The unique divinity of the indivisual. | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチが話題になっている。

ネットで検索したらそのスピーチの一部が読めた。

そのなかで気になった個所について忘れないように。


If there is a hard, high wall and an egg that breaks against it, no matter how right the wall or how wrong the egg, I will stand on the side of the egg.


Why? Because each of us is an egg, a unique soul enclosed in a fragile egg. Each of us is confronting a high wall. The high wall is the system which forces us to do the things we would not ordinarily see fit to do as individuals.


I have only one purpose in writing novels, that is to draw out the unique divinity of the individual. To gratify uniqueness. To keep the system from tangling us. So - I write stories of life, love. Make people laugh and cry.


話題になっている「壁と卵」の比喩の文章も素敵だが、個人的には、

「the unique divinity of the individual」の部分がとても気になった。


ネット上のブログに見られる翻訳では、「個人の神々しいまでのユニークさ」と、工夫して訳されている。

しかし、それは意訳だ。

正確には、divinityは「神性」だから、直訳すれば、「個人の、ただ一つしかない神性」となる。


村上さんが、イスラエルに住むユダヤ人の宗教性を考慮してdivinityを使ったのかはわからないけれど、

「個人の、ただ一つしかない神性」という言葉が、多くの日本人にとってすっと理解できるものではない、

ということは確かなように思える。


おそらく、「かけがえのなさ」みたいなものを「diviniiy」と言っていると考えれば

分かりやすいと思うけれど、大事なのは、divinitiyと結び付けられた「かけがえのなさ」は、

なにか別のものと比較したうえでの「かけがえのなさ」ではない、ということだ。


神は、唯一であって、比較できるような「他の神」は存在しない。

文字通り、「ただひとつしかない」がゆえに、神は「かけがえがない」と形容される必要すらない。

したがって、すこし言葉遊びのようだが、神は「かけがえがない」と表現するまでもなく、「かけがえがない」。

そのような意味での「かけがえのなさ」としての、divinityが、個人の中に、在る。

そう村上春樹は言っているように思える。


よく、ちまたでいわれる「かけがえのなさ」は、”たくさんの人間がいる中で、ひとりひとりが特別な存在!”

みたいな、「世界で一つだけの花」的な発想を持っている。


でも、そこでいわれているひとりひとりのかけがえのない特別な個性って、

結局のところ、同じ行為を別の主体が担うとき、失われてしまうような種類の

「かけがえのなさ」だったり「特別さ」なのではないだろうか。


たとえば、村上春樹という作家は稀有な存在である。それは確かだ。

でも、それは、彼の発表しているすばらしい小説があるから、みんながそう思っているだけのことだ。

もし、あのすばらしい小説たちが、村上春樹の作品ではなかったとき、それでも、ぼくらが村上春樹に抱く

「稀有」な感覚は、変わらないだろうか。いや、変わってしまうのではないだろうか。


でも、村上春樹の言葉からは、たとえあの小説たちを村上春樹がかいてなかったとしても、

村上自身が失わないような、あるいは、個人が行為としてではなく生まれつき持っているような「稀有さ」、

みたいな「かけがえのなさ、divinity」が、確実に存在するんだ、という信念がうかがわれる。


僕が、うまれつきもっているようなdivinity。

そんなものが、あるとすれば、僕はもはや、キリスト教でいうような「聖霊」というようなイメージでしか、

そのdivinityをうまく理解できない。

そして、おそらく、村上春樹の言葉に含まれている考え方の中には、

イエス・キリストが伝えた言葉と重ねて理解すると分かりやすくなる、

そういう部分があるのだろう。


もしかしたら、こんな理解の仕方は誤解かもしれないし、この分かりやすさは幻想かもしれないけれど。


イエス・キリスト、と呟くときに、なにか宗教的なイメージに陥るのではなく、

もっと、身近に、「なんか、よさげなこと言ってる人」ぐらいの感覚で接したい。
僕は、そんな風に思っている。


なにはともあれ、村上春樹さん、素敵なスピーチをありがとうございました。

受賞の是非を問う鋭い声があるなかで、その鋭さを無効にするような、それでいて力強い言葉だったと思います。