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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

昨日、学校の定期健康診断で、視力、身長、体重、レントゲン撮影をやってきた。

特に代わり映えしないかと思いきや、体重が61キロに。一年で3キロ減ったことになる。

社会人やってる間に少し太ったから、その分が戻ってきたのかな。

お酒も減ったし、食事も今は1日に一食しか食べてない。当然といえば当然の結末である。

あらためて、数値化の魔力はスゴいなと思う。

物差しを当てなければ、自分自身の変化についてすら、全くきづかない僕って…やれやれ。

ま、気づきすぎるのもどうかってきがするから、ま、いいか。

去年一年間の僕を「マイナス3キロ」とまとめて表現するという、ちょっとした視点の変化だけ味わって、また1日毎にぼちぼちやってきましょうかね。

そういや、いつのまにか、さくらが咲き始めてる。

みんな咲いてる花だけみてるけど、本気で花をみて楽しいのかな?

ほんとに面白いのは、つぼみが開く瞬間と、花が散る瞬間だと思うのは僕だけだろうか?

セミをみるなら、成虫をみるよりも、脱皮のシーンが一番おもろいし。

花であれ、虫であれ、生命の生命力こそ、僕は見ていたい、などと、ちょっとやせたので、調子にのってみる。

いかんいかん。

修士論文でとりあげる滝沢克己の本を読んでいて、面白いところがあった。

滝沢克己は、ユダヤ人と日本人の絶対的なものをめぐる発想を比較している。


ユダヤ人の発想はこうだ。

絶対的なもの(=神)を、人の目に見えるような形をもったもとのとして表象しきるなんてことはできない。

それゆえに、偶像崇拝は間違いだとユダヤ人は考える。


日本人の発想は、ちょっとちがう。

そもそも目に見える形をもったもののうちに、絶対的なものを見出すことはできない。

形あるものは、いつかは壊れる。形は絶対的ではない。まさに諸行無常。

絶対的なものなど、そもそも存在しないというわけだ。


両者は、ともに、形あるものは絶対的ではないという結論で一致する。

しかし、絶対的なものが存在するかどうかについては、両者のスタンスは正反対である。

ユダヤ人にとって、絶対的なものがなんらかのしかたで存在することははっきりしてる。

他方、日本人にとっては、絶対的なものはどちらかというと、存在しない感じがする。


ふうん。なるほど。


偶像崇拝はおかしいんじゃないか、という答えにおいて両者は一致するが、

その答えにいたる思考のプロセスは全く違う。


これから本を読む時も、字面の下に隠れている思考のプロセスをなんとかつかむようにしないと、

いつのまにか、答えは同じ外形をしていても、中身の全く違う理解をしかねないなぁと。

あらためて肝に銘じる次第です。


学問と言うのはその点が、めんどくさいなぁ。

映画であれば、その映画を面白く見れればそれで十分なのに。

最近、あんまり映画を見る時間がないのだが、不思議と禁断症状もない。

だからこそ、たまに見た作品については、ちゃんと覚え書いておこう。

まずは、だいぶ前に観た作品だが、小泉今日子主演、『空中庭園』。


「家族の間では秘密はなし」というルールで、一見普通に仲良く暮らしてる一家を描いているが、

実は父親は浮気しているし、娘は登校拒否、母親は元ひきこもりという経歴を隠していて・・・という話。

映画の中盤までは、欺瞞に満ち溢れた家族の姿がおどろおどろしく描かれており、観てるうちに、

気分が悪くなるほどだった。


この映画は、ドラマには珍しく、視覚効果に訴える手法を珍しく多用している。

たとえば、舞台となる団地の全景をとらえたショットをゆっくり360度回転させたり、

小泉今日子の顔をエフェクト処理でゆがませたり、といった具合に。

まるで、「あなたの目に見えているのは本当の姿ですか?」と問われているようだ。

ソニンの「おままごとじゃないか!」というセリフ、あるいはそもそも「空中庭園」というタイトルも、

家族が絵空事の上に成り立つ砂上の楼閣なんだという発想をつよくあらわしていると言える。


もちろん、人間なのだから、たとえ家族であっても、相手の本当の姿を分かるなんて無理だと思う。

というか、「これこそこの人の本当の姿だ!」と確信を持って言えるようなしかたで、

一人の人間を丸ごとはかれるような物差しがないのではないか?


だから、小泉今日子演じる母が、素敵な家族を作ろうと頑張っているのは分かるが、

素敵な家族とは、頑張ってできる、あるいは無理して作るもんでもない気がする。

もちろん、なんらかの努力は必要だろうが・・・。


前半はみていて胸糞が悪いこの映画も、終盤になって急速に浄化されていく。

ややオタクっぽい、長男が、母親に「こだわるなよ!」みたいなことを言ってから、みんなの歯車が

少しずつうまく回り始める。


家族の在るべき姿なんてものがあるとすれば、それは現状あるがままの家族である。

どこか遠くに理想の家族があって、今はその理想から遠くて、家族みんなで理想目指して

頑張ろうというのは、なんか息苦しい。

別に、そんな理想の家族像にこだわらなくてもいいんじゃない?と思えたところから、

映画は急速に救済へと向かうのだ。


と、こんな風に書いていると、この映画は重苦しい作品なのかというと、たしかにそういう部分もあるが、

それほどどんよりしてるわけでもない。永作博美という絶妙なアクセントが効いているのだ。


ちょっとへんな人オーラ満載のきれいなお姉さんを演じているときの永作博美は、すごい。

本当にすごい。明るいけど、ちょっと怖くて、なおかつ変というニュアンスの表現にかけて、

永作博美の右に出る人はいない。


というわけで、僕としては、小泉今日子もすごいけど、永作博美にまいりました的な一本でありました。

アカデミー外国語賞を受賞した話題の映画、『おくりびと』をちょっとまえに観てきた。


日曜日だからだろうか、客席は満席である。

ストーリーは、チェリストとして活動していた主人公が、オーケストラの解散にともなって、

地元山形にかえり、納棺師というあらたな生きがいを見出していく、というもの。

題材は至って真面目なのだが、各所にユーモアがちりばめられていて、一気に見せてくれる。


僕は、個人的に、「車を運転してるときのもっくんの横顔」にやられた。


「車を運転しているときのもっくんの横顔」は、3回ぐらいでてくる。


まず、映画の冒頭。雪の中、助手席に山崎努をのせた車を運転するもっくんの横顔が出てくる。

次に、映画の中程。冒頭とまったく同じシーンがでてきて、観客は時間が映画の冒頭に戻ったことを知る。

最後に、映画の後半。自分をすてて蒸発した父の遺体をひきとりに行く途中で、広末涼子を助手席にのせた

車を運転するもっくんの横顔が出てくる。


上にあげた三つのシーンで、もっくんの横顔は、全く同じ構図、アングルで撮られている。

まさに、もっくんの横顔が、完璧に反復されているのだ。


この映画が映画として価値をもつのならば、

この三つのもっくんの横顔が、形としてはまったくおなじもっくんの横顔であるにもかかわらず、

それぞれがまったく違う意味をもっていると観客に解釈されうる、その点に尽きるのではないか、と僕は思う。


同じ形式が、違う内容(意味)を帯びうる。

これが、この映画の隠れた主題だ、そう僕には思えた。


そもそも、人が「遺体」を大切にあつかおうとするのは、もう二度と動きださないとわかっていても、

遺体を単なる物質の塊とは思えないからではなかったか。

つまり、無機質な「死体」ではなく、のこされたからだ=「遺体」と表現するところに、大切さが生じる。

ようするに、遺体を大切に思うということ自体が、形式と内容についての、ある一つの関係性の表現なのだ。


そう考えるならば、この映画は、もっくんの美しい横顔を反復することによって、

人間の死すらも包み込むような、この現象世界の根底にある形式と内容の関係性を、

表現することに成功している、と言える。


というわけで、日曜日の午後は、もっくんの横顔がちらつきまくったまま過ぎた。

広末涼子はどんな気持でもっくんの横顔をみていたのだろうか?

山崎努はぜったいにもっくんの横顔を目で見たりはしなさそうだ。

そういえば、古代エジプトの壁画には横顔しかない。

などと、考えているうちに、いつのまにか僕の中で、もっくんの横顔は殿堂に入った。

相方に続き、久々の横顔殿堂入りである。

大学の後輩たちが、就職でめでたく京都を離れるということで、先週の土曜日、

後輩3人にひとりだけジジイがまざり、レンタカーで日帰り旅行に出かけてきた。


行先は、白川郷。

人名ではなく、地名である。しかも、世界文化遺産とのこと。

幸いにも、めっちゃいい天気で、景色は奇麗に見えた。

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白川郷を一望できる展望台からのショット。

上から見ると、合掌造りというのは、結構かわいらしいものである。

展望台にあがる道は、アスファルトで舗装されているのだが、その上を、

山につもった雪解け水がものすごい勢いで流れていた。

おそろしや、雪国。


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立派な合掌造りの一軒。内部は5階ぐらいになっていて、かなりひろい。

この家は、喫茶&食事処になっていて、ここでカレーうどんをいただいた。

観光地のご飯は、あんまりおいしくないと相場が決まっているが、

ここのうどんは、めっちゃうまい。


屋根にのっかっているワラが、軒のところでざくっときりそろえられていて、

なんか小学生の髪形みたいである。ちょっとかわいらしい。


白川郷を堪能した後は、車で高山まで。

高山ラーメンをいただいた後に、町を散策する。

「ピーチクぱーちく」という名前の雑貨屋さんで、ナット&ボルト製のイス(エイリアン仕様)を発見↓


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高山のお酒屋さんで、試飲しまくって(僕だけ運転しないもので・・・)だいぶいい気分になり、

その後は、みんなで温泉へ。

お風呂からあがって、下着より先に靴下をはいているおじさんがいて、ウケた。

たっぷり1時間ほど湯につかり、あがってから休憩所でWBCを観戦!!


夜中の12時をすぎて料金所を通ると、ETC装着してれば半額になるらしく、

途中のサービスエリアで、ひまつぶし。ねむい。


12時半ぐらいに京都駅にとうちゃく。駅から家まで自転車をこぐ。

さぶい。さぶい。


1日車に乗ってるだけで、結構疲れるもんだと認識。やはり、いつのまにか年をとっていたらしい。

むかしは、白線流しをリアルタイムで見ていたのになぁ。


とはいえ、あのころにもどりたい、とも正直思わないのだが。

なにはともあれ、無事故でよかった。車、怖いし。