北森嘉蔵の名著と称される『神の痛みの神学』(講談社学術文庫)を読了した。
最初は、なるほどなるほどと読み進んでいたのだが、最終的には疑問が多く残った。
北森の議論を乱暴にまとめてみよう。
神は罪をおかす人間に対して怒り、その意味で神と人間は断絶しているにもかかわらず、その断絶を解消しないままに、人間を包む。このとき、神には、痛みが生じる。この痛みにもかかわらず、神が人間を包むとき、そこに「神の痛みに基礎づけられし愛」が現れる。このとき、北森はしつこく「神の痛みは『実体概念』でなくして、『関係概念』である」(11頁)という。「神の痛み」は、怪我をしたときに知覚されるような痛みではないということが強調されている。神の痛みの神学は所謂「受苦の神学」ではないようである。
西田幾多郎の哲学の影響を受けたといわれる北森神学の「神の痛み」の中には、西田のいうところの「絶対矛盾的自己同一」に似た「同一性に内在する差異性(神の愛に包摂される神と人間の断絶性)」というモチーフがみられ、その点についてはうなずかせられることも多かった。「なければならぬ」が頻出する文体も西田哲学に親しむ人にはなじみやすいかもしれない。
しかし北森の議論には、いくつか納得のいかない箇所が残った。ポイントごとに記録しておく。
■「痛みの類比」はそもそも妥当なのか?
北森が、福音における神を「父が子を死なしむる神」と表現するとき、神の痛みは、子を失う親の心の痛みに「重ね」られている。この「重ね」を北森は「痛みの類比」と表現し、トマス・アクィナスの「存在の類比」、K・バルトの「信仰の類比」に対抗しうる神学的装置として用いている。
ところで北森神学の言う、人間的な感覚である「痛み」が神においてある、とは一体どのような事態なのか?この問題に関連して、北森の文章には「我々が神の痛みを見ることを許されたということについての驚き」(247頁)という表現がある。
しかし、人間は本当に神の痛みを見ることを許されたのか?人間が見たのは、十字架上での「イエスの痛み」だけではないのか?「イエスの痛み」とは、人間としての、肉のイエスの痛みではないのか?であるならば、「イエスの痛み」をそのまま「神の痛み」と見なすことには、見逃せない飛躍があるのではないか?北森の「痛みの類比」は、「イエス」から「神」への飛躍をごまかしてしまうものではないのか?
北森はこんな風にも言っている。
「『神の痛みの神学』は痛みの類比を媒介として、神の痛みについてあえて語ろうとする。これが神の痛みへの奉仕である。しかしここでは我々の痛みは自己の奉仕する神の痛みによって、その不従順を征服されつつ、神の痛みに奉仕する」(90頁)。
「我々人間が神の事柄について何事かをあえて語ろうとするときには、我々自身の人間的なる事実を通して語らねばならない。これが証という概念の本質である」(250頁)とも言われる。
僕には「あえて」というところがものすごく引っかかる。「あえて」神の事柄を人の事柄で語ることの妥当性は、どうやって根拠づけられるのだろうか?「痛みの類比」はその根拠となりうるのだろうか?この論点が、北森の議論から抜け落ちているように思えてならない。
■痛みと赦しについて
ほかにも納得のいかないところがある。「神の痛みとは、具体的にいえば罪の赦しである。(中略)赦すということは、忘れるということである。『赦しはするが忘れはしない』というのは、実は赦してもいないのである。真実に赦した時にはその赦したことをさえも忘れてしまわねばならぬ」(文庫62頁)という北森の言葉にも引っかかる。
北森の言うように、赦すことは忘れる事なのだろうか?全能である神に忘れるなどという芸当ができるのだろうか?全能の神が、残念ながら世界を創造しないことができなかったように、忘れることも神には出来ない種類の出来事なのではないか?神は、全てを見ている。神に忘れられた存在者は、おそらく赦されたのではなく、存在しなくなったのではないか?そもそも、神が人の罪を赦す(=忘れる)のであれば、同時に、神が罪をおかす人を包む時の「痛み」も消えてしまうのではないか?
実は、北森自身、「痛み」は赦しとともに消えると言っている。「痛みをも忘れてひたすらなる愛において相手を包むとき、赦しは赦しとしての真義を発揮したのであり、痛みは真実のものたることを証明したのである」(62-63頁)。
この文章を目の前にして、僕はもはや北森神学をポジティブに理解するために、考えながら読んでいこうという気持ちが無くなってしまった。なぜなら、僕は、「痛み」が忘却によって消え去り、「赦し」だけが残る神学よりは、「痛み」と「赦し」が併存している神学を選ぶからだ。それこそが、「イエス・キリストが全くの人であり、同時に全くの神である」ということの意味ではないかと思うからだ。
■隣人愛について
北森の倫理論、つまり隣人愛についての議論にも納得できないところがある。北森自身の文章を引用してみよう。
「真の倫理は愛の切実さによってのみ成り立つ。『おのれのごとく汝の隣人を愛せよ』とおいう誡命においては、自己愛が隣人愛の前提として肯定されているのではなく、自己愛に伴う切実さが肯定されているのである。自己愛そのものはあくまで否定されねばならぬ」(144頁)。
北森によれば、上の文章にある「切実さ」は「痛み」からくる。ルターの「愛するとは自己を憎むことである」、「愛が単に甘さや悦楽においてでなく、極度の憂と苦がさとの中に成り立つ」という言葉を引いて、北森は隣人愛を「汝がおのれを愛するとき切実であるごとく、そのごとく切実に汝の隣人を愛せよ」という意味に解釈する。
北森は、ルターの言う「自己」を心理学的な「自我ego」、あるいは仏教的な「我」と重ねて理解しているようだが、ルターは果たしてその意味で「自己」と言っているのだろうか?北森の解釈が妥当ならば、聖書は「おのれも、隣人も切実に愛せよ」と言えば良かったのではないか?どうして聖書では「おのれのごとく隣人を」と書かれなければならなかったのか、北森の解釈では明快ではないように感じる。
そもそも北森は隣人愛の問題の出発点として、「隣人」が「信仰者」だけではなく、多くの場合「不信仰者」であることを見ている(151頁)。不信仰者を愛するという点に、「包み」と「痛み」を見出すのである。しかし、そのような倫理は、やはり不自然ではないか。この立場からは、「右のほほを打たれたら左のほほを」というイエスの行いを自然な振舞として理解することはできない。
僕は、新約聖書においては、自己愛が徹底的に肯定されている、いやむしろ、隣人愛の根拠として自己愛が説かれていると考えたい。そのように肯定されうる意味での「自己」と何かを考えないといけないと思う。僕なりの答えは、「隣人は、自分とは異なる仕方で、しかし、同じように『自己』である」という事実を、そのまま聖書は表現しているというものである。私とあなたは、ある意味で決定的に違っているが、別の意味で全く同じであるというところからしか「自然な」倫理は出発しないと僕は思う。
自己愛を自己チューとたいして違わないものと見なしている北森神学の議論は的を外しているのではないか?「自己チュー(死語か?)はやめてね」と、なんのためらいもなく言い放つ人の自己チューぶりが、どうしても気になる僕は、北森の議論に完全においていかれてしまった。
■北森神学とバルト神学について
北森は、バルト神学を評して、『「神と人間の原理的対立」を主張する神学』と言っている(29頁)。バルト神学では、「対立における神」に対して人間は「従順なる者」として立つ。ゆえに、バルト神学における神は、包むことをしない神であり、痛まない神である。一方、北森神学における神は、不従順な人間という「包むべからざるものを包み給うが故に、自ら破れ傷つき痛み給う神である」(28頁)。そうなのかもしれない。
しかし、北森が、「神の痛みの神学」では「痛みの類比」が救済論的に考えられているのに対し、カトリックの「存在の類比」は創造論的に考えられるに留まるというとき(90頁)、僕はやはり北森神学とは袂を分かつ。バルト的な「信仰の類比」のように、創造論がそのまま救済論となる神学に僕は共感するからだ。バルト神学では、創造と和解と救済がイエス・キリストの十字架の出来事において、一つに結実する。いわば創造即和解即救済であるがゆえに、神が唯一であることは自明である。北森神学のように、救済論と創造論を別立てに理解すると、救済神と創造神を別物とするグノーシス的な立場に陥る。それゆえに、北森神学において、唯一神についての第一誡は、自明ではなく、悪しき意味での律法として頭ごなしに信じ込まなければならない教説に堕するのではないか。
また北森は、バルト神学では人間が神に従順な者となっていると批判し、人間の不従順さが出てこない点を否定的に評価している。このような、人間は必然的に不従順であるという(ルターの影響の強い)北森の主張は妥当なのだろうか。
私見では、バルト的な意味での従順とは、「神の言葉を聴かざるを得ない」という意味での従順である。神の言葉を聴くか聴かないかの選択権は人間にはない。人間は、神の言葉を聴かざるをえないが、聴いた神の言葉を誤解する。この誤解が、バルト的な人間の不従順である。例えば、「あなたはどこにいるのか」という神の言を聴いたにも関わらず、とんちんかんな意味に誤解したのがアダムである。だから、北森の言うように、バルト神学からは人間の不従順さが出てこないという批判は、的外れだと僕は思う。
おそらく北森神学では、人間は神の言葉を聴かないことを選択できて、その聴かないという選択を不従順だと解釈しているのだろう。しかし、その解釈では、絶対の救いの神は出てこないのではないか。僕はそう思う。
■さいごに
「痛み」というある種の「感情や感覚」を神学のテーマとして提示した北森の功績は凄いと思う。たしかにスコラ神学では、存在や理性、本質といった形而上学的議論が盛んである一方、感情や感覚は低く扱われてきた。人間のあらゆる行為には、なんらかの感情や感覚が必ず伴っている。そういう風に人間はできているのである。だから、感情や感覚にスポットを当てる北森の指摘には、一定の意義がある。しかし、感情や感覚が神学のテーマとして中心になってこなかったのには、それなりの理由があったともいえるのではないか。デカルトが形而上学から始めて、そのあとに情念論に進んだことからも示唆されるように、感情や感覚を議論の最初の前提として採用するのは困難がある。なぜなら、感情や感覚は変化しうるからである。
たとえば、不従順な人間を見て神は痛むだけなのであろうか?喜ぶ神もありうるのではないか?考え方がちょっとかわることで、現象にともなう感情や感覚はたやすく変化してしまう。だからこそこれまでの神学は、形而上学のように、たやすく変わるものではないところから始まらなければならなかったのではないか。北森のように、感情や感覚を神学の主題として持ってくるのであれば、既存の形而上学的な神学へのアンチテーゼとしてではなく、その深化という仕方で主張すべきだったのではないか。僕にはそう思われるのである。
もちろん、うつろいゆく事柄の方が本当なのではないかという議論もありうる。それについては、またいつか記事に取り上げることにしたい。
北森の主張は、本当に立派なのか、本当にくだらないかのどちらかだろう。どちらなのか判断ができないという意味で、僕はまだ北森神学をきちんと理解できていない。しかし、北森神学が真に検討すべき課題をもった神学なのかどうかという点について、今の僕は否定的に答える。すくなくとも、北森が随所で批判的に取り上げているK・バルトの「神の言の神学」の方が、検討に値すると僕はみる。
本記事のタイトルは、今の僕なりに北森神学への精一杯の敬意を示したものである。北森神学を読むと、日本的神学の悲劇性に思いをはせずにはいられなくなる。
【この記事は2015年1月に全面改稿して再投稿したものです。2009年2月のオリジナル記事に比べると議論のおおまかな方向性に変更はないですが、議論がより細かくなっています。】