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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ふと、真理ってどんな在り方をしてるんだろうか、などと考えてみる。

学問は真理の探求を目指しているのだから、真理って今は分かってないけど、いつの日か解明される真実、つまり、思考が到達すべきゴールではないか。
まずはそう思える。

その一方で、そもそも思考は真理に基づいて進められないといけないという側面もある。
その意味では真理って思考のスタート地点だ、ともいえる気がする。

ゴールなのか、それともスタートなのか?

そこまで考えてたら、ふと、思考のゴールでかつスタートである真理の可能性に思い立った。

たとえば、「思考のスタートとしての真理」の意味を問う思考があり得るなら、その思考のゴールには「意味の深まった真理」があるのではないだろうか?

うむ。

ならば、おそらく哲学とは、新しい真理をみつけるというような生産的な運営ではなく、スタートとしての真理の意味を深めていく、ただそれだけの営みなのではないか。

その時、哲学はまるで、人生のスタートラインを、必死になって後ろに後ろにとさげて書き直していこうとする姿勢と言えないだろうか。

スタート地点の前ではなく後ろにゴールがある、あるいは後ろむきであることがそのまま前向きである、そんなところに哲学は成り立つ。

そのときの真理の在り方は、なんとなくアンビバレントな気がするがよく分からない。

というわけでまた次回に持ち越し。

NHK教育でポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の特集番組をやっていた。

社会問題、歴史問題を題材にとった作品で知られるワイダ監督の言葉には、第二次大戦後のポーランドが歩んだ苦難の歴史に裏打ちされた深い含蓄があるように思う。

「何かの出来事に別れをつげるために、我々はその出来事を歴史に保存しなくてはならない。そのために私は映画を撮るのです。」

「本当の悲劇は善と善が争うことなのです。」

ポーランドの戦後史を実体験してきたワイダ監督にとっては、現実を事実として受け入れるために、映画が必要だったのだろう。

芸術とは、たいていの場合、ありのままの現実のリアリティを少し削り取ることで、人間が受け入れられるレベルまで現実を緩和させる営みなのかもしれない。

言い換えるなら、自分と現実が明確に分離した瞬間に生成する両者の距離感のようなもの、それをはかる物差しこそが芸術として形作られたものの正体なのかもしれない。


【2015年12月1日追記】

久々に、おなじドキュメンタリー番組を見直してみたら、前回とは違う言葉にハッとさせられた。


「イデオロギーは言葉で表現されます。言葉によらない、映像だけによる表現は検閲が難しいのです。」


「私たち戦争で生き残ったものは、亡くなった人の声に耳をかたむけ、その記憶を伝えなければならないと思ったのです。」


日本は今年、戦後70年を迎えた。戦争体験者が高齢化し、体験をどう継承していくかという課題がよくテレビなどで取り上げられている。


しかし、ワイダ監督の言葉から考えさせられるのは、そういった日本のニュースで言われる戦争体験は、戦争で生き残った人の体験に重みを置きすぎてはいないかということだ。


ワイダ監督が映画で描いたのは、戦争を生き延びた人の記憶ではなく、戦争で命を落とした人の記憶だった。他方、日本で「戦争体験」というと、両者の記憶がまぜこぜになってはいないだろうか。「戦争で亡くなった人の記憶を継承する」ことがあまり日本では言及されていないということの意味はなんだろう。


また、「言葉によらない映像表現」についても考えさせられる。ソヴィエトの厳重な検閲下にあって、ワイダ監督は、検閲側が歓迎しそうな、それでいて観客には監督の真意がつたわるような、相反する二つの意味を帯びた映像表現を模索していく。その結実が、原作小説と登場人物は同じなのに主人公が入れ替わっている『灰とダイヤモンド』であった。


そういえば小栗康平監督が日本記者クラブの会見で、「20世紀、映像という表現方法が登場して、人類の未来は輝かしいと思われていた。21世紀になって人間がより映像表現を深く受け止めているかというと、全くそうは思えません。むしろそれによってどれだけ堕落しただろうかという思いが強くあります」というような話をされていたが、関連するのだろうか。


映画が、記憶の再生ということと深いつながりをもつのであれば、アンジェイ・ワイダ監督の映像表現と、小林秀雄が「歴史を思い起こす」と表現した文字との格闘とは、近い距離にあるのかもしれない。


そして、アンジェイ・ワイダ監督と小林秀雄が捉えていた真実は、おそらくどんな仕方でもイデオロギー化できないような何かなのである。


ワイダ監督の映像、小林秀雄の批評は、空間的・時間的に隔絶する他者(あるいは死者)との真のコミュニケーション(あるいは「つながり方」と言ってもよいかもしれない)を模索する営みだったのではないか。


東日本大震災以降、「絆」という言葉がたくさんの人を支えてきた。おそらく、ワイダ監督的な見方からすれば、死者と生者を結ぶつながりの確かさを感じ取れるような「絆」こそが、生きる者同士の絆を支えているということになるのだろう。


きっとそうなのだと今の僕には思われる。

そろそろ新年の気分にひたってみるのも一興であります。

では、改めまして。

新年あけました。
おめでとうございます。
この年末年始は滋賀の祖父母宅で過ごしてますが、ずっと雪が降り続いてます。
外にでれないので、内にこもって本を読むぐらいしかやることがなく、新年になってからまだ一度もお金を払ったことがありません。
消費が冷え込んでおります。

ま、例年のごとく、今年になったからといっても僕自身の中身はそう劇的に変わるものではありません。
相変わらずの僕ですが、どうぞ本年もよろしくお願いします。

まずは、時間がなるべく平穏に、ささやかに過ぎていきますように。
生きているということが、そのままで好評を博することでありますように。
皆様のご健康をお祈りいたします。

個人的には、面白い本と出会えて、大切な人を大切にできる、そんな一年でありたいなと思います。

などと、殊勝な台詞を堂々と照れずに言ってみたくなるのがお正月です。
ありがたいですね。

この一年を振り返ってみると、映画に関してはほとんど邦画しか見ていなかった。

もうみてから結構たってしまったが、この作品については一言記録しておきたい。


伊坂幸太郎原作の映画化『アヒルと鴨のコインロッカー』である。

伊坂作品らしく、前半で描かれた物語が、後半になって「もうひとつの意味」を帯びた形で語りなおされる。

そこで語りなおされた「もうひとつの意味」は、とても悲しい真実を観客に告げる。


現実は、ときにやさしく、ときに厳しい。

このことは、子どもから大人になるときに多くの人が実感することだろう。


純粋さは、それを容赦なく呑み込もうとする邪悪にいつも狙われている。

大人になるということは、そういった邪悪を回避するために、息をひそめる方法を知ることである。


通常は。


しかし、この作品に登場する若者は、真実という容赦ない悲しみに対して、その身ひとつで戦いを挑む。

その戦いは、勝っても負けても、後味の悪い結果にしかなりえない。

なぜなら、「人を傷つけてはならない」という信念の勝利が、「人を傷つける」ことによってしか獲得されないから。

にもかかわらず、若者は、その苦い後味をおそれない。


この映画は、その意味で、若者が大人に変化していく物語である。

しかし、大切なのは、若者が大人になったことではなく、大人になるということで失われた「何か」なのだ。

だからこそ、「成長」ではなく「変化」なのである。


その「何か」が失われたあとに漂う「余韻」のようなものを、

『アヒルと鴨のコインロッカー』は奇跡的に描出してみせる。


だから僕は、この作品をみるたびに、胸が締め付けられるような痛みを覚える。

でも、この種の痛みこそが、前に進むためには必要なのではないいだろうか。

だからこそ、この映画の主人公たちは、映画の最後でみんな旅立ってしまうのだろう。


うむ。だいぶ冷静さを欠いた文章になってしまった・・・。まったく分析できていないなぁ。

でも、たいていにおいて、その魅力をうまく分析できない作品ほど、人生においては重要なのである。


知性なんてぶっとばせ。

仕事を納めたばかりの元会社の同期たちと9ヶ月ぶりに再会した。

ウダウダと飲んだり歌ったりで朝4時をまわり、ひとり、またひとりと眠りに落ちていく。

最後にただ一人、僕が目覚めたままで取り残された。

みんな、おつかれさま。仕事で疲れてるのに来てくれて本当にありがとう。

もはや同じ戦場にいない僕には、のんきに目覚めておくぐらいしかできないけれど、違う現場で戦っている君らの存在こそが、僕なりの戦い方を、深いところで肯定してくれる気がするのです。

今日からしばしの休暇。ゆっくり羽を休めて、それぞれがそれぞれに、良い年を迎えることができますように。

みんなと別れて新宿から小田急線に乗った。家につくころには東の空がぼんやりと明るくなっていた。

新しい1日がはじまった。