読書記録2023年 その3 | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

■『新約聖書(口語訳)』

冗談で書いているのではない。ついに、本当に新約聖書を一度通読することができた。最後まで読み残していたヤコブの手紙、ペテロの手紙、ヨハネの手紙を寝る前に少しずつ読み進めての達成である。新約聖書のなかでやや存在感の薄いこれらの手紙だったが、印象に残ったのはペテロの第二の手紙3章15‐16節でペトロがパウロについて述べている下りである。ペトロは、パウロの手紙の中に「ところどころ分かりにくい箇所があって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている」と表現している。ペトロからみてもパウロ書簡が「分かりにくい」のだと思うとなんだかほっとした。その一方、パウロ書簡についての無理な解釈、つまり誤解がペトロの時代から横行していたのだと思うと、その後の基督教の困難な歩みを示唆していそうで、暗い気持ちになった。そんなときこそパウロなら「闇の業を脱ぎ捨て、光の武具を身に着けよう」と言ってくれるのだろうが、闇と光の区別は、簡単なようで案外難しいのである。

 

■前嶋信次『玄奘』岩波新書,1952年

図書館で借りて読んだ一冊。玄奘という人は、旅人としても、翻訳家としてもあまりにもすごい業績をあげており、天才的な人物である。「大唐西域記」をいつか読みたいと思っているが、なかなか時間がないということで、コンパクトに玄奘の生涯を紹介している本書を読んでみた。シルクロード系の古典翻訳で有名な前嶋氏の文章は読みやすく、内容はとても面白かった。読み終わった後、いつか「大唐西域記」に挑戦してみたいという気持ちが強まった。

 

■阿満利麿『宗教の深層 聖なるものへの衝動』ちくま学芸文庫,1995年

第二章”専修念仏の「世俗化」”にハッとさせられた。阿満氏は同章で「日本における最初の超越宗教である専修念仏は、(中略)ほぼ六百年を経て、宣長の国学という、ひとつの世俗化形態を生むにいたったのである。そこでは、超越者に対しては不可知論をもってのぞみ、人情という感情が最終の根拠とされている」(同書150頁)と指摘する。この文章をよんで、僕には本居宣長(1730-1801)とF・シュライアマハー(1768‐1834)が思想史的に似た立ち位置にいるのではないかということに思い至った。ふたりとも文献学者・解釈学者という側面をもち、国学・神学という領域で個人の感情を最終根拠においた立場を切り開いた。このアナロジーがどれぐらい妥当なのかはわからないが、遠く離れた場所で、別々の宗教をめぐる思想が同じような歩みをみせるということに何だか不思議な気持ちにさせられる。ほかにも、西洋でトマス・アクィナス(1225‐1274)がスコラ学という哲学的神学体系を完成させた同時期に日本では鎌倉新仏教の巨頭がでてくる。親鸞(1173‐1263)、道元(1200‐1253)、一遍(1234‐1289)然り。そうみてくると西洋のキリスト教の展開と、日本における仏教の展開が比較思想史として興味深い主題のように思われてきた。

 

■植木雅俊『仏教、本当の教え インド、中国、日本の理解と誤解』中公新書,2011年

植木先生の手法は、漢訳仏典を挟まずに、仏典をサンスクリット語、パーリ語で読み解こうという文献学的には至極妥当な立場である。中村元先生もそうなのだが、サンスクリット語やパーリ語から直接日本語訳された原始仏典はとても分かりやすい。サンスクリット語から漢字に音写され、そのまま日本語に入っている言葉の雑学も満載で楽しく読め、なんども「へぇ~」とつぶやいた。例えば、インドが信度や身毒という音写になっていることを知ったのだが、そうなると折口信夫の「身毒丸」は印象が異なってくる。この本のスタンスでちょっと気になるのが、原始仏典が正しく、翻訳を通した誤解に基づく日本仏教のいくつかの議論は間違っているという基本姿勢がみられる一方で、道元や日蓮の漢訳仏典の恣意的な読み替えを実り豊かであるとして肯定的に評価しているところである。是々非々といわれればそれまでなのだが、やや一貫性に欠けるように思われた。

 

■K・リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』平凡社ライブラリー

■K・リーゼンフーバー『中世思想史』平凡社ライブラリー

なかなか読む機会のないラテン教父についての基礎知識を得ようと読んでみた本。リーゼンフーバーさんはイエズス会士なので、キリスト教を背景とした中世哲学の解説に読みごたえがある。個人的にはギリシャ哲学と基督教の融合と対立の渦中にいながら基督教の信仰について考え続けたテルトゥリアヌスの言葉にハッとさせられた。「哲学者とキリスト教徒とのあいだにはたしてどのような類似があるというのか、前者はギリシアの門弟、後者は天の門弟であるというのに。一方は名声を追い求め、他方は命を渇望しているというのに、また一方は口舌の徒であり、他方は実践の人であるというのに」(『中世思想史』26頁)、「神の子は十字架に架けられた。これは恥ずべきであるがゆえに、われわれはそれを恥としない。神の子は死んだ。このことは不合理であるがゆえに、まったく信ずるに値する」(『中世思想史』27頁)などのテルトゥリアヌスの言葉は、彼がみていた信仰の確かさを反映しているように感じられた。

 

■児玉聡『オックスフォード哲学者奇行』明石書店,2022 年

20世紀の哲学界を牽引したオックスフォード大学の哲学者たちについて、その人となりを示すエピソードをまとめたエッセイ集。ケンブリッジ大学にいたウィトゲンシュタインの話は含まれないが、もらったコメントにそれ以上の返事コメント返していたデレク・パーフィットのエピソードが面白かった。酒場で「何をしているの?」という質問をうけた彼が、「大事なことについて考えているんだ」と返したシーンが気に入った。

 

■片岡弥吉『浦上四番崩れ』ちくま文庫,1991年

幕末に長崎で在留外国人のキリスト教信仰が許可されてから、長崎にふたたびカトリックの神父が来日した。江戸時代の間、ひそかに信仰を守っていたキリシタンが、神父のもとを訪れたことで隠れた信仰が明らかになり、江戸幕府による弾圧がおきた。浦上の村民たちは、様々な藩に預けられ、苛烈な待遇のなかで棄教を迫られた。信仰をまもりつづけたり、棄教後にまた受洗したり、いろんな人がいたことがこの本に引用されている記録でわかる。信徒たちは棄教の促しに対し、「天主(パテル)がこの世界とはじめの人間を作ったので、本当の親である。他の宗旨は信じられない」という素朴な反論で応じた。個人的には、潜伏キリシタンたちがキリスト論ではなく創造論によって信仰を守ったという点が興味深かった。

 

■岡本隆司『曾国藩』岩波新書,2022年
■岡本隆司『李鴻章』岩波新書,2011年
■岡本隆司『袁世凱』岩波新書,2015年
■菊池秀明『太平天国 皇帝なき中国の挫折』岩波新書,2020年

太平天国について一度はまとまって本を読みたいと思っていた。図書館で菊池先生の本を手に取ってみた。太平天国についての知識は増えたが、気になったのが乱をなかなか弾圧できない清王朝の人材不足である。そこで岡本先生の本を遡って読んでみた。曾国藩については、なんども太平天国に敗れていて戦争が下手というイメージしかなかったが、科挙を通った超エリートで詩文集が出版されるほどの文化官僚であり、軍人ではなかったとこの本で知り、びっくりした。曾国藩は清王朝からの実質的な援助がない状態で地元のひとたちと軍隊を作り、太平天国と戦うなかで実力をつけ、最後は太平天国を鎮圧した。彼は、科挙の試験には全く出てこなかった戦略・戦術を実戦のなかで磨き上げ、結果を出した。李鴻章を育てた点も曾国藩のスケールの大きさを物語っていると思う。


■池見酉次郎『催眠』NHKブックス,昭和42年

■池見酉次郎『心療内科』中公新書,1963年

■池見酉次郎『続・心療内科 人間回復をめざす医学』中公新書,1973年

催眠にかけられたワニや、催眠で消えるイボなど、びっくりネタが真面目に書かれている本。医学が強い治療手段をもっていなかった時代、催眠・暗示はかなり強力な治療手段としてもちいられていた。個人的に興味深かったのが、催眠療法は精神科的症状よりも内科的な症状の治療目的に用いられていたということである。池見先生は日本の心身医学の草分けだが、オカルト視されやすい催眠についても、客観的で冷静な分析をされており、好感をもって読める。聖典に記載されている宗教的な癒しの奇蹟は、科学的に否定的に扱われることが多いが、池見先生の本を読んでいると、そういう癒しの業は実際に起こりえたのではないかと考えさせられた。

 

■きたやまおさむ『コブのない駱駝』岩波現代文庫、2021年

このきたやまおさむさんの自伝的な本からは医療者の宿業について学んだ。僕は20代のとき、E・レヴィナスを読んで「生きることは、生き残ることである」と青臭くつぶやいていたが、この本を読んで、W・ウィニコットとE・レヴィナスがみていたことが案外近いのではないかと感じた。

 

■山鳥重『ヒトはなぜことばを使えるか 脳と心のふしぎ』講談社現代新書,1998年

神経心理学の泰斗、山鳥先生の本からはプロソディという概念について学んだ。概念をしらなければ把握できない機能がある。まだまだ僕は、自分の行為や思考について十分に説明できるだけの概念を手に入れていない。

 

つづく