今日、ゼミではキリスト教式の葬儀をどう考えるかというテーマの発表があった。
それを聞いていて思ったんだだが・・・
礼拝って、もしかして毎週毎週、イエスを偲んでいるのではないか?
だからある意味で、すべての礼拝はイエスのお葬式を、繰り返し反復していると言えるかもしれない。
もし、この適当な思いつきがそんなに的外れではないなら、
世界で、もっとも偲ばれている人間は、まちがいなくイエス・キリストだろう。
逆に考えれば、人はそれほどまでに、イエスを失ったことの喪失感にさいなまれたのかもしれない。
フロイトなら、キリスト教を、イエスを殺してしまった人々の自責の念が作り出した幻想というかも。
その視点も、あながちすごい的外れとも言えない。
イエスはたしかに、民衆によって殺されてしまったのだから。
だとすれば、イエスが殺されてから、2000年もの間、人はイエスに謝り、弔おうとしてきたのかもしれない。
などと思いついて、しまったが、あくまでもおもいつきである。
いつのまにかサクラの花はなくって、葉っぱの緑がまぶしくなっている。
季節が過ぎるのが速い気もするのだけれど、人間のほうがのんびりだって視点もあるだろう。
人間がもともとゆっくりだからこそ、季節の移り変わりを体感することができるのだ。
同じ理由で、人間は地球の移り変わりや、種の進化、神について、直接体感することはできない。
僕が人として存在していること、それは至極、当たり前のことではあるけれど、
裏から見れば、思いのほか複雑な事態だ。
イエスを賛美する礼拝と、追悼する礼拝。こちらもけっこう複雑なのかもしれない。