『バベルの謎』 -言葉で表象できない神ー | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

先月、寺町通りの三月書房で『バベルの謎』(長谷川三千子著)を見つけて即購入。

創世記11章に出てくる「バベルの塔」の物語について、常識を覆す探究を行っている。


Nothingness of Sealed Fibs-バベルの謎


ふつう「バベルの塔」の物語は、おごり高ぶった人間が天に届く塔を作ろうとし、

それに対して怒った神が、それまで一つの言葉を話していた人間たちの言葉を

ばらばらにした。それが原因で、現在のような多言語、他民族の世界になった、

という世界の由来を説明するお話として理解されている。


しかし著者は、旧約聖書の原文にもとづいて、上の常識的な理解を批判する。


第一に、バベルの塔は、原文通りに読めば、神の賛美のために作られた一種の神殿であり、

決して、人間の傲慢さを示すための建造物ではない。


第二に、神が一つだった言語を、多言語に分けたとは明確に本文に書いてない。

本文では、神は、「言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにした」と

書かれているだけである。


そして、著者は、バベルの物語を次のように解釈する。


バベルの物語は、もともと一つの言葉を話していた民族が、

神によってその傲慢さをとがめられ、そのとがめの結果として、

言葉をバラバラにされ、多民族、多言語になってしまった、という物語ではない。


そうではなく、神について言葉をもちいて語ることができるという素朴な共通理解が、

ヤハウェによって崩され、「言葉が崩壊した事態」が生じたことを伝える物語である。

「言語の崩壊した事態」とは、「一人一人の発する言葉が、あたかも乳児の喃語の

ように、その人独りの閉じた空間のうちに響くのみで、決して他の人間へとどくことが

ない(中公文庫版376頁)」という状態のことを指している。


ヤハウェは、物質的なものを神の代理物とみなす偶像崇拝を厳しく禁じた。

そのため、人間は、物質的ではない「ことば」をもちいて、宗教を作ろうとした。

この点において、バビロニア語やヘブライ語など、さまざまな言語を話していても、

人々の間では、「神」について「語る」ことができるという共通の理解が成立していた。

しかし、ヤハウェは、そのような、共通理解が可能な言語上の「神」の概念ですら、

「偶像崇拝」であると考えた、というわけだ。


こうして本の結論だけ書いてしまうと、突飛なようだが、

この本の神髄は、その丹念な論証にあり、実際に手に取ってみれば、

この結論にも、かなりの説得力があると感じられるはずだ。


僕自身の感想を言えば、この本はとても面白かった。

欲をいえば、この本の結論でいわれている「言葉をもちいて語ることができない神」が、

そもそもなんなのかという問いが、この本の中では扱われておらず、ちょっとものたりない。

しかし、それは、この本の範囲外だろう。


そこから先は、自分で考えるしかないのだろう。

「言葉をもちいて語れない」という事態の意味は、もはや意味としては抽出できないのかもしれない。

しかし、意味を抽出できない言葉とは、なんなのか。意味を抽出される前の言葉とはなんなのか。

この本が残した問いかけは、めっぽう深い。