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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

知り合いにすすめられてまたまた小説を読んでみた。

岡田利規著、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』、新潮社2007年。

第2回大江健三郎賞受賞作である。


中には二つの中編小説がおさめられている。

それぞれのタイトルは、「三月の5日間」、「わたしの場所の複数」。

前者はわりと面白く読んだが、後者はちょっとなじめないまま読了した。

なんでなじめないのか、というのも大事な問題だけど、とりあえずは前者について記録しておきたい。


ストーリーはアメリカのイラク侵攻がはじまろうとしている時に、

反戦メッセージが謳われた外国人アーティストのライブで出会った一組の男女(フリーター)が、

そのまま渋谷のラブホテルにいって4泊5日を一緒にすごすというもの。


ふたりがラブホテルにいるあいだに、イラク戦争が始まる。

「あ始まったんだねやっぱり戦争」(58頁)

「たぶんあともう数日で、俺らホテルを出て別れることになるっぽいじゃん。そしたら、俺の予想だけど、その時には戦争も、たぶんもう終わってるんじゃないかと思うんだよね。甘いかな。」(62頁)

「始まってみると終わるの案外早かったんじゃないの戦争?みたいなね、だったら結局、結果論だけどこれでよかったんじゃないの? みたいなね。」(63頁)


イラクからほんとうに遠く離れた渋谷でホテルのテレビを見ながら、そんな会話を交わし、

なんとなく、かすかに世界の大きな動きとつながっているふたり。

いつのまにかふたりは、「この関係を五日間の限定みたいにしよう」(71頁)ということで同意する。


この二人は、どちらも、「つながり」にたいして、つよいこだわりを持っていないように思える。

ふたりは、互いに5日間限定の関係にすることに同意したし、そもそもフリーターというのは、

世界とのつながり方が薄いとも言える。

戦争に対しても、「戦争反対」でも「戦争賛成」でもない傍観者的な立場に、ふたりはいる。


僕は、このふたりのスタンスが結構好きだ。

その理由を説明してみよう。


人間の愛は、往々にして、自分にとって大切な人と大切でない人を明確に区別してしまう。

たしかに、愛自体は素晴らしいことかもしれないが、愛を振り向けることができる相手の数は、

一応、限られている、と僕は思う。

家族を愛するという名目で、ほとんどの戦争は戦われてきた。それが人類の歴史なのだ。

世界中の人を等しく全部愛するなんてことは無理だ。

同様に、だれかを愛する以上は、世界の人を、愛する人と愛さない人とに区別しなくてはならない。

その区別が争いを生む。

愛と争いは、ある意味で表裏一体なのである。


にもかかわらず、争いを避けようとしたいのであれば、どうしたらいいのか。

僕には、ふたつの方法が見える。

ひとつは、「愛からの全面撤退。もはやだれも愛さない。」

ふたつめは、「愛からの部分撤退。その人を守りたいと感じるような種類の愛をやめる。」


この小説にでてくるふたりは、その「つながり」の薄さが象徴するように、前者の方法をとっている。

ふたりは、ほんとうに誰かを愛そうとはしないし、深入りをさけた生き方を選んでいる、と僕は思う。

この生き方は、小説のラストのあるシーンにおいて極限まで強調される。


そのラストシーンでは、女が、道端で用を足しているホームレスの男性を犬と見間違えてしまい、

その見間違いを犯した自分のおぞましさに気持ちが悪くなって、嘔吐する。

ここで、女は、ホームレスを犬と間違うことで、自分が、人を人と思わずに殺してしまう戦争と

同じ感覚をもっていたことに気付いて、おぞましさを覚えている。

そして、そのような間違いを犯した自分への罰として、女は嘔吐という行為によって、

自分自身も、ひとつの物体に過ぎないことを自分に思い知らせるのだ。

すなわち、このラストシーンで、女は、自分自信すらも愛さないことを選んだのだ。


だから、この小説は、ものすごく軽いようでいて、実は壮絶な作品なのである。

軽い外見を、傷だらけの心が支えている。

これが、本当の軽さなのだ。


というわけで、僕はこのふたりが結構好きなのだが、僕自身はさきほどあげた方法のうち、

後者をとりたいなと考えている。


目の前にいる人を大切にしながらも、人を区別することに陥らないことは可能だ。

言い換えれば、区別という仕方によらずにその人を大切にすることは可能だ、

と僕は思っているのだが、今日は、この辺で終了しておこう。力尽きた。

試験監督の合間に、控え室でおやつと飲み物がいただける。

結構眠気が強いので、まずはコーラとチョコレートを食す。

次に腹ごしらえを兼ねて、みかんとコーヒーをもらいにいく。

まだコップにはコーラが1/3ほど残っていたが、気付かずにコーヒーをいれてしまったところ、発見が二つ。

コーラ入りコップにコーヒーをそそぐと…

見た目: 泡立ってエスプレッソみたい。

味と匂い: 牛丼屋さんの紅生姜っぽい。

なんと、コーラの甘さとコーヒーの苦さが混ざると、色と形いがいは、ほぼ紅生姜なのだ。

お試しあれ。
大学入試の季節です。

院生向けに試験監督補助のアルバイト募集があり、いそいそと参加。7日間ぶっ通しで9:00-17:00の勤務で現在六日目。

一生懸命な受験生には申しわけないけど、試験監督は暇である。ついつい自分向けな考えごとをしてしまう。





僕の過去は
ずっと死に損なってきたという
たしかな記憶

僕の未来は
そのうち生き損なうという
あやふやな予感

今の僕は
そういう仕方で
格好をつける

僕は今をイキっている




靴を脱ぐのはいいが、脱いだ足が臭い受験生以外の受験生、がんばれ。
こんな駄文を考えるのが、僕なりのエールの送り方です。

ってことにして下さい。
後輩にチケットをもらったので、男声合唱団「なにわコラリアーズ」のコンサートを聴きに行ってきた。

ピアニッシモのときの音の飛び方がすごい。

パート内で音がそろうだけでなく、パート同士の音程の距離が正しくなければ、あんな空間力のある音にはならない。

人の声は、同じ音程の他の声と重なるとき、2つの声の共通する要素だけが増幅され、個人個人のもつ声のクセが薄まる。

2つだけでなく、もっと声が重なると、共通する要素がますます純化され、本当にきれいで純粋な音がなりだす。

これが響きだ。だから響きとは、ある意味で声の多数決なのである。

政治や主義主張がまかりとおる領域と異なり、音楽においては数学的な調和があり得る。

しかし、音楽の調和はあくまでも近似である。それが平均律という音階を当てはめていることの意味だ。

人間にもっとも美しく聞こえる純正律は、数学的な比例の理屈から少しだけずれたところで成立するからだ。

そんな屁理屈はぬきにして、いい演奏だった。

かえりみち、
ずぶぬれのあしが
ちょっとしんどくて
ついつい忍び足ぽくなった。

風邪ひきませんように。
今日は朝から雨が降った。

めざめてすぐに熱いシャワーを浴びて、身体も心も今日にして、ラスト一本残ってるレポートのネタ本にと、カール・バルトの『ロマ書講解』の続きを読みだしてみた。

バルトの文章は簡潔だが、めちゃくちゃ抽象的だ。一文ごとに具体性を僕なりに補いながら、ほぐすように読んでると、楽しいけど、なかすすまない。

昼食のパンを食べてから、気分転換に『空中庭園』のDVDを鑑賞した。

途中までは、ドロドロしててすごく気持ち悪かったんだけど、あるクライシスと大雨のあと、いきなり映画全体が浄福感をたたえ始めたのにやられてしまった。

詳細はまた改めて書くつもりだが、おぞましさと清らかさが、ものすごく近くにあって表裏一体なのだということを、この映画はしつこくあぶり出そうとしてる。その目的のためだけに、すべての演技と映像とセリフを組み合わせている。

そのしつこさを生んでいるねっとりした意図にやられた気がした。

ねっとりしたものに触れたあとは、でがらしで淹れた薄いコーヒーが上手い。

そろそろコンサートに出かけるとしよう。