読書記録2023年 その2 | Nothingness of Sealed Fibs

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

すこしずつ追記。

 

■司馬遼太郎『坂の上の雲』文春文庫,1978年

ウクライナとロシアの紛争が勃発し、やはりどうしてこんなことになったのかと思うのと同時に、そもそもウクライナやロシアについてほとんどよく知らないことに気が付いた。「正露丸(征露丸からの改称)」「堅ボーロ(堅亡露)」といった言葉に名残をとどめる日露戦争についてもよく知らない。そこで手に取ったのが『坂の上の雲』である。

大長編を一気に読ませる司馬さんの文章はさすがという感じであるが、この作品の一番すごいところは、秀逸なタイトルだと思う。日本についてずーっと考えてきた司馬さんは、遥か彼方の西欧列強を追いかける明治日本をこのタイトルに凝縮させている。歴史学の研究が進み、事実関係としてそのまま受け取れない箇所もあるようだが、錯綜した事実関係を「動き」として目鼻がつくよう整理する力業は、個人的には四苦八苦する臨床家にとってとても参考になるように思う。

それにしても思うのは産業・技術の進歩を生む文明の恐ろしさである。日露戦争期は、軍艦は石炭で動き、陸軍では騎馬部隊がその機動性を誇っていた。この数十年後、太平洋戦争期になると、海軍の軍艦は重油で動くようになり、陸軍では戦車・自動車が主力となる。石炭から石油・鉄鋼へと軍事力を規定する要因は様変わりした。太平洋戦争期の感覚からみると、日露戦争はのどかな戦(いくさ)に見えてしまうのではないか。そう考えると僕はなんとも言えない気持ちになってしまう。

亡くなった中井久夫先生が神戸大学で日本精神神経学会の大会を主催されたとき、そのテーマが「坂の上の雲」だったというのを知る機会があった。司馬さんにとって「坂の上の雲」を追いかけていた愛すべき明治日本は、日露戦争勝利後に「雲に追いつき、追い越せたかもしれない」と思ったあたりから徐々におかしくなって昭和の悲劇を生む。2009年の中井久夫先生が精神医学を「坂の上の雲」と形容したことの意味を、僕はまだ測りかねている。

 

■奥武則『ロシアのスパイ 日露戦争期の「露探」』中公文庫,2011年

『坂の上の雲』のなかで「露探」という言葉がでてきて興味をもっていたのだが、神戸の古本屋にいったときにたまたま奥武則さんの本をみつけて即買いした。ジャーナリスト出身の著者によるノンフィクション様の作品で、そういうことがあったのかという意味で勉強になった。一番印象に残ったのがロシア正教会のニコライ司教が、日本人信徒たちにむかって「君たちは祖国の勝利を祈りなさい」と言っていたことである。ロシア正教会と国家という問題についてもいくつか読んでみたい本がでてきた。

 

■前嶋信次『アラビアの医術』中公新書,1980年

図書館で借りて読んだ1冊。イスラム圏の有名な医学者についてエピソードを集めた本。当時の医学者が成果をだせなければ命がけだったこと、有名な医師の家系の間で権力闘争があったことなどが分かって面白かった。個人的にはイブン・スィーナー(アヴィセンナ)が10世紀のブハラ(現在のウズベキスタン)出身だったこと、イブン・ルシュド(アヴェロエス)が12世紀のコルドバ出身だったことをこの本で知って、あらためてイスラム圏の広さにおどろいた。二人の空間的・時間的な間に、ガザーリー(現在のイラン出身)がいる。アヴェロエスと同時代のコルドバからユダヤ人医師・哲学者マイモニデスが生まれており、当時の天才たちを思索に向かわせた要因はなんだろうかと考えさせられた。


■三木亘『悪としての世界史』,文春文芸ライブラリー,2016年

三木亘氏は、表題作「悪としての世界史」という文章で、K・マルクスを歴史家ととらえ、その歴史家としての手腕を高く評価しつつ、マルクスですら社会が進歩する・発展するというヨーロッパ的発想から逃れられていないと批判する。これにはハッとさせられた。発展史観によれば、イスラームのあとに台頭したヨーロッパ文明のほうが、イスラームより優れていることになる。しかし、三木さんは、イスラーム社会が非常に成熟した社会であったことを様々な観点から説明している。例えば、イスラム王朝の支配圏では、税金を納めてさえいれば、宗教や宗派は各人の自由な選択に任されていた。現代社会では、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教に対立があるのが当然のように思われるが、エルサレムでは19世紀後半まで異なる宗教をもつ人々が仲良く隣同士で住み、助け合いながら暮らしていた。そのことを知るだけでも、「宗教のせいでいがみ合っている」という思い込みを相対化できるように思う。「世界史は人と付き合うための学問である」という三木先生のスタンスは、世界史だけでなくあらゆる学問的営みにも言えることなのではないか。精神医学には桜井図南男先生の「分かるとは自分が変わることである」という至言があるが、三木さんのこの本は、知らないのに分かったつもりになっていることがたくさんあることに、あらためて気が付かせてくれた。この本でアンリ・ピレンヌというベルギーの歴史家の名前を知ったのだが、そのあと中井先生の『西欧精神医学背景史』を読み返した機会にアンリ・ピレンヌが引用されていて呆然とした。読みたい本は増えるばかりであるが、読書時間は減るばかりである。

 

■網野善彦『日本の歴史を読み直す(全)』ちくま学芸文庫,2005年

「虹が立つと、かならずそこに市をたてなくてはならないという慣習が古くからありました」(同書57頁)という文章にびっくりし、一気に読み切った。中世の寺院(例えば比叡山)が高利貸あるいは銀行の役割を果たしていたのがなぜかすっきりしたし、新鮮に感じる論点がたくさんあった。非農業民が天皇と直接結びついていたという網野さんの指摘に驚いたが、考えてみれば中世のイスラム圏でユダヤ人が職業人・技術者・金融人として重んじられたのと似たような構造がある。高貴なものがさげすまれる仕組みは、人間の社会にあるていど普遍的にみられる現象なのかもしれない。個人的にハッとさせられたのは、寺社という聖域において物が人との結びつきから離れて「無縁」の状態となり、そのようになってはじめて物の売買・交換ができるようになるという指摘である。新約聖書のイエスは神殿で商売をしている人々を神殿から追い出し、店の設備をひっくり返し、集まった病人を癒したとされる(マタイ21章12‐14節)。網野氏の指摘を踏まえると、イエスがした行動は、神殿という場所や空間のもつ”力への信仰”から、病を癒す技術(?)への回帰を目指したということになるのだろうか。また考えたいテーマが増えた。

 

続く