すれ違いの意味 | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

今日、出席していた講義で教官がこんなことを言っていた。


新約聖書には「時」をあらわすギリシャ語の単語がふたつある。

普通の意味での過去、現在、未来と流れる時間を意味するのが「クロノス」。

クロニクル=物語であることを思い出せば分かりやすい。

一方、ある特別な意味をもった「時」のことをギリシア語では「カイロス」という。

イエスの言葉「その時は来た」などを思い起こしていただきたい。


この二つの「時」をめぐって、教官は次のように指摘した。


現代はすべてにおいて「クロノス」が優先されていて、「カイロス」が失われている。

たとえば、携帯電話の普及により、誰かと待ち合わせたときに出会えずにすれ違ったり、

はぐれることはなくなった。

それによって、待ち合わせのあの特別なドキドキ感は失われ、

「カイロス」的な意味での濃密な時間を人々が経験する機会が少なくなっている、と。


確かにそういう一面もあるだろう。

教官は名作ドラマ『君の名は』を例として挙げていたが、あのドラマのように何回も

すれ違い続けるシチュエーションは、携帯電話が身近にある現代では想像が難しい。

携帯電話は、ふたりの人間が出会うことを容易にしている。これは間違いない。


でも、僕には、素直にナルホドと教官の指摘にうなずけなかった。

というのも、ちょうど一か月ほど前にディズニー・シーに行った時のことを思い出したからだ。


土曜日の朝八時半に、僕はディズニー・シーの入り口ゲート前で相方と待ち合わせをしていた。

二人ともゲートの前についたので電話で話しながら、お互いを探したのだがまったく見つからない。

電話で相手の声もはっきり聞こえていたし、ふたりともディズニー・シー駅で降りたはずなのに、

開場をまつ行列のなかで、お互いの姿を判別することができない。


「そこ、まわりになにがある?」

「そこでちょっとジャンプしてみて!」

などとさんざんやりとりをするなかで、だんだん相方がイライラしてきてるのが伝わってきたのだが、

僕のほうは、「もしかして僕は幻をみてるのだろうか?」とか「別世界と電話してるのかな?」とか、

変なアイデアが浮かんできたせいで、不思議に落ち着きながら電話の声を聞いていたのだ。


結局20分ほど経って、相方が北ゲート、僕が南ゲートにいたことが分かって無事に会えた。

でも、もしかしたらもう会えないかもしれない、というあの強い感覚を僕は一生忘れないだろうと思う。

その日の天候が少し悪かったせいか、入場後もあまり待たずに色んなアトラクションに乗れたし、

午後に合流した相方の友人ご夫妻にもよくしていただいて、とても楽しい一日だった。

それでも、一番印象に残ったのは、やはり、入園前のこの一コマだったのだ。


ところで、この僕のささいな体験には「カイロス」があったと考えてもいいだろう。

すると、次のように整理できることになる。


携帯電話の普及は、たしかにすれ違いがおこる回数を格段に減らしたことだろう。

ここまでは、教官の指摘に僕は賛同する。


しかし、すれ違いはゼロにはならず、しかも携帯電話をもっているときのすれ違いは、

もっていないときのすれ違いよりも、相当強烈になっているのではないだろうか。

この点において、僕は教官のいうことに素直に納得できなかったのだ。


好意的にとれば、「携帯電話は、すれ違いの意味を深めた」とすら言える。

なんてことは、ないか?(笑)


でも、携帯電話のあるなしとは関係なく、実際に目の前に相手が見えていても心が通じ合わないことはある。

言い換えれば、目の前にいる人とすら「すれ違う」ことはありうるのだ。

だとすれば、人間は、意外とすれ違いに満ちた人生を過ごしているのかもしれない。