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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

滝沢克己先生の『現代における人間の問題』(三一書房、1984年)を読んでいたら、ライ病を患ってなくなった明石海人さんの歌集『白描』から次の言葉が引用されていた(同書28頁)。印象深かったので覚え書いておく。

 

「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ、何処にも光はない」

 

「人の世を脱れて人の世を知り、骨肉を離れて愛を信じ、明を失っては内にひらく青天白日をもみた」

 

滝沢先生は、上記の言葉について、「西田幾多郎が『絶対矛盾的自己同一』と言い、カール・バルトが『インマヌエル(神ともに在ます)』と称えた、同じ生命の泉から溢れ出たものと言わなくてはならないでしょう」とコメントしている。

 

『現代における人間の問題』は、滝沢先生の講演3本とその質疑応答を収録している。明石海人さんの言葉が引かれているのは、山口大学学園祭での講演である。一般向けだったからかもしれないが、難解な用語がなく、宮沢賢治なども引用されており、読みやすい。

 

「自らが燃えなければ~」のくだりを禅の言葉でいうなら、「自明灯」となるのだろうか。真実・生命・自己の区別が困難になる一点を、区別が困難であるがゆえに確かな「生命の泉」として掴むためには、僕自身まだまだ探求が必要なようである。

 

ややこしいことは、ともかく。「日常生活を深海魚族として生き延びる」という明石海人さんの言葉は、読んだその時から僕にすんなり染みこんでいる。

■『新約聖書(口語訳)』

冗談で書いているのではない。ついに、本当に新約聖書を一度通読することができた。最後まで読み残していたヤコブの手紙、ペテロの手紙、ヨハネの手紙を寝る前に少しずつ読み進めての達成である。新約聖書のなかでやや存在感の薄いこれらの手紙だったが、印象に残ったのはペテロの第二の手紙3章15‐16節でペトロがパウロについて述べている下りである。ペトロは、パウロの手紙の中に「ところどころ分かりにくい箇所があって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」と表現している。ペトロからみてもパウロ書簡が「分かりにくい」のだと思うとなんだかほっとした。その一方、パウロ書簡についての無理な解釈、つまり誤解がペトロの時代から横行していたのだと思うと、その後の基督教の困難な歩みを示唆していそうで、暗い気持ちになった。そんなときこそパウロなら「闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を身に着けよう」と言ってくれるのだろうが、闇と光の区別は、簡単なようで案外難しいのである。

 

■前嶋信次『玄奘』岩波新書,1952年

図書館で借りて読んだ一冊。玄奘という人は、旅人としても、翻訳家としてもあまりにもすごい業績をあげており、天才的な人物である。「大唐西域記」をいつか読みたいと思っているが、なかなか時間がないということで、コンパクトに玄奘の生涯を紹介している本書を読んでみた。シルクロード系の古典翻訳で有名な前嶋氏の文章は読みやすく、内容はとても面白かった。読み終わった後、いつか「大唐西域記」に挑戦してみたいという気持ちが強まった。

 

■阿満利麿『宗教の深層 聖なるものへの衝動』ちくま学芸文庫,1995年

第二章”専修念仏の「世俗化」”にハッとさせられた。阿満氏は同章で「日本における最初の超越宗教である専修念仏は、(中略)ほぼ六百年を経て、宣長の国学という、ひとつの世俗化形態を生むにいたったのである。そこでは、超越者に対しては不可知論をもってのぞみ、人情という感情が最終の根拠とされている」(同書150頁)と指摘する。この文章をよんで、僕には本居宣長(1730-1801)とF・シュライアマハー(1768‐1834)が思想史的に似た立ち位置にいるのではないかということに思い至った。ふたりとも文献学者・解釈学者という側面をもち、国学・神学という領域で個人の感情を最終根拠においた立場を切り開いた。このアナロジーがどれぐらい妥当なのかはわからないが、遠く離れた場所で、別々の宗教をめぐる思想が同じような歩みをみせるということに何だか不思議な気持ちにさせられる。ほかにも、西洋でトマス・アクィナス(1225‐1274)がスコラ学という哲学的神学体系を完成させた同時期に日本では鎌倉新仏教の巨頭がでてくる。親鸞(1173‐1263)、道元(1200‐1253)、一遍(1234‐1289)然り。そうみてくると西洋のキリスト教の展開と、日本における仏教の展開が比較思想史として興味深い主題のように思われてきた。

 

■植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』中公新書,2011年

植木先生の手法は、漢訳仏典を挟まずに、仏典をサンスクリット語、パーリ語で読み解こうという文献学的には至極妥当な立場である。中村元先生もそうなのだが、サンスクリット語やパーリ語から直接日本語訳された原始仏典はとても分かりやすい。サンスクリット語から漢字に音写され、そのまま日本語に入っている言葉の雑学も満載で楽しく読め、なんども「へぇ~」とつぶやいた。例えば、インドが信度や身毒という音写になっていることを知ったのだが、そうなると折口信夫の「身毒丸」は印象が異なってくる。この本のスタンスでちょっと気になるのが、原始仏典が正しく、翻訳を通した誤解に基づく日本仏教のいくつかの議論は間違っているという基本姿勢がみられる一方で、道元や日蓮の漢訳仏典の恣意的な読み替えを実り豊かであるとして肯定的に評価しているところである。是々非々といわれればそれまでなのだが、やや一貫性に欠けるように思われた。

 

■K・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社ライブラリー

■K・リーゼンフーバー『中世思想史』平凡社ライブラリー

なかなか読む機会のないラテン教父についての基礎知識を得ようと読んでみた本。リーゼンフーバーさんはイエズス会士なので、キリスト教を背景とした中世哲学の解説に読みごたえがある。個人的にはギリシャ哲学と基督教の融合と対立の渦中にいながら基督教の信仰について考え続けたテルトゥリアヌスの言葉にハッとさせられた。「哲学者とキリスト教徒とのあいだにはたしてどのような類似があるというのか、前者はギリシアの門弟、後者は天の門弟であるというのに。一方は名声を追い求め、他方は命を渇望しているというのに、また一方は口舌の徒であり、他方は実践の人であるというのに」(『中世思想史』26頁)、「神の子は十字架に架けられた。これは恥ずべきであるがゆえに、われわれはそれを恥としない。神の子は死んだ。このことは不合理であるがゆえに、まったく信ずるに値する」(『中世思想史』27頁)などのテルトゥリアヌスの言葉は、彼がみていた信仰の確かさを反映しているように感じられた。

 

■児玉聡『オックスフォード哲学者奇行』明石書店,2022 年

20世紀の哲学界を牽引したオックスフォード大学の哲学者たちについて、その人となりを示すエピソードをまとめたエッセイ集。ケンブリッジ大学にいたウィトゲンシュタインの話は含まれないが、もらったコメントにそれ以上の返事コメント返していたデレク・パーフィットのエピソードが面白かった。酒場で「何をしているの?」という質問をうけた彼が、「大事なことについて考えているんだ」と返したシーンが気に入った。

 

■片岡弥吉『浦上四番崩れ』ちくま文庫,1991年

幕末に長崎で在留外国人のキリスト教信仰が許可されてから、長崎にふたたびカトリックの神父が来日した。江戸時代の間、ひそかに信仰を守っていたキリシタンが、神父のもとを訪れたことで隠れた信仰が明らかになり、江戸幕府による弾圧がおきた。浦上の村民たちは、様々な藩に預けられ、苛烈な待遇のなかで棄教を迫られた。信仰をまもりつづけたり、棄教後にまた受洗したり、いろんな人がいたことがこの本に引用されている記録でわかる。信徒たちは棄教の促しに対し、「天主(パテル)がこの世界とはじめの人間を作ったので、本当の親である。他の宗旨は信じられない」という素朴な反論で応じた。個人的には、潜伏キリシタンたちがキリスト論ではなく創造論によって信仰を守ったという点が興味深かった。

 

■岡本隆司『曾国藩』岩波新書,2022年
■岡本隆司『李鴻章』岩波新書,2011年
■岡本隆司『袁世凱』岩波新書,2015年
■菊池秀明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』岩波新書,2020年

太平天国について一度はまとまって本を読みたいと思っていた。図書館で菊池先生の本を手に取ってみた。太平天国についての知識は増えたが、気になったのが乱をなかなか弾圧できない清王朝の人材不足である。そこで岡本先生の本を遡って読んでみた。曾国藩については、なんども太平天国に敗れていて戦争が下手というイメージしかなかったが、科挙を通った超エリートで詩文集が出版されるほどの文化官僚であり、軍人ではなかったとこの本で知り、びっくりした。曾国藩は清王朝からの実質的な援助がない状態で地元のひとたちと軍隊を作り、太平天国と戦うなかで実力をつけ、最後は太平天国を鎮圧した。彼は、科挙の試験には全く出てこなかった戦略・戦術を実戦のなかで磨き上げ、結果を出した。李鴻章を育てた点も曾国藩のスケールの大きさを物語っていると思う。


■池見酉次郎『催眠』NHKブックス,昭和42年

■池見酉次郎『心療内科』中公新書,1963年

■池見酉次郎『続・心療内科 人間回復をめざす医学』中公新書,1973年

催眠にかけられたワニや、催眠で消えるイボなど、びっくりネタが真面目に書かれている本。医学が強い治療手段をもっていなかった時代、催眠・暗示はかなり強力な治療手段としてもちいられていた。個人的に興味深かったのが、催眠療法は精神科的症状よりも内科的な症状の治療目的に用いられていたということである。池見先生は日本の心身医学の草分けだが、オカルト視されやすい催眠についても、客観的で冷静な分析をされており、好感をもって読める。聖典に記載されている宗教的な癒しの奇蹟は、科学的に否定的に扱われることが多いが、池見先生の本を読んでいると、そういう癒しの業は実際に起こりえたのではないかと考えさせられた。

 

■きたやまおさむ『コブのない駱駝』岩波現代文庫、2021年

このきたやまおさむさんの自伝的な本からは医療者の宿業について学んだ。僕は20代のとき、E・レヴィナスを読んで「生きることは、生き残ることである」と青臭くつぶやいていたが、この本を読んで、W・ウィニコットとE・レヴィナスがみていたことが案外近いのではないかと感じた。

 

■山鳥重『ヒトはなぜことばを使えるか 脳と心のふしぎ』講談社現代新書,1998年

神経心理学の泰斗、山鳥先生の本からはプロソディという概念について学んだ。概念をしらなければ把握できない機能がある。まだまだ僕は、自分の行為や思考について十分に説明できるだけの概念を手に入れていない。

 

つづく

いまだに全部読みえ終えていない小林秀雄『本居宣長』を、今年の大河ドラマに便乗してなんとか読み通したいなと思っている。いつも本居宣長の源氏物語論を扱い始めるあたりで苦しくなって積読にもどるのだが・・・。

 

久々に手に取ってみてみると、だいぶ前に自分が線を引いた箇所が目に留まった。小林秀雄は本居宣長の学問への態度を論じて、次のように述べている。

 

「私には、宣長から或る思想の型を受け取るより、むしろ、彼の仕事を、その深い意味合での自己実現、言わば、『さかしら事』は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。(中略)彼は、鈴の音を聞くのを妨げる者を締め出しただけだ。確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信のなかに踏み込む事だけは、決して許さなかった人だ。」(小林秀雄『本居宣長』,新潮文庫、平成19年、41頁)

 

「確信は持たぬが、意見だけは持っている人々」という文章の含蓄がすごい。本居宣長は、『古事記伝』のなかで、当時分からなくなっていた「古事記」の読み方を、様々な文献にあたるなかですこしずつ確定していくという力業を見せた。むろん、小林秀雄は本居宣長の力業を、意見ではなく確信の集積とみている。要は、確信にいたるまで勉強せよということなのだろうが、最終的には、「〇〇によれば」という他からかりてきた根拠に基づく”意見”ではなく、自分の納得を根拠とせよということなのだろうか。

 

僕には、この小林秀雄の文章は、不安に駆られていろんな意見を言う人々に対する皮肉のようにも感じられた。とはいえ、現実の世界は複雑で予測困難であり、ついつい確信を欠いた意見を言ってしまいがちになる。だが、困難な状況ほど意見が役に立たず、いざというときにあてになるのは確信だという側面もある。自分の考えや発言が、確信までに至らない意見に留まっていないか、自分に言い聞かせながら過ごしていきたいと思う。

すこしずつ追記。

 

■司馬遼太郎『坂の上の雲』文春文庫,1978年

ウクライナとロシアの紛争が勃発し、やはりどうしてこんなことになったのかと思うのと同時に、そもそもウクライナやロシアについてほとんどよく知らないことに気が付いた。「正露丸(征露丸からの改称)」「堅ボーロ(堅亡露)」といった言葉に名残をとどめる日露戦争についてもよく知らない。そこで手に取ったのが『坂の上の雲』である。

大長編を一気に読ませる司馬さんの文章はさすがという感じであるが、この作品の一番すごいところは、秀逸なタイトルだと思う。日本についてずーっと考えてきた司馬さんは、遥か彼方の西欧列強を追いかける明治日本をこのタイトルに凝縮させている。歴史学の研究が進み、事実関係としてそのまま受け取れない箇所もあるようだが、錯綜した事実関係を「動き」として目鼻がつくよう整理する力業は、個人的には四苦八苦する臨床家にとってとても参考になるように思う。

それにしても思うのは産業・技術の進歩を生む文明の恐ろしさである。日露戦争期は、軍艦は石炭で動き、陸軍では騎馬部隊がその機動性を誇っていた。この数十年後、太平洋戦争期になると、海軍の軍艦は重油で動くようになり、陸軍では戦車・自動車が主力となる。石炭から石油・鉄鋼へと軍事力を規定する要因は様変わりした。太平洋戦争期の感覚からみると、日露戦争はのどかな戦(いくさ)に見えてしまうのではないか。そう考えると僕はなんとも言えない気持ちになってしまう。

亡くなった中井久夫先生が神戸大学で日本精神神経学会の大会を主催されたとき、そのテーマが「坂の上の雲」だったというのを知る機会があった。司馬さんにとって「坂の上の雲」を追いかけていた愛すべき明治日本は、日露戦争勝利後に「雲に追いつき、追い越せたかもしれない」と思ったあたりから徐々におかしくなって昭和の悲劇を生む。2009年の中井久夫先生が精神医学を「坂の上の雲」と形容したことの意味を、僕はまだ測りかねている。

 

■奥武則『ロシアのスパイ 日露戦争期の「露探」』中公文庫,2011年

『坂の上の雲』のなかで「露探」という言葉がでてきて興味をもっていたのだが、神戸の古本屋にいったときにたまたま奥武則さんの本をみつけて即買いした。ジャーナリスト出身の著者によるノンフィクション様の作品で、そういうことがあったのかという意味で勉強になった。一番印象に残ったのがロシア正教会のニコライ司教が、日本人信徒たちにむかって「君たちは祖国の勝利を祈りなさい」と言っていたことである。ロシア正教会と国家という問題についてもいくつか読んでみたい本がでてきた。

 

■前嶋信次『アラビアの医術』中公新書,1980年

図書館で借りて読んだ1冊。イスラム圏の有名な医学者についてエピソードを集めた本。当時の医学者が成果をだせなければ命がけだったこと、有名な医師の家系の間で権力闘争があったことなどが分かって面白かった。個人的にはイブン・スィーナー(アヴィセンナ)が10世紀のブハラ(現在のウズベキスタン)出身だったこと、イブン・ルシュド(アヴェロエス)が12世紀のコルドバ出身だったことをこの本で知って、あらためてイスラム圏の広さにおどろいた。二人の空間的・時間的な間に、ガザーリー(現在のイラン出身)がいる。アヴェロエスと同時代のコルドバからユダヤ人医師・哲学者マイモニデスが生まれており、当時の天才たちを思索に向かわせた要因はなんだろうかと考えさせられた。


■三木亘『悪としての世界史』,文春文芸ライブラリー,2016年

三木亘氏は、表題作「悪としての世界史」という文章で、K・マルクスを歴史家ととらえ、その歴史家としての手腕を高く評価しつつ、マルクスですら社会が進歩する・発展するというヨーロッパ的発想から逃れられていないと批判する。これにはハッとさせられた。発展史観によれば、イスラームのあとに台頭したヨーロッパ文明のほうが、イスラームより優れていることになる。しかし、三木さんは、イスラーム社会が非常に成熟した社会であったことを様々な観点から説明している。例えば、イスラム王朝の支配圏では、税金を納めてさえいれば、宗教や宗派は各人の自由な選択に任されていた。現代社会では、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教に対立があるのが当然のように思われるが、エルサレムでは19世紀後半まで異なる宗教をもつ人々が仲良く隣同士で住み、助け合いながら暮らしていた。そのことを知るだけでも、「宗教のせいでいがみ合っている」という思い込みを相対化できるように思う。「世界史は人と付き合うための学問である」という三木先生のスタンスは、世界史だけでなくあらゆる学問的営みにも言えることなのではないか。精神医学には桜井図南男先生の「分かるとは自分が変わることである」という至言があるが、三木さんのこの本は、知らないのに分かったつもりになっていることがたくさんあることに、あらためて気が付かせてくれた。この本でアンリ・ピレンヌというベルギーの歴史家の名前を知ったのだが、そのあと中井先生の『西欧精神医学背景史』を読み返した機会にアンリ・ピレンヌが引用されていて呆然とした。読みたい本は増えるばかりであるが、読書時間は減るばかりである。

 

■網野善彦『日本の歴史を読み直す(全)』ちくま学芸文庫,2005年

「虹が立つと、かならずそこに市をたてなくてはならないという慣習が古くからありました」(同書57頁)という文章にびっくりし、一気に読み切った。中世の寺院(例えば比叡山)が高利貸あるいは銀行の役割を果たしていたのがなぜかすっきりしたし、新鮮に感じる論点がたくさんあった。非農業民が天皇と直接結びついていたという網野さんの指摘に驚いたが、考えてみれば中世のイスラム圏でユダヤ人が職業人・技術者・金融人として重んじられたのと似たような構造がある。高貴なものがさげすまれる仕組みは、人間の社会にあるていど普遍的にみられる現象なのかもしれない。個人的にハッとさせられたのは、寺社という聖域において物が人との結びつきから離れて「無縁」の状態となり、そのようになってはじめて物の売買・交換ができるようになるという指摘である。新約聖書のイエスは神殿で商売をしている人々を神殿から追い出し、店の設備をひっくり返し、集まった病人を癒したとされる(マタイ21章12‐14節)。網野氏の指摘を踏まえると、イエスがした行動は、神殿という場所や空間のもつ”力への信仰”から、病を癒す技術(?)への回帰を目指したということになるのだろうか。また考えたいテーマが増えた。

 

続く

年末年始は紅白歌合戦をみたり、オーケストラの演奏を聴いたり、甥姪たちにお年玉をとどけつつ祖母のところに顔をだしたり、大河ドラマに合わせて久しぶりの石山寺にいったりした。いろんなあつまりが一段落して家でゆっくりと相方さんと話しているとき、「あれ?」となったことがあったので覚え書いておく。

 

中学生時代に英語の授業でdowntownを辞書をひかずに思い込みで「下町」と訳して恥をかいたことがある。downtownをちゃんと英和辞典で引いてみると「中心街」の訳があてられている。downとtownを文字通りとらえると「downした+townまち」となるので、僕は安直にも「下町」と訳してしまったわけだが、「下町(庶民的な町)」と、実際の英語の意味である「中心街(都会的な街)」は、まったく逆方向を向いているのだった。その授業にでるまで、僕は山下達郎さんの名曲の歌詞「DOWNTOWNへくりだそう~」を「下町に出かけよう」と誤解していたわけである。中学生当時の僕は辞書のいうことを素直に受け入れるタイプの人間だったので、「downtown=中心街」と頭ごなしに記憶し、この違和感の正体を掘り下げることはなかった。

 

この違和感の謎がとけたのは、一回目の大学にはいってヨーロッパ史について学んだあとであった。ヨーロッパでは町の中心部に教会がたてられ、その周囲にお役所や商業地域がならび、住宅がその外側につくられるという基本構造になっている。低地は道が集まり、交通の利便性が高くなりやすい。人の集まる教会は自然と低地に建造されるわけである。

 

一方、日本で低地といえば洪水リスクの高い場所であり、人が安心して住める場所ではないし、大切な神社や寺院を建てるにふさわしい場所ではなかった。日本の集落の成り立ちをみると、ほとんどの場合、山地と平地の境目に家が建てられ始めている。平地をなるべく田んぼにしたいという思惑も働いたのかもしれない。その結果、日本の場合、低地は外部から移住してきた人や、流浪の人・遊行の人・商人など、つまり土地に縛られない人が集まる場所となっていきやすい。

 

このように、ヨーロッパと日本での都市の成り立ちを知ってようやく、downtownが下町ではなくて中心街になる意味が納得できたように感じたのだった。だが、ここであらたな展開がでてくる。いわゆる「繁華街」という日本語は、結構downtownとうまく重なるように思われるのだ。繁華街は、江戸時代までは人が住んでいなかったような場所、つまり低湿地の地盤を改良し、開発して作られていることが多い。戦後にビルがたくさん建てられた繁華街には、downのtownとうまく語感が一致するケースがしばしばある。

 

言葉の意味には過去の歴史が詰まっている。言葉を話すということは、時間を積み重ねることでもあるのである。そんな風に時間について思いを新たにした年明けであった。しっかり休む日もいれておいたので、仕事始めはスムーズに入れたように思う。新年早々いろいろな出来事がおこり、気持ちは晴れようがないが、滝沢克己先生の「にも拘らずの哲学」に倣い、失われようのない希望をもって時間を過ごしていきたいと思う。

 

余談になるが、いままで数回訪れているにも関わらず、石山寺に島崎藤村が一時身を寄せていた密蔵院という建物があることに今回はじめ気が付いた。人間は関心のないことを見落とすものであるらしい。今の密蔵院は日陰になりやすい湿気だらけの場所に移築されているが、もともとは東大門の前の瀬田川を望む場所にある塔頭だったとのこと。教え子との恋愛関係に悩んだ藤村が「ハムレット」をもって数か月住んでいたとき、彼は石山寺と瀬田川とハムレットに囲まれ、何を考えていたのだろうか。