教育において大切なことって? | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

なんとなく、今年は教職の科目をとっている。教師志望の若い一回生、二回生らと一緒に受講していると、ちょっとなーと首をかしげることも多い。

 

「教育において大切なことは何か?」 講師のこういうめちゃくちゃおおざっぱな質問に対し、

しっかりと自分の意見をいえる若い学生たち。「学びを愛する態度」とか、「教師と生徒の信頼関係」とか、「親や地域との連携」など、なるほどと思う回答が出てくる。講師は言う。こんなにしっかりと自分の意見をいえるのはすばらしいことだ、と。

 

でも、僕はあんまり、そういった意見を素直に聞くことはできない。

 

なんかどこかで聞いたことありそうな、だれでもおもいつける答えばっかりだし、それを「自分の意見」と表現する講師もいただけない。なにより、そういう答えを出せる人は今までもいただろうにもかかわらず、教育って現実に大変なことになっている(らしい)からだ。

 

ならば、僕はこの問いにどうこたえるか。単純である。

まずは、「たのしい授業ってどうしたらいいか?」っていう難しい問題に、

先生がめいっぱい時間を使って考えられる状況であること。それこそが教師の仕事だ。

 

そのためにも、学校は学力をつける場所であるという認識を徹底して、しつけを学校の仕事にしないこと。学校は道徳を教える場所であってもいいが、しつけをする場所であってはならない。しつけは、道徳以前の問題だ。教師は教える専門職である。

 

不登校など、もろもろの生徒の心の問題に、教師がとりくまないようにすること。不登校が生じるのは、学校にも問題があるのかもしれないけれど、学校がストレス社会であるのは、競争もあるし、めんどうな人間関係もあるし、いたしかたないことだ。だから、学校がストレス社会でなくなることはありえない。ということはつまり、教師がどんなに頑張っても、不登校を生む学校側の原因は根本的には解決しない。だから、ストレスに立ち向かえない子供の心に向き合うのは、家庭や、医者やソーシャル・ワーカーなどに、任せるべきだ。

 

ついでに、「勉強ってなんのためにするのか?」という問いに、教師が自分なりの答えを持っていること。僕なら、その問いにしっかり答えられない教師に教わりたくない。

 

さらについでにいえば、個人個人のよさを評価する絶対評価には、僕はあまり賛成しない。だって、社会に出たら、絶対評価なんてしてもらえない。相対評価しかない。それに、生徒の個性は、学校ではなくて、家族や友達がみとめてあげればいい。きびしいようだが、きびしいのは僕ではなくて、この世界だ。僕自身、この世界のきびしさに押しつぶされそうになるぐらいだし。教育とは、この厳しい世界でサバイブできる人材を育成するシステムでなければ、意味がない。

 

以上、簡潔に。

 

【2016年9月24日追記】

今読み返してみると、いかに僕が教師という職業に後ろめたさを感じながら教職科目をとっていたのかがよくわかる。結局僕は教師にはなれず、医療の世界に片足をつっこんだ。医者という職業にも僕はうしろめたさを感じるのだが、それは、教師に対して感じるうしろめたさとは違うように感じている。その違いはまだなんとなくしか言葉にならない。

 

7年前の僕は「不登校など、もろもろの生徒の心の問題に、教師がとりくまないようにすること」と書いた。これは言葉足らずだ。僕が言いたかったのは、教師に心理学・医学の専門家みたいなしかたで生徒の心の問題に取り組んでほしくないということだ。どんなに学校の友人関係や家庭において問題をかかえていようと、「学ぶという営みを充実させるというアプローチが、生徒の心の問題を和らげる可能性をもつ」ということを教師の皆様には忘れないでいてもらいたい。思いもつかなかったことを知り、ちんぷんかんぷんだったことを理解し、「そうだったのか!」と快哉を上げる経験には、何事にも代えがたい治癒効果と魅力をもつように僕には思われる。

 

また、僕は「教育とは、この厳しい世界でサバイブできる人材を育成するシステムでなければ、意味がない」と書いている。これも今思うと補足説明が必要だ。「サバイブ」とは「社会的成功」ではない。僕は、ほとんど「サバイブ」を「へこたれない」と同じ意味で使っている。地球を飛び回って活躍するとか、企業で業績を牽引するような人材が育つことも大事かもしれない。しかし、そんな人材はたくさんいなくてもよい。むしろ、目立たないところで、地道に、なんらかの激動があったとしてもコツコツと生活を紡ぎ続けるへこたれなさのイメージを僕は「サバイブ」に込めた。僕自身、しんどくなったときには、小・中・高の学校時代に培った記憶と経験に立ち返って考えなおすことがよくある。かつてうまくいったことも、うまくいかなかったことも、どちらも貴重なネタを提供してくれる。学校時代が僕の基盤を形成していることは間違いない。

 

教育において大切なことは、教える側の視点、教わる側の視点でいろいろあるだろう。でも、いろいろな視点から様々な専門的知見が飛び交うと、現場は混乱する。やはりシンプルに、この点は譲れないという「教育の芯」みたいなものを教員が持つことは大切ではないだろうか。シンプルな芯がなければ、複雑多様な視点を整理するのは困難だ。そして、さ迷いながら教職科目をとっていた2009年の僕はたぶん、「学ぶという営みの凄さ」という本来「教育の芯」であっておかしくないはずの事柄が、教育界であまり信頼されていないのではないかと訝しんでいたのだ。

 

過去の自分の文章に注釈をつけるというのは恥ずかしい限りだが、ごくたまにこの記事へのアクセスがあるので、誤解を招くとやだなと思い追記した。考えてみるまでもないが、僕が学びについて思っていることは、別に教育にかぎったことでもなく、患者さんや同僚と接する日々においても通奏低音のような重要性をもつのではないか。その意味では、「教育において」といちいち条件付けなどする必要はなく、たんに「常識」という記事のタイトルにしておけばよかったのかもしれない。そうではないのかもしれない。

 

「困ったことに、私は益々曖昧になってきた。だいたい私は曖昧であることを自分の信条にしてきたものの、それは本来、表現上の方法なのであって、自己の本心は、見せかけとは全く反対に、一本の明白な線で貫かれつづけていることを、誰よりもよくこの自分が知っている」(埴谷雄高『平和投票』)

 

埴谷さんが「一本の明白な線」と呼んだのは小林秀雄的「常識」である。たぶん、「教育において大切なことは何か」というテーマにおいて語られる雑多な事柄よりも、そうした事柄の背後に表現されないままになっている「一本の明白な線」、「常識」、「芯」を7年前の僕は見つけようとしていたのだと思う。

 

お茶はいつのまにか濁り、いつのまにか澄んでいく。

僕の場合、「いつのまにか」が7年間もかかっただけのことである。