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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

先週末、姉が、仕事で京都にやってきた。

だいぶ自由に生きている姉だが、留学を終えて日本で仕事を始めてから、

いきいきとがんばっているらしい。今回もわざわざ京都までセミナーにお越し。

仕事熱心である。


土曜日の午前中、姉が行きたがっていた伏見稲荷大社にいってみた。

朝9時に京阪電車の伏見稲荷駅で合流。

そのまま、参拝に向かった。


伏見稲荷と言えば、朱色の千本稲荷が有名。

と、それだけのイメージをもっていったのだが・・・


す、すごい。

山がまるまるひとつ鳥居におおわれている!!


また、鳥居には、奉納した人の名前が書いてあっておもしろい。

姉とふたりで面白い名前をチェックしながら、約3時間かけて山をひとめぐりした。

ふぅ。圧倒されました。


Nothingness of Sealed Fibs-usshi-

姉によって、「うっしー」と名付けられた牛の置物のみなさん。ざぶとんつきでおひとつ500円。

姉は、屏風つきの700円のとどっちにするか迷いながらも、ざぶとんつきをひとつお買い上げ。
ひとめみたときから、「かわいい~」といいだして、「うっしー」の前から動こうとしない姉をみると、

「わ、わかい・・・」と思ってしまう弟でありました。


Nothingness of Sealed Fibs-さそり
さそりさん、発見。


Nothingness of Sealed Fibs-ろみお
まさか、「ロミオ」さんか?


Nothingness of Sealed Fibs-みなみがわ
南側が高くなっている方と、南側を登られる方がいらっしゃいます。

もはやユーモアですね。


姉は、留学中おみくじできなかったというよくわからん理由で、

おみくじをひきまくっていたが、2回も「凶の後、吉」を引いていた。

大吉も1回あったけど。


もう30年近くも、姉と弟をやってるけど、姉は、年々面白くなって来てる気がする。

というか、あんまり姉は年をとった感じしないのだが・・・。

肌がきれいなのはいいとしても、すこしストレスのせいか、おふとりになったようで。

飯もおごっていただき、ありがと!凶にもめげず、いい一年をすごしてくれますように!


伏見稲荷大社と姉に圧倒されて、怒涛のように過ぎ去った土曜日でありました。

レポート戦線をのりきるための栄養剤として、相方と『ラースと、その彼女』を観てきた。


なんとラースが兄夫婦に紹介したガールフレンドは、等身大の人形!?

一見すると、奇抜な設定のコメディーかと思いきや、ものすごく繊細なドラマになっている。


ラースの母親は、ラースを産んだときに死んでしまっていた。

普段は全く普通の真面目な青年として生活していたラースだったが、

兄夫婦に子供が授かり、義理の姉のお腹が大きくなってくるにつれ、

外との接触をたつようになり、変調をきたしていく。

そして、ビアンカという名前の人形を恋人として兄夫婦に紹介するのである。

最後に、人形のビアンカは死んでしまうのだが、その死を見届けた後、

ラースは、あたらしい道を歩み始める。


単純な考えだが、ラースの変調は、

大切な義理の姉を出産で失ってしまうのではないかという恐怖の

身体的なあらわれ、としてとらえられるだろう。


ならば、こう考えることができるのではないか??

ラストで、ラースが前に歩き始めることができたのは、

ビアンカの死をきちんと見届けられたということによって、

もし万が一、義理の姉が出産のために死んでしまったとしても、

なんとか大丈夫だと思えたからなのだ、と。


すこし、恐ろしいことを言ってしまったかもしれない。

しかし、人を愛するということは、その人を失うことと直面することでもあるのではないか。


ラースの繊細な心は、母親を失うことができなかったがゆえに、

ビアンカを失うというしかたで、義理の姉を失ってしまうかもしれない現実に立ち向かったのだ。


ラストシーンで、ラースはマーゴに「散歩しない?」と声をかける。

この本当にささやかな誘いの前には、こんな言葉が省略されていたのではないか?


「もしも、あなたを失ってしまったら、きっとものすごく悲しいと思うけど、

 なんとか大丈夫だと思います。だから今は・・・」


ラースは、人を愛することの喜びだけでなく、悲しみもちゃんと見つめている。

そうなのだ。とてもきちんと見つめている。


ならば、少し畏れの念をこめて、こう言いきってしまおう。

人を愛する希望とは、人を失う絶望の彼方にあらわれるのだ。

希望を導くという意味で、あたたかみを帯びた絶望。

そのような、やわらかな絶望を信じることができれば、希望はありえる。


残念なことに、僕には、そのようなやわらかい絶望としてしか、

「希望」という言葉をうまく想像することができない。


いい作品だと思う。


僕の中を、心地よい106分の映画が通り過ぎた。

いやそうではなくて、この映画の中を、僕が通り過ぎただけなのかも知れない。

ほんじつの京都は、雨、のようである。


でも、今の僕にはあんまり関係ない。


現在、木曜日(明日)提出のレポートと猛烈格闘中。


ぎりぎりまで書き出さない自分もよくないのだが、


ついつい、なんかいいアイデアがうかばないかと、


待ってしまうのだから、しかたない。


でも大抵の場合、


締切直前になり、しょうがなくパソコンに向かって初めて、


なんらかのアイデアがうかぶものなのだが。


脳というものは、多少ストレスがかからないと、


すてきなアウトプットが出てこないらしい、


というようなことは、だいたい8年前くらいに気付いていたが、


なかなかあらたまらない。


人は、そういう僕をみて、「なまけもの」という。


親は、そういう僕をみて、「ぐうたら」という。


他人は残酷である。


お漬物であれば、「よくやってるね」といわれることを、


僕がやっているというだけで、このひどいあつかい。


だから、僕は、そういう自分を、あえて「発酵中」とみなす。


じゃあ、発酵が終わったらどうなるのか?


「バカボンのパパ」みたいな人。


それでいいのだ!!と胸を張って言えるやつになっていたい・・・


そんなんではだめだろうか??


いやいや。そんなに弱気ではいかんいかん。


「それでいいのだ」で、いいのだ!!

ふと、神様が映画をみたらどうなるんだろうとか、考えてみる。


神学の世界では、神はもちろん特殊な存在である。

したがって、神の時間は、人間にとっての時間とはだいぶ異なったあり方をしている。


よくしられているのは、神にとっての時間は流れないという発想である。

つまり、神は全能であるがゆえに、人間にとって存在する現在、過去、未来の区別がない。

この発想で行けば、神様は映画をワクワクしながら見ることはできないだろう。


映画の始まってから終わりまで持続的に積み重なっていく一瞬一瞬に、神は同時にアクセスできる。

このような能力をもつ神は、残念なことに「物語」を楽しむことはできないだろう。

だって、全部一気に分かっちゃうんだから。

だから、神は映画を楽しめない。推理小説も楽しめない。あれ?音楽だってそうだ。


「時間とは同一性が生みだすものである」とは、池田清彦先生の卓見だが、

たしかに、人間が自己としての同一性をなぜだか保てているから、

「時間が流れている」というように考える(錯覚する?)ことが可能となる。


神にとっては、時間は流れない。

とすれば、それはもはや、神には自己同一性がないということなのではないか?


いや、正確にいえば、神にとっては、一瞬と次の一瞬の区別が存在しない。

いわゆる「永遠の今」が、神にとっての時のすべてである。

だから、神に自己同一性がないというよりは、むしろ、「神にとっては永遠としての今がすべて」と言うべきだ。

神にとっては、そもそも新たな瞬間ごとに自分は自分であるという実感など必要ないのだ。


でも、映画や小説や音楽をたのしめないなんて、神はだいぶ損をしている。

それとも、神の世界(おそらくひとりぼっちだろうが・・・)にはもっと楽しいことがあるのだろうか(笑)


そういえば、旧約聖書では、アブラハムやモーセとふつうに会話する神がでてくるけれど、

そもそも神には時間がないのだから、人間と話すことなどできないのではないか?

発話には時間が必要であるはずだ。


いやいや、神は、人と話したかったのだ。そのために受肉したのである。

受肉とは、神が神として死ぬことで、人格を持つ(=人として生きる)ということである。


神学の世界では、神が人格性を帯びているとか、人格神とかいったりするが、

僕はそれをずいぶん前から、なんか変だとおもってきた。

神なのだから、人格ではなく、神格をもつのではないのか??


いやいや、いまなら、人格をもつのでいいんだと答えられる。

繰り返しになるが、神は、神としては死ぬことで、人格をもったのだ。これが受肉である。

そして、イエス・キリストなき現在、神は、「聖霊」という裏ワザ的存在様式によって、

人間に宿り(=受肉し)、こっそり映画や小説や、音楽を楽しんでいるに違いないのだ。

あ、だから、結局のところ、神は損などしていないのだ。なぜならば、神は受肉しているから。

さすが、全能者である。おそれいりました。


以上、適当に。あんまりキリスト教のまっとうな考え方ではないのでご注意ください。

川上弘美さんの『センセイの鞄』(文春文庫)を読んでみた。

もともと小説はあんまりよまないのだけれど、知り合いに勧められて読んでみたら面白かった。

ベストセラーはあなどれない。小説が苦手な僕が、すっと読み終えてしまった。


主人公のツキコさんとその高校時代の恩師であるセンセイのやりとりが面白い。

どうやらお互い好意を抱いているのだが、年取ってることもあってか、なかなか「恋愛」っぽくならない。

ふたりは、いきつけの飲み屋で一緒になった時にしゃべり、たまにセンセイのお宅で2次会を行い、

飲み屋で一緒にならなければそのまま一人で飲んで帰る。


なんなんだ、この距離感は。

お二人とも、約束もしてないのに、お互いを待っている。


そのあたりのゆるさというか、さらっとした感じが「恋愛」小説っぽくなくて、

人間臭い駆け引きがなくて、どぎつくなくて気に入ってしまった。


もともと、僕はあんまり「待ち合わせの約束」というものが苦手である。(もちろん仕事ではしょうがないけど。)

「待ち合わせの約束」がされると、待ち合わせ時刻に間に合うための努力が必要となる。

もちろん、電車にのったり、自転車漕いだりというのは仕方のないことだが、

そういう移動時間であっても相手と会う直前までは自分のために時間を使いたい、というのが本心である。

だから移動する電車でも本を読むし、仮に待ち合わせに早くついてしまったらやっぱり本を読む。

相手とのやり取りは、会ってから始めればいい。

「まだこないのかな~」とか考えながら「待つ」時間は、相手のことを考える楽しいひと時かもしれないが、

自分のために使う時間ではないし、もったいないなと思ってしまうのだ。

自分勝手すぎるかな?? いや、自己完結してるのかもしれない。


だから僕は、たとえ待ち合わせであったとしても、あんまり人を待ってるとは思わないようにしている。

待つということが、なんとなく相手を縛り付けてしまうような感じがするし、なにより、相手を待ちながら

悶々とするよりは、自分一人でできることをやっていたほうが楽しいからだ。


そんなそうえらそうなことを言っておきながら、僕は、約束に間に合うためしがほとんどない。

ええ。ご迷惑をおかけした方々、申し訳ありません。


でも、僕が待ち合わせに遅れてしまい、「ごめん」と相手に言ったとき、

「あ、別に本読んでたし、おまえ待つためにだけに時間使ってないから」とか、

「うまそうなたこやき見つけたし、先に食っとった!」とか、そういうセリフをいえる偉大な奴らのおかげで、

どれだけ僕がホッとしたかを考えると、やっぱり僕は「待つ」ことを苦手なままにしておきたくなる。


だいぶ脱線したので話を戻すと、この本のツキコさんとセンセイは、ある意味では相手を待ってる。

飲み屋で相手が来たらいいなぁと思いながらお酒を飲んでいるのだから、それは間違いない。

でも、約束をしているわけではないから、相手が来なかったら来ないでしょうがないのである。

来なかったらしょうがない。この小説の二人は、初めからそういうスタンスをもって待っている。


「約束」も究極的には同じことではないだろうか。

「その約束を守るという約束」を交わしているわけではないから、約束を破られたらそれはそれでしょうがない。

すくなくとも、「約束は守らなければならない」とは倫理学の命題であり、論理学的には真偽を判定できない。

そう考えられるのではないか?

もちろん、約束を破ったのだから、破った側は破られた側に責められても仕方がない。

では、約束とは、それが反故になったとき、誰かを責めてもよいということを正当化するためのものなのだろうか。

いや、そんな悲しい結末はいやだ。約束ってもっと素敵なことであってほしい。


そもそも約束とは、離れ離れの2人がある時、ある場所で、出会うための方便ではなかったか。

このとき、最も重要なのは、2人が出会うことであるはずだ。

ならば、たとえ指定の時と場所がずれても、2人が出会えたのであれば、出会えたそのことに喜んでおけばよい。

そうではないだろうか。


そんなことを考えると、イエスをキリスト(メシア)と認めずに、

いつ来るともしれないメシアを待望し続けるユダヤ人のことに考えが飛んだ。

そういえば、キリスト教は、イエスをキリスト(メシア)を認めたのに、

結局キリストの再臨(終末の到来)を待っているわけで、

何かを待望しているという点ではユダヤ教もキリスト教も大差ないなぁ。


未来を待つといったりもするし、何かを待つということは、意外と難しいテーマなのかもしれない。