなおしつづける言葉を、

相手が、あきれながらも、きいていてくれるといいな、と思う。

もちろん、僕もしっかり聞けるようでなくては、ならないけれど。

休憩時間に、吉本ばななをパラパラとチラ読みしてみた。

相方さんに貸してもらったのである。気楽な感じでページを開いたのに、冒頭の一節で、しびれた。


”嵐とは一回キスしただけだ。(中略)

それでも嵐を好きになってから私は、恋というものを桜や花火のようだと思わなくなった。

たとえるならそれは、海の底だ。

白い砂地の潮の流れに揺られて、すわったまま私は澄んだ水に透けるはるかな空の青に見とれている。そこではなにもかもが、悲しいくらいに、等しい。

目を閉じて走っても、まったく違う所を目指したつもりでも、気持ちはいつの間にかくり返しそこへたどり着く。そこはいつもとても静かで、いつも彼の面影に満ちているので、私は目をさますことなく、ずっとそのまま眠っていたくなる。

でもそこだけは決してはき違えない。

私にとっては現実の嵐のほうがずっと大切だ。” 吉本ばなな『うたかた/サンクチュアリ』 角川文庫 6頁


なんだか、これだけの短い文章なのに、すごいおもしろい。


等しさと、静かさは、けっしておなじ意味の言葉ではない。

にもかかわらず、ふたつの言葉がかたどる世界は、おそろしいほどに似ている。

不思議だ。


しかも、この作者は、恋を、桜や花火ではなくて、静かで等しい海の底みたいだという。

また不思議だ。


人を愛するということは、いつまでも新たな燃料を必要とする炎のようなものではなくて、

人が人であるというそのことの底にはじめから灯されている「あかり」のようなもの、なのだろうか?


本当かどうかはよくわからないけれど、もし、僕の底にも「あかり」のようなものがあるならば、

炎のように明るくないのは当然としても、せめて相方さんには、とどく「あかり」でありますように。


そのページだけ5回くらい読み返してる間に、ぴゅーっと休憩時間は終わってしまった。

続きは、いつ読めるのだろうか。

今日、ゼミではキリスト教式の葬儀をどう考えるかというテーマの発表があった。

それを聞いていて思ったんだだが・・・


礼拝って、もしかして毎週毎週、イエスを偲んでいるのではないか?

だからある意味で、すべての礼拝はイエスのお葬式を、繰り返し反復していると言えるかもしれない。


もし、この適当な思いつきがそんなに的外れではないなら、

世界で、もっとも偲ばれている人間は、まちがいなくイエス・キリストだろう。


逆に考えれば、人はそれほどまでに、イエスを失ったことの喪失感にさいなまれたのかもしれない。

フロイトなら、キリスト教を、イエスを殺してしまった人々の自責の念が作り出した幻想というかも。


その視点も、あながちすごい的外れとも言えない。

イエスはたしかに、民衆によって殺されてしまったのだから。


だとすれば、イエスが殺されてから、2000年もの間、人はイエスに謝り、弔おうとしてきたのかもしれない。

などと思いついて、しまったが、あくまでもおもいつきである。


いつのまにかサクラの花はなくって、葉っぱの緑がまぶしくなっている。

季節が過ぎるのが速い気もするのだけれど、人間のほうがのんびりだって視点もあるだろう。

人間がもともとゆっくりだからこそ、季節の移り変わりを体感することができるのだ。

同じ理由で、人間は地球の移り変わりや、種の進化、神について、直接体感することはできない。


僕が人として存在していること、それは至極、当たり前のことではあるけれど、

裏から見れば、思いのほか複雑な事態だ。


イエスを賛美する礼拝と、追悼する礼拝。こちらもけっこう複雑なのかもしれない。

なんとなく、今年は教職の科目をとっている。教師志望の若い一回生、二回生らと一緒に受講していると、ちょっとなーと首をかしげることも多い。

 

「教育において大切なことは何か?」 講師のこういうめちゃくちゃおおざっぱな質問に対し、

しっかりと自分の意見をいえる若い学生たち。「学びを愛する態度」とか、「教師と生徒の信頼関係」とか、「親や地域との連携」など、なるほどと思う回答が出てくる。講師は言う。こんなにしっかりと自分の意見をいえるのはすばらしいことだ、と。

 

でも、僕はあんまり、そういった意見を素直に聞くことはできない。

 

なんかどこかで聞いたことありそうな、だれでもおもいつける答えばっかりだし、それを「自分の意見」と表現する講師もいただけない。なにより、そういう答えを出せる人は今までもいただろうにもかかわらず、教育って現実に大変なことになっている(らしい)からだ。

 

ならば、僕はこの問いにどうこたえるか。単純である。

まずは、「たのしい授業ってどうしたらいいか?」っていう難しい問題に、

先生がめいっぱい時間を使って考えられる状況であること。それこそが教師の仕事だ。

 

そのためにも、学校は学力をつける場所であるという認識を徹底して、しつけを学校の仕事にしないこと。学校は道徳を教える場所であってもいいが、しつけをする場所であってはならない。しつけは、道徳以前の問題だ。教師は教える専門職である。

 

不登校など、もろもろの生徒の心の問題に、教師がとりくまないようにすること。不登校が生じるのは、学校にも問題があるのかもしれないけれど、学校がストレス社会であるのは、競争もあるし、めんどうな人間関係もあるし、いたしかたないことだ。だから、学校がストレス社会でなくなることはありえない。ということはつまり、教師がどんなに頑張っても、不登校を生む学校側の原因は根本的には解決しない。だから、ストレスに立ち向かえない子供の心に向き合うのは、家庭や、医者やソーシャル・ワーカーなどに、任せるべきだ。

 

ついでに、「勉強ってなんのためにするのか?」という問いに、教師が自分なりの答えを持っていること。僕なら、その問いにしっかり答えられない教師に教わりたくない。

 

さらについでにいえば、個人個人のよさを評価する絶対評価には、僕はあまり賛成しない。だって、社会に出たら、絶対評価なんてしてもらえない。相対評価しかない。それに、生徒の個性は、学校ではなくて、家族や友達がみとめてあげればいい。きびしいようだが、きびしいのは僕ではなくて、この世界だ。僕自身、この世界のきびしさに押しつぶされそうになるぐらいだし。教育とは、この厳しい世界でサバイブできる人材を育成するシステムでなければ、意味がない。

 

以上、簡潔に。

 

【2016年9月24日追記】

今読み返してみると、いかに僕が教師という職業に後ろめたさを感じながら教職科目をとっていたのかがよくわかる。結局僕は教師にはなれず、医療の世界に片足をつっこんだ。医者という職業にも僕はうしろめたさを感じるのだが、それは、教師に対して感じるうしろめたさとは違うように感じている。その違いはまだなんとなくしか言葉にならない。

 

7年前の僕は「不登校など、もろもろの生徒の心の問題に、教師がとりくまないようにすること」と書いた。これは言葉足らずだ。僕が言いたかったのは、教師に心理学・医学の専門家みたいなしかたで生徒の心の問題に取り組んでほしくないということだ。どんなに学校の友人関係や家庭において問題をかかえていようと、「学ぶという営みを充実させるというアプローチが、生徒の心の問題を和らげる可能性をもつ」ということを教師の皆様には忘れないでいてもらいたい。思いもつかなかったことを知り、ちんぷんかんぷんだったことを理解し、「そうだったのか!」と快哉を上げる経験には、何事にも代えがたい治癒効果と魅力をもつように僕には思われる。

 

また、僕は「教育とは、この厳しい世界でサバイブできる人材を育成するシステムでなければ、意味がない」と書いている。これも今思うと補足説明が必要だ。「サバイブ」とは「社会的成功」ではない。僕は、ほとんど「サバイブ」を「へこたれない」と同じ意味で使っている。地球を飛び回って活躍するとか、企業で業績を牽引するような人材が育つことも大事かもしれない。しかし、そんな人材はたくさんいなくてもよい。むしろ、目立たないところで、地道に、なんらかの激動があったとしてもコツコツと生活を紡ぎ続けるへこたれなさのイメージを僕は「サバイブ」に込めた。僕自身、しんどくなったときには、小・中・高の学校時代に培った記憶と経験に立ち返って考えなおすことがよくある。かつてうまくいったことも、うまくいかなかったことも、どちらも貴重なネタを提供してくれる。学校時代が僕の基盤を形成していることは間違いない。

 

教育において大切なことは、教える側の視点、教わる側の視点でいろいろあるだろう。でも、いろいろな視点から様々な専門的知見が飛び交うと、現場は混乱する。やはりシンプルに、この点は譲れないという「教育の芯」みたいなものを教員が持つことは大切ではないだろうか。シンプルな芯がなければ、複雑多様な視点を整理するのは困難だ。そして、さ迷いながら教職科目をとっていた2009年の僕はたぶん、「学ぶという営みの凄さ」という本来「教育の芯」であっておかしくないはずの事柄が、教育界であまり信頼されていないのではないかと訝しんでいたのだ。

 

過去の自分の文章に注釈をつけるというのは恥ずかしい限りだが、ごくたまにこの記事へのアクセスがあるので、誤解を招くとやだなと思い追記した。考えてみるまでもないが、僕が学びについて思っていることは、別に教育にかぎったことでもなく、患者さんや同僚と接する日々においても通奏低音のような重要性をもつのではないか。その意味では、「教育において」といちいち条件付けなどする必要はなく、たんに「常識」という記事のタイトルにしておけばよかったのかもしれない。そうではないのかもしれない。

 

「困ったことに、私は益々曖昧になってきた。だいたい私は曖昧であることを自分の信条にしてきたものの、それは本来、表現上の方法なのであって、自己の本心は、見せかけとは全く反対に、一本の明白な線で貫かれつづけていることを、誰よりもよくこの自分が知っている」(埴谷雄高『平和投票』)

 

埴谷さんが「一本の明白な線」と呼んだのは小林秀雄的「常識」である。たぶん、「教育において大切なことは何か」というテーマにおいて語られる雑多な事柄よりも、そうした事柄の背後に表現されないままになっている「一本の明白な線」、「常識」、「芯」を7年前の僕は見つけようとしていたのだと思う。

 

お茶はいつのまにか濁り、いつのまにか澄んでいく。

僕の場合、「いつのまにか」が7年間もかかっただけのことである。

あんまり「花見をしようか」などと意気込んでいたわけでもないのですが、

日曜日に相方さんと京都御所を散歩していたら、ちょうどサクラが見ごろでびっくり。

ちゃっかりと、予想外のお花見を楽しんでしまいました。


京都御所のサクラは、密集して植えられていないので、どーん!という迫力には欠けます。

その一方、一株ごとにちょっとずつ違うサクラを堪能するにはなかなかいい場所です。

そのうえ、広いので、見物客の多さに閉口、という憂き目を見ずに済みます。


Nothingness of Sealed Fibs-さくら

生きてる間に、数十回しか桜の季節を迎えられないのだから、

はじめて相方さんと並んで見たサクラを、ゆっくりと、じっくりと一緒に楽しめたというのは、

なかなかうれしい出来事でありました。