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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。


気がついたら、僕はプレゼントというものが苦手な人になっていた。
プレゼントを贈るのも、贈られるのもあんまり好きではない。

いや、そういうとちょっと違うかな。

僕が本当に苦手なのは、プレゼントをあげるときの表情の作り方だったり、

プレゼントをもらったときの喜びかただったりするんだろう、たぶん。

プレゼントをもらうと、お返しをしなければといえ思いにかられる。

いや、その前に、プレゼントありがとう!というリアクションをとらなくてはいけない。

これがすこぶる難しいのだ。僕の場合、とんでもなくぎこちない笑顔しか出てこない。

やれやれ。

だいぶ、生きるのがへたくそです。


話はかわるけど、日本の時代劇の場合、贈り物といえば商人が悪代官に渡す賄賂とはなしが決まっている。

僕が贈り物にいいイメージを持ってないのは、小学生低学年のころ時代劇オタクだったせいかもしれない。

小さい頃からハリウッドのクリスマス映画でも見せてもらえてたら、どれだけ違う感を持てたかなと思う。


ハリウッド映画に描かれるクリスマスのシーンでは、家の中に大きなツリーが飾られていて、

そのまわりにたくさんのプレゼントが置かれている。 

マンハッタン花物語ホーム・アローン

『マンハッタン花物語』 やら、『ホーム・アローン』やら、だいぶ前に見た作品だけど、いまだにおぼえてるなぁ。

家族でツリーの下のプレゼントを順番に開けていくアメリカ・クリスマスの光景には結構あこがれました。

でも、そんな裕福なクリスマスばかりがハリウッドの描くクリスマスではない。


三十四丁目の奇蹟素晴らしき哉、人生!


のちのち『West Side Story』でヒロインを演じるナタリー・ウッドが子役として出ていて有名なのが、

『三十四丁目の奇蹟』という1947年の作品。

『素晴らしき哉、人生!!』はクリスマス映画の古典。1946年の作品。

この二つの作品では、貧しい家庭にサンタ・クロースや天使がやってきてしあわせをもたらす。

前者では、あげくのはてにサンタ・クロースがいるかいないかで裁判がおきてしまい、

感動的な結末を迎えるんだけど、今から思えば、サンタ・クロースがいるという判決が可能なら、

神だってOKになってしまう気もして、すこし危険な映画だなぁとも振り返ったりする。


ちょっと脱線しました。よいしょ。


僕のプレゼント嫌いには、家族の雰囲気というのも影響しているかもしれない。

うちの家族はクリスマスに教会へいくけど、プレゼントは全然交換しなかったし・・・。

僕の理想を言えば、贈り物って相手に気づかれないような、ささやかな物であってほしい。

そんなプレゼントなら僕は贈ってみたい。
また、例え気づかれたとしても、僕自身に返礼が帰ってくるような、そういうのもなんか違う。

後輩におごるときとかはそんな気分。


そう考えると、僕の理想の贈り物は、プレゼントではなくて、むしろ「親切」とでもいうべきではないか?

相手に気づかれないような親切。だいぶかっこつけてるなぁ。

そんな「ひとりかっこつけごっこ」をカムフラージュするために、いいかえれば単なる照れ隠しで、

僕はこれからもちょいちょいと目に見えるプレゼントを贈り続けるのだろう。


プレゼントをあげたくなるような人がいる、そのことだけでもだいぶ素敵ではないか。

二人で歩きながら、そんなことを考えておりました。


同志社のツリー
Nothingness of Sealed Fibs-同志社

平安女学院のイルミネーション
Nothingness of Sealed Fibs-平安女学院

どうやら年の瀬が近づいているようだ。

その証拠に、友人から「年賀状送るから住所教えて」というメールが一昨日届いた。

また、昨日は、とある主婦の方に「よいお年を!!」とお声をかけられてしまった。

おかげで、あわててメールを返すやら、こちらも「よいお年を!」と言い返したりと、

いつのまにか年の瀬モードにどっぷりだ。


別に年の瀬が嫌いなわけではないが、苦手ではある。

あいさつの連鎖につかまると、あらためて自分が社会的存在だったことに気がつかされるのだ。

そのことが、たまにめんどくさくなる時がある。


とはいえ、年の瀬は一年を振り返るいい機会になる。

僕は、特に、その年に読んだ本を振り返ることにしている。

パラパラとページをめくりながら、自分の思考の変化をトレースし直すのだ。

この作業が、わりと有益である。

忘れていたアイデアが思い出されたり、自分が本に書き込んでいたコメントに驚かされたりで、収穫が多い。

今年もそろそろ、振り返りの時期だなぁ。


そういえば、去年の今頃は、仕事やら忘年会やらでバタバタしていた。

あまりにも多い忘年会に対して、「そんなに忘れたいことがたくさんあるのかな」などど疑問に思ってたなぁ。

今年の年末は、うってかわって、静かに過ぎていこうとしている。


不思議な気分だ。


来年の今頃は、修論締切に向けて、あせっているのだろうか、泰然としているのだろうか。

できれば後者であってほしいが、こればかりはその場になってみないと分からない。

ただ、自分が納得のいく論文が書きあがっていてほしい。切にそう願う。


おそらくだが、神学やら宗教やらを学ぶということは、世間的には怪しい行為なのだろう。

そもそも、宗教を信じるなんて、まったく合理的でないという意見もあるだろうし、

とくにオウム事件や9.11のあとでは、宗教に関する拒否感を持つ人も多い気がする。


もちろん、アメリカというものすごく宗教的な国について、あるいは、世界各国で起きている出来事を

分析するためには宗教の知識は不可欠であり、そういう文脈で知識として学ぶ宗教の意義については

それほど反感はないと思われる。

しかし、なんといっても日本は特殊な国だ。

日本では、宗教的な信仰を持っていなくても生きていくことにあまり困らない。

その理由は、日本という共同体の同一性を担保している常識に、宗教由来の要素が非常に薄いからだと、

僕は考えている。


例えば、アメリカではことあるごとに「自由と平等」が標榜される。

しかし、なぜ自由と平等が成立するのか?という問いには、「神がそのように人間を創造した」というのが、

アメリカ独立宣言の出す回答だ。なんせ、その「自由と平等」を実現するためにアメリカは独立したのだから。

アメリカは、独立宣言という理念において建国された理念先行型の国家だ。

世界広しといえど、理念先行によって建国されたのは、アメリカとソ連だけである。

他の国は、すでに建国されていたところに理念が入り込んだり、入り込まなかったりしたに過ぎない。

当然、日本において国の同一性を担保してきたのは、理念ではなかった。


さて、オバマ氏が当選したこのまえのアメリカ大統領選挙でも、「自由と平等」は高らかに謳われていた。

もちろんGodという名詞もオバマ氏の演説には何回も登場している。

しかし、一国の国家元首になる人が、演説のなかで「神」という言葉を口にするという事態は、

日本ではかなり奇妙に映るのではないだろうか。

科学の発達した現代において、まだ宗教なんて信じてるの?そういうインテリ的な反発もあり得るだろう。


現代にいきるオバマ氏がなぜ、「神」という言葉を演説で使わなくてはならないのか。

それは、僕の考えで行けば、「神」を持ち出さなくては「自由と平等」を信じれない状況にアメリカがあるからだ。

別の言い方をすると、アメリカでは、現実として「自由と平等」を実感できていない人が結構たくさんいる。

(もちろん、アメリカのエリート層は、総じてリベラルで、宗教からもだいぶ離れている。しかし、そのエリート層からの得票だけでは大統領選挙を勝ち抜けないのがアメリカの実状である。)


現実として「自由と平等」が実感できなければ、人間は神によって「自由と平等」をもつものとして創造されたという

理念において一致団結し、実現されていない「自由と平等」の実現にいそしまなくてはならない。

そのためには、なんといっても、社会変革(CHANGE)をしなければならない、というわけだ。

これがオバマ氏の根底にある考え方であるのは間違いないだろう。


ひるがって、日本はどうなのか。

民族もほとんど一緒、田舎にいけば、どこもにやような田園風景。

勉強さえすれば、それなりの仕事にはありつける。

「格差社会の是正」は声高らかにいわれるけれど、「自由と平等」をもちだす議論はほとんどされない。

キリスト教の布教という観点から見れば、世界的にみて唯一の驚異的な大失敗に終わった国である。


そんな国に僕は生きている。

ここであらためて問う。僕は、なぜ神学、宗教をまなぶのであろうか。


僕にはなにか真理にたどりつきたいとか、なんらかの信仰を得たいとか、そういう気持ちは一切ない。

ただ、切に、僕が意識という存在のしかたをする限り、どういう風に世界が見えざるをえないのか、

僕と他者の違い、現在と過去・未来の違い、それらの点について納得のいく説明にたどりつきたいだけだ。

この辺の疑問について科学はまだなにも答えてくれそうもない。


どう生きるべきか、そのような倫理的な問いではなくて、

どういう枠組みのなかに僕は生きているのか、という存在論的認識論の問いの中で、宗教思想を理解する、

そのような方法に可能性をみいだせるのではないか。

信仰の対象ではなくて、意識であるかぎりの僕を説明する理論としての宗教思想。


僕にとって、宗教とは、「そうなのだと信じる」ことではなく、「そうだったと気づく」ことである。

いや、正確にはそうであってほしいと思っている。まだ宗教思想のその深奥にまで切り込めている自信はない。


ついでに蛇足だが、

信仰というと、日本ではbelieveの印象で捉えられているが、英語で信仰はhave faithである。

「信じる」というよりは、「信頼する」という語感に近い。


そういえば、昨日、賛美歌を歌うのに人が足りないいうことで、とある合唱団に助っ人で行ってきた。

Nothingness of Sealed Fibs-クリスマス

そこでご相伴にあずかったクリスマスケーキ。ごちそうさまでした。どうやら本格的に年の瀬である。


みなさま、よいクリスマスを。

精神分析学の創始者フロイトの最後の著作『モーセと一神教』(ちくま学芸文庫、渡辺哲夫訳)を読んだ。


彼の宗教論には、『トーテムとタブー』、『ある幻想の未来』などもよく知られているが、この遺著ではついにキリスト教本体に激しく切り込んだ主張を繰り広げている。


フロイトの宗教に対する基本的なスタンスは『トーテムとタブー』から変わっていない。

すなわち、個人心理学における強迫神経症の理論を集団における宗教現象に適用する。

つまり、宗教現象は、人類にとっての強迫神経症である、というわけだ。


『トーテムとタブー』でフロイトは、ある動物をトーテムとして崇めている部族が普段はそのトーテム動物を食べないにもかかわらず、年に一回の祝祭においてトーテム動物を食べるという点を指摘する。

そこからフロイトは、「父殺し」をキーワードとした宗教発生論を展開した。キリスト教のミサで、いまでも聖体拝領が行われるが、「キリストの体」となったパンを信徒が食べるのは、この「父殺し=カニバリズム」の名残なのだ!!


『ある幻想の未来』では、人間は文化に欲動を制限されることから、必然的に文化に対して不満を持つ。

その不満を解消するための制度として宗教が生じたという筋書きである。


そしてフロイト最後の書物『モーセと一神教』では、冒頭から異様な主張が続く。

まず、モーセがイスラエル人ではなく、エジプト人ではないかという仮設が提唱される。

モーセが「割礼」という古代エジプト人の習慣を、イスラエル人が神に聖別された証として継承していること、

モーセが、口べたでユダヤ人と直接話せず、雄弁なレビ人アロンを介してコミュニケーションをとっていたこと

(出エジプト記4章10-17節)などから、モーセがヘブライ語を話さないエジプト人だったと考えられるという訳だ。

たしかに、モーセは、イスラエル人(のうちのレビ人)の家庭に生まれたと出エジプト記2章に記載されている。

しかし、通常英雄の誕生神話が、高貴な生まれの主人公が、ある理由にとよって貧しい家庭で育つという構図を持つのに対し、モーセの誕生神話が、一般のレビ人家庭に生まれた子供であるモーセが、高貴なエジプト王家で育てられる点にフロイトは注目する。

つまり、モーセの誕生神話は、いわゆる通常の貴種流離譚のパターンとは逆になっているのだ。

そこでフロイトは、モーセがエジプト王家に生まれたということが事実であり、彼がレビ人の家庭に生まれたというエピソードは、自分たちの指導者がエジプト人ではまずいと考えたイスラエル人が付け加えたと解釈するのだ。

あまりにも自在な解釈だが、ありえなくはない。


さらに、モーセがイスラエルの民にもたらした宗教は、エジプトのファラオであるイクナートンがもっていた太陽神を唯一神とする宗教だったのではないかと、フロイトは推論する。


ここでついに、フロイトは、最後の大胆な仮説を導入する。

それは、イスラエルの民によって、モーセは殺害されたという説だ。

モーセがエジプト人だったのであれば、イスラエル人にとって、モーセの宗教はそれまでイスラエル人が

もっていた宗教とは全く異質な信仰だったに違いない。

イクナートンが新都テル・エル・アマルナでおこなった太陽神信仰は、イクナートンの死とともに無残にも

壊滅させられた。このことと同様に、モーセはモーセの宗教(=イクナートンの一神教的太陽神信仰)に

反発するイスラエル人の手で殺されたとフロイトは考えるのだ。

申命記の最後で描かれるモーセの死は、”主の命令によってモアブの地で死んだ”としか言及はない。

フロイトは、モーセの殺害を直視できなかったイスラエル人たちが、殺害の事実を抑圧したために聖書に

殺害の記述がないと考えるのだ(!!)。


しかし、モーセの宗教は、モーセの殺害によっては滅びなかった。

フロイトによれば、ぽつりぽつりとあらわれた預言者たちによって、モーセの伝統はひたひたと地下水脈のように

受け継がれたのだ。たしかに、これほど多くの預言者が現れたということは、モーセの宗教がイスラエル人の中に定着しなかったということを示しているのかもしれない。


そもそも、フロイトによれば、エジプトにいかずにイスラエルの地にとどまったイスラエル人たちがいる。

エジプトに行き、モーセやヨシュアの指導のもとに帰ってきた出戻りのイスラエル人と、もともとカナンにいて

エジプトに行かなかったイスラエル人もいるのではないかと考えるのだ。

この二種類のイスラエル人の区別が、ソロモン王の死後にイスラエル王国とユダ王国の分離となった原因とフロイトはみなしている。

さて、エジプトから出戻ってきたイスラエル人の宗教はモーセの授けた一神教的太陽神信仰だが、

エジプトに行かなかったイスラエル人の宗教は、ヤハヴェと呼ばれる地方神・民族神信仰だった。

モーセはイスラエル人たちの手で殺害されたにも関わらず、預言者たちの努力によって滅びることはなく、

ついには、ヤハヴェ信仰を一神教化する方向に変質させてしまったのである。

(これは、旧約聖書にヤハヴェ(主)とエロヒーム(神)という二種類の神が混在していることとも関連する。)


フロイトは集団心理学への個人心理学理論の応用について慎重ではあるが、次のような類比を示す。

抑圧されるトラウマ的出来事(記憶に残らない)=モーセの殺害

神経症の発症=ヤハヴェ信仰の一神教化


この後、フロイトは一神教の持つ掟「神の姿を造形することの禁止」についてこう指摘する。

「この掟は、抽象的と称すべき観念を前にしての感覚的知覚蔑視を感覚性を超越する精神性の勝利を、厳密に言うならば、心理学的に必然的な結果としての欲動の断念を、意味していた」(ちくま学芸文庫189頁)

すなわち、モーセの掟はそもそもはじめから欲動の断念を強制するものとして、「エディプス・コンプレックス」に

おける父の役割を果たしていたことになる。

この指摘以降、フロイトは、個人の精神分析学の用語で集団における宗教現象を説明しようとしていたけれど、

実は宗教現象こそが個人の精神分析学を生んだのではないかということに気がついておののくことになる。

宗教は幻想だとして、宗教を合理的な説明に解消できるはずだった精神分析の理論が、宗教の子供だった!!

精神分析(子)は宗教(父)に対するエディプス・コンプレックスの産物にすぎなかった。

別の言い方をするならば、全てが精神分析学的なのではなく、全てが宗教的だったのである。


以上のようにこの本の内容を乱暴にまとめてしまったが、フロイトの分析は、実証的とはとても言えない。

それは、書物に「記載されている」記述だけを根拠にするのではなく、むしろ書かれている記述に潜むちょっとした

齟齬を掘り返して、書物に「記載されていない」記述を明らかにしようという方法論を取っているからである。

だから、フロイトの言うことが本当かという問いに対して、正当な判断を下すのは非常に難しい。

それでも、

語られたことではなく、語られていないことに傾聴するというフロイトの姿勢には、学ぶことが多いと僕は思う。

面白い本である。

12月6日から12月7日にかけての週末、鳥取まで先輩方のアカペラ・アンサンブルに混ぜていただき、

コンサートに行ってきました。


一日目は、鳥取市佐治町にある天文台「さじアストロパーク」で歌ってきました。

京都を朝8:30発の高速バスで、用瀬までゆき、その後は天文台の研究員の方に車で天文台まで連れて行って

いただきました。天文台到着は13時過ぎごろ。


Nothingness of Sealed Fibs-天文台

さじアストロパークには、天文台だけでなく宿泊施設があり、家族旅行や、星空観測でも楽しめる。

その宿泊施設は「サブ天文台」と言われており、和風の建物とミニ天文台がくっついたたのしい施設。

ぼくらが泊まった日は、あいにくの曇り空で、星の観測ができなかったのですが・・・。


Nothingness of Sealed Fibs-sabu

肝心のコンサートは、リハーサルで頑張りすぎて本番で声がでないという最悪なパターン。あまり戦力にならなかったかもしれないです。すいませんでした…。来年も呼んでいただけたらがんばろ!!

でも、すこし雪の舞う中、たくさんのお客さんに来ていただきまして、ありがとうございました。

コンサート終了後はパーク内のペンションで夕食。そこで、なんと蜂を食べてきました!!(人生初)


Nothingness of Sealed Fibs-蜂の煮物

幼虫と成虫が煮物になっています。こわごわ食べてみると、意外にあっさりとしていて食べやすかった。

でも、これは、ちょっと食べれなかった・・・↓。


Nothingness of Sealed Fibs-はちさん

二日目は、おなじく鳥取県岩美町の公民館で行われたクリスマス・コンサートに出演。

こちらは、前日の反省が生きて、非常にいい演奏ができました。

演奏会終了後は、岩美温泉にむかい、みんなで疲れを癒しました。

温泉街の看板で見つけたのがこの変な場所↓。


Nothingness of Sealed Fibs-どんづまりハウス
ぜひ、一度はいってみたいですね(笑)。


お風呂の後は、コンサート主催者の方のお宅に向かいまして、カニのフルコースをいただきました。

しかし、あまりにテンションがあがっていたので、写真を撮り忘れました・・・。ざんねん。

カニに迫力を感じたのは人生で初めてです。


夜は、先輩方といろいろ話ができて、さながら大人の修学旅行の様相。

第一線で活躍されている先輩方のお話を聴いていると、時間があっというまにすぎていきました。


12月8日の早朝バスで、京都に帰着。また一週間が始りました。

がんばってまいります。


朝、岩美駅で。おひさまと面会。いろんな意味でピリッとした朝でした。
Nothingness of Sealed Fibs-岩美駅

今日、出席していた講義で教官がこんなことを言っていた。


新約聖書には「時」をあらわすギリシャ語の単語がふたつある。

普通の意味での過去、現在、未来と流れる時間を意味するのが「クロノス」。

クロニクル=物語であることを思い出せば分かりやすい。

一方、ある特別な意味をもった「時」のことをギリシア語では「カイロス」という。

イエスの言葉「その時は来た」などを思い起こしていただきたい。


この二つの「時」をめぐって、教官は次のように指摘した。


現代はすべてにおいて「クロノス」が優先されていて、「カイロス」が失われている。

たとえば、携帯電話の普及により、誰かと待ち合わせたときに出会えずにすれ違ったり、

はぐれることはなくなった。

それによって、待ち合わせのあの特別なドキドキ感は失われ、

「カイロス」的な意味での濃密な時間を人々が経験する機会が少なくなっている、と。


確かにそういう一面もあるだろう。

教官は名作ドラマ『君の名は』を例として挙げていたが、あのドラマのように何回も

すれ違い続けるシチュエーションは、携帯電話が身近にある現代では想像が難しい。

携帯電話は、ふたりの人間が出会うことを容易にしている。これは間違いない。


でも、僕には、素直にナルホドと教官の指摘にうなずけなかった。

というのも、ちょうど一か月ほど前にディズニー・シーに行った時のことを思い出したからだ。


土曜日の朝八時半に、僕はディズニー・シーの入り口ゲート前で相方と待ち合わせをしていた。

二人ともゲートの前についたので電話で話しながら、お互いを探したのだがまったく見つからない。

電話で相手の声もはっきり聞こえていたし、ふたりともディズニー・シー駅で降りたはずなのに、

開場をまつ行列のなかで、お互いの姿を判別することができない。


「そこ、まわりになにがある?」

「そこでちょっとジャンプしてみて!」

などとさんざんやりとりをするなかで、だんだん相方がイライラしてきてるのが伝わってきたのだが、

僕のほうは、「もしかして僕は幻をみてるのだろうか?」とか「別世界と電話してるのかな?」とか、

変なアイデアが浮かんできたせいで、不思議に落ち着きながら電話の声を聞いていたのだ。


結局20分ほど経って、相方が北ゲート、僕が南ゲートにいたことが分かって無事に会えた。

でも、もしかしたらもう会えないかもしれない、というあの強い感覚を僕は一生忘れないだろうと思う。

その日の天候が少し悪かったせいか、入場後もあまり待たずに色んなアトラクションに乗れたし、

午後に合流した相方の友人ご夫妻にもよくしていただいて、とても楽しい一日だった。

それでも、一番印象に残ったのは、やはり、入園前のこの一コマだったのだ。


ところで、この僕のささいな体験には「カイロス」があったと考えてもいいだろう。

すると、次のように整理できることになる。


携帯電話の普及は、たしかにすれ違いがおこる回数を格段に減らしたことだろう。

ここまでは、教官の指摘に僕は賛同する。


しかし、すれ違いはゼロにはならず、しかも携帯電話をもっているときのすれ違いは、

もっていないときのすれ違いよりも、相当強烈になっているのではないだろうか。

この点において、僕は教官のいうことに素直に納得できなかったのだ。


好意的にとれば、「携帯電話は、すれ違いの意味を深めた」とすら言える。

なんてことは、ないか?(笑)


でも、携帯電話のあるなしとは関係なく、実際に目の前に相手が見えていても心が通じ合わないことはある。

言い換えれば、目の前にいる人とすら「すれ違う」ことはありうるのだ。

だとすれば、人間は、意外とすれ違いに満ちた人生を過ごしているのかもしれない。