『アヒルと鴨のコインロッカー』 -青春の余韻について- | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

この一年を振り返ってみると、映画に関してはほとんど邦画しか見ていなかった。

もうみてから結構たってしまったが、この作品については一言記録しておきたい。


伊坂幸太郎原作の映画化『アヒルと鴨のコインロッカー』である。

伊坂作品らしく、前半で描かれた物語が、後半になって「もうひとつの意味」を帯びた形で語りなおされる。

そこで語りなおされた「もうひとつの意味」は、とても悲しい真実を観客に告げる。


現実は、ときにやさしく、ときに厳しい。

このことは、子どもから大人になるときに多くの人が実感することだろう。


純粋さは、それを容赦なく呑み込もうとする邪悪にいつも狙われている。

大人になるということは、そういった邪悪を回避するために、息をひそめる方法を知ることである。


通常は。


しかし、この作品に登場する若者は、真実という容赦ない悲しみに対して、その身ひとつで戦いを挑む。

その戦いは、勝っても負けても、後味の悪い結果にしかなりえない。

なぜなら、「人を傷つけてはならない」という信念の勝利が、「人を傷つける」ことによってしか獲得されないから。

にもかかわらず、若者は、その苦い後味をおそれない。


この映画は、その意味で、若者が大人に変化していく物語である。

しかし、大切なのは、若者が大人になったことではなく、大人になるということで失われた「何か」なのだ。

だからこそ、「成長」ではなく「変化」なのである。


その「何か」が失われたあとに漂う「余韻」のようなものを、

『アヒルと鴨のコインロッカー』は奇跡的に描出してみせる。


だから僕は、この作品をみるたびに、胸が締め付けられるような痛みを覚える。

でも、この種の痛みこそが、前に進むためには必要なのではないいだろうか。

だからこそ、この映画の主人公たちは、映画の最後でみんな旅立ってしまうのだろう。


うむ。だいぶ冷静さを欠いた文章になってしまった・・・。まったく分析できていないなぁ。

でも、たいていにおいて、その魅力をうまく分析できない作品ほど、人生においては重要なのである。


知性なんてぶっとばせ。