意見よりも確信を持ちたい…のだが。 | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

いまだに全部読みえ終えていない小林秀雄『本居宣長』を、今年の大河ドラマに便乗してなんとか読み通したいなと思っている。いつも本居宣長の源氏物語論を扱い始めるあたりで苦しくなって積読にもどるのだが・・・。

 

久々に手に取ってみてみると、だいぶ前に自分が線を引いた箇所が目に留まった。小林秀雄は本居宣長の学問への態度を論じて、次のように述べている。

 

「私には、宣長から或る思想の型を受け取るより、むしろ、彼の仕事を、その深い意味合での自己実現、言わば、『さかしら事』は言うまいと自分に誓った人の、告白と受取る方が面白い。(中略)彼は、鈴の音を聞くのを妨げる者を締め出しただけだ。確信は持たぬが、意見だけは持っている人々が、彼の確信のなかに踏み込む事だけは、決して許さなかった人だ。」(小林秀雄『本居宣長』,新潮文庫、平成19年、41頁)

 

「確信は持たぬが、意見だけは持っている人々」という文章の含蓄がすごい。本居宣長は、『古事記伝』のなかで、当時分からなくなっていた「古事記」の読み方を、様々な文献にあたるなかですこしずつ確定していくという力業を見せた。むろん、小林秀雄は本居宣長の力業を、意見ではなく確信の集積とみている。要は、確信にいたるまで勉強せよということなのだろうが、最終的には、「〇〇によれば」という他からかりてきた根拠に基づく”意見”ではなく、自分の納得を根拠とせよということなのだろうか。

 

僕には、この小林秀雄の文章は、不安に駆られていろんな意見を言う人々に対する皮肉のようにも感じられた。とはいえ、現実の世界は複雑で予測困難であり、ついつい確信を欠いた意見を言ってしまいがちになる。だが、困難な状況ほど意見が役に立たず、いざというときにあてになるのは確信だという側面もある。自分の考えや発言が、確信までに至らない意見に留まっていないか、自分に言い聞かせながら過ごしていきたいと思う。