川上弘美さんの『センセイの鞄』(文春文庫)を読んでみた。
もともと小説はあんまりよまないのだけれど、知り合いに勧められて読んでみたら面白かった。
ベストセラーはあなどれない。小説が苦手な僕が、すっと読み終えてしまった。
主人公のツキコさんとその高校時代の恩師であるセンセイのやりとりが面白い。
どうやらお互い好意を抱いているのだが、年取ってることもあってか、なかなか「恋愛」っぽくならない。
ふたりは、いきつけの飲み屋で一緒になった時にしゃべり、たまにセンセイのお宅で2次会を行い、
飲み屋で一緒にならなければそのまま一人で飲んで帰る。
なんなんだ、この距離感は。
お二人とも、約束もしてないのに、お互いを待っている。
そのあたりのゆるさというか、さらっとした感じが「恋愛」小説っぽくなくて、
人間臭い駆け引きがなくて、どぎつくなくて気に入ってしまった。
もともと、僕はあんまり「待ち合わせの約束」というものが苦手である。(もちろん仕事ではしょうがないけど。)
「待ち合わせの約束」がされると、待ち合わせ時刻に間に合うための努力が必要となる。
もちろん、電車にのったり、自転車漕いだりというのは仕方のないことだが、
そういう移動時間であっても相手と会う直前までは自分のために時間を使いたい、というのが本心である。
だから移動する電車でも本を読むし、仮に待ち合わせに早くついてしまったらやっぱり本を読む。
相手とのやり取りは、会ってから始めればいい。
「まだこないのかな~」とか考えながら「待つ」時間は、相手のことを考える楽しいひと時かもしれないが、
自分のために使う時間ではないし、もったいないなと思ってしまうのだ。
自分勝手すぎるかな?? いや、自己完結してるのかもしれない。
だから僕は、たとえ待ち合わせであったとしても、あんまり人を待ってるとは思わないようにしている。
待つということが、なんとなく相手を縛り付けてしまうような感じがするし、なにより、相手を待ちながら
悶々とするよりは、自分一人でできることをやっていたほうが楽しいからだ。
そんなそうえらそうなことを言っておきながら、僕は、約束に間に合うためしがほとんどない。
ええ。ご迷惑をおかけした方々、申し訳ありません。
でも、僕が待ち合わせに遅れてしまい、「ごめん」と相手に言ったとき、
「あ、別に本読んでたし、おまえ待つためにだけに時間使ってないから」とか、
「うまそうなたこやき見つけたし、先に食っとった!」とか、そういうセリフをいえる偉大な奴らのおかげで、
どれだけ僕がホッとしたかを考えると、やっぱり僕は「待つ」ことを苦手なままにしておきたくなる。
だいぶ脱線したので話を戻すと、この本のツキコさんとセンセイは、ある意味では相手を待ってる。
飲み屋で相手が来たらいいなぁと思いながらお酒を飲んでいるのだから、それは間違いない。
でも、約束をしているわけではないから、相手が来なかったら来ないでしょうがないのである。
来なかったらしょうがない。この小説の二人は、初めからそういうスタンスをもって待っている。
「約束」も究極的には同じことではないだろうか。
「その約束を守るという約束」を交わしているわけではないから、約束を破られたらそれはそれでしょうがない。
すくなくとも、「約束は守らなければならない」とは倫理学の命題であり、論理学的には真偽を判定できない。
そう考えられるのではないか?
もちろん、約束を破ったのだから、破った側は破られた側に責められても仕方がない。
では、約束とは、それが反故になったとき、誰かを責めてもよいということを正当化するためのものなのだろうか。
いや、そんな悲しい結末はいやだ。約束ってもっと素敵なことであってほしい。
そもそも約束とは、離れ離れの2人がある時、ある場所で、出会うための方便ではなかったか。
このとき、最も重要なのは、2人が出会うことであるはずだ。
ならば、たとえ指定の時と場所がずれても、2人が出会えたのであれば、出会えたそのことに喜んでおけばよい。
そうではないだろうか。
そんなことを考えると、イエスをキリスト(メシア)と認めずに、
いつ来るともしれないメシアを待望し続けるユダヤ人のことに考えが飛んだ。
そういえば、キリスト教は、イエスをキリスト(メシア)を認めたのに、
結局キリストの再臨(終末の到来)を待っているわけで、
何かを待望しているという点ではユダヤ教もキリスト教も大差ないなぁ。
未来を待つといったりもするし、何かを待つということは、意外と難しいテーマなのかもしれない。