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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

高校以来の友人が遊びに来たので、久々に京都を散策することにした。

昼過ぎに京都駅で合流。まずは地下鉄で今出川駅に行き、同志社構内の

カフェで作戦会議。意外と穴場な千本釈迦堂(大報恩寺)を目指すことに。


千本釈迦堂は、北野天満宮の近くにあるが、京都に何年か住んでたのに

全然その存在を知らなかった。 応仁の乱をくぐりぬけた京都最古の寺院

建築が残っているとのこと。


とりあえず、目標が定まったので、ぶらぶらと西を目指して歩き始めた。


京都の街は碁盤の目だから、方向だけ分かっていれば、迷いにくい。

しかも、歩いているだけで、なんかいろいろ面白いものが目に入ってくる。

街を歩くのが普通に楽しいというのは、やはり京都の底力なのだろう。


高校の友人はほとんど関東にいるので、そうした奴らの近況を聞いてるうちに、

いつの間にか行き止まりになっていたりして、ややもたついたが、適当に道を

選んでいたら、突然、めざす千本釈迦堂の門が目に飛び込んできた。

あてずっぽうに歩いていただけに、なんか嬉しくなる。

Nothingness of Sealed Fibs-千本釈迦堂門


門の奥に見えているのが、国宝の本堂。鎌倉時代からこの場所に在り続けている。

Nothingness of Sealed Fibs-千本釈迦堂金堂

派手さはないが、重厚で堅実な雰囲気が際立っている。屋根は檜皮葺だろうか。

寺院というよりも、神社のセンスに近いものがあるように思った。

平日の夕方前ゆえ境内の人影はほぼゼロ。本堂の横にある入口から霊宝館に入った。

拝観料は大人一般が500円。霊宝館には友人と僕の二人しかいなかったのだが、

入ってびっくり。ものすごい迫力の仏像が並んでいた。


近寄って説明を読んでみると、六観音像(定慶作)、釈迦十大弟子像(快慶作)など、

重要文化財級の仏像たちが、ところせましと空間を埋め尽くしているではないか!


仏像どうしのオーラがバチバチとぶつかりあっているような異様な雰囲気のせいで、

友人と僕は、なぜだか足音をたてられない。忍び足で移動しながら、仏像につっこみ

を入れるわけでもなく、むしろ呼吸が浅くなってきて、最後は追い立てられるように

霊宝館を出た。扉を閉めて一安心したが、完全に仏像の雰囲気に呑まれてしまった。

別に後ろ暗いところがあるわけでもないのだが。おそるべし定慶、快慶!


霊宝館のあとは、本堂の内部を拝観。ところどころ往時の彩色豊かさを思わせる

塗料の痕跡があったりして、現在とは違う雰囲気の建物だったのかもしれないなぁ

などと友人と話しながら、奥の回廊に入ってびっくりした。薄暗い空間におびただしい

「おかめ」の像が並べられている。


この千本釈迦堂には、おかめ物語なるものが伝わっているらしく、おかめにまつわる

お祭りもたくさん行われているようなのだ。それにしても、ほの暗いなかに大量の

おかめが並んでいると、正直きもちわるい・・・。

Nothingness of Sealed Fibs-おかめ

この写真は、そのおかめのうちのひとつ。もはやグロテスクである。


ひとしきり、おかめを拝見して背筋が寒くなってきたので、境内を後にして、

夕食の場所をめぐってぶらぶらあるいてみた。


近くには、釘抜き地蔵や、下の写真のような面白い看板屋さんとか、

色々あっておもしろい。
Nothingness of Sealed Fibs-看板屋

夕食は、京都のお蕎麦屋さんとしては最も有名な「かね井」さんで。

昼は行列がすごくてなかなか食べれないのだが、平日夜はお酒も飲めて

行列もないので、狙い目である。


後から考えると、西陣のあたりをうろうろしていただけなのだが、久々に

ぶらぶら歩きができて楽しい一日となった。

8月末が締め切りのレポート3本がおわって、無事前期が終了。

9月終わりに一科目だけ試験があるけれど、しばし休息である。


さて、今回のお題は『ダークナイト ライジング』。


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以下、激しくネタばれしているので、未見の方はご注意ください。


最初に感じたのは、この作品は『口もと』をめぐって展開されているということだ。

このことは、バットマンとベインの口もとを比べてみればすぐにわかる。

バットマンは、周知の通り口と目の周辺以外はマスクで覆われている。

一方、ベインは、口もとだけダース・ベイダー的なマスクで覆われていて、

その他の部分はおおわれていない。


つまり、顔の部分の表象に関して、バットマンとベインは裏表の関係にある。

いいかえればこの二人は、互いに相補的なしかたで表象されている。


相補的なのは表象だけではない。二人の負う役割も相補的になっている。

バットマンは善と富、ベインは悪と貧困を代表している。

また、バットマンに守るべき個人がいないのに対して、ベインにはいる。

さらに別の言い方をすると、バットマンは自分で考えて判断しているが、

ベインは、ボスの言うことに忠実に従っていたにすぎない。

バットマンは神のように、ベインは預言者的にふるまっているとも言える。


そして、個人的には、このポイントが一番大事のように思うのだが、

バットマンが秘密を守り通して、つまり人々を欺きながら正義を守護するのに

対して、ベインは一切嘘を述べないことによって悪を行っている。

ベインは街を占領してから様々な秘密を暴露したし、民衆を欺きはしなかった。


いや、ベインは「爆破スイッチは市民のうちの一人にもたせる」と嘘ついたじゃないか

といわれるかもしれない。しかし、結局、市民のひとりでもあるミランダが

スイッチを持っていたのだから、ベインは嘘を言っていたわけではない。


僕にはむしろ、バットマン達がベインは嘘をついていると決めてかかった事の

ほうが不思議に思われる。推論としてあまりに単純であるし、もしこの推論が

はずれていたら、まちがいなく街は壊滅していた。


つまり、この映画が示しているのは、

ひとつひとつの行為はまっとうなベインが全体としては悪を行っていて、

逆に、ひとつひとつの行為においては民衆をある意味で騙し続けている

バットマンこそが全体としては正義を守る善である、という逆説的構図なのだ。


映画が進行していくにつれて、バットマンは一方的にベインに負け続ける。

そのことによってベインとバットマンの相補性は逆転していく。


すなわち、バットマンは財産やバットモビールを奪われ、極秘研究していた

クリーンエネルギー用の原子炉が爆弾に転用されてしまう。挙句の果てに、

ベインとの肉弾戦にもやぶれ、ついには正体も暴露されてしまう。


最後に残った唯一の秘密、バットモービルを超える新兵器の存在によって

バットマンはかろうじてベインの武力に勝つことができた。しかし、結局は、

爆弾を利用して、自らの生死を最後の秘密に仕立てなければならなくなった。

しかし、生死を秘密として残したがゆえに、バットマンは二度と復帰できない。

ゆえに、ロビンがでてくるわけである。


生死の秘密が残ったことで、バットマンはヒーローとして辛うじて救われた。

僕にはそう思えた。


結局、この映画は何を言いたいのだろうか。僕なりに考えるとそれは、

「正義を守るためには力がいる。そして、力の源泉は秘密にされなくてはならない」

ということになる。


これは、あらゆるヒーローだけではなく、すべての民主主義国家がもつ、

ある意味でありふれた主張である。


たとえば、政府は秩序(正義)を維持するために権力を用いる。

政府の権力は、主権者である民衆の承認を受けているという建前によって根拠づけられる。

しかし、政府は民衆にすべての情報を開示しているわけではない。

つまり、民衆は、一度たりとも全貌が明らかになっていない細部の不明な政府という

得体のしれないものを承認しているということになる。


バットマンも同じである。人々はバットマンがなぜすごいメカをもっているのか、

バットマンが誰なのかを知らない。しかし、バットマンが誇る力が治安維持に

やくだっているからこそ、人々は、得体のしれないバットマンを承認している。


このような、ヒーローと民主主義国家を結び付ける共通の特徴こそが、

アメリカ映画で独特のヒーローものが延々と作り続けられている理由ではないか。


ちょっと脱線すると、日本におけるヒーローものは、誰が仮面ライダーなのか

などといった詮索をうけて苦しむことはない。なによりも日本のヒーローものは、

子供向けであり、あるいは子供と一緒に見ている母親向けであり、

アメリカ映画のように、老若男女がマジで観るようなものではないのである。


こう考えてくると、アメリカとバットマンの姿が奇妙にシンクロして見えてくる。


もし、この作品の最後でバットマンが下した結論が、アメリカ自身の願望と

重なっているとすれば、アメリカは幾多の戦争でボロボロであり、正直、世界を

守る立場から足を洗いたいと思っているのではないか?

あるいは、いよいよアメリカも、憎しみではなく、愛を駆動力とする社会へと

脱皮したがっているのではないか?


いずれにせよ、ヒーローものとして出色な作品であることは確かである。

しかし、作品に優れた深みを与えている逆説的な構図が、自分で自分に苦しむ

独り相撲の産物ではないか、という冷めた見方も可能かもしれない。

もっと冷めた見方をすれば、この映画は他人事ではない、ともいえるだろう。

最近、テレビをつけると、一日に一回ぐらい「安全性」という言葉を耳にする。

オスプレイしかり、原子力発電所もまたしかり。


ここで率直な疑問がある。「安全性を確認する」ことなどできるのだろうか?

安全性というなんらかの実体があるわけではないだろうに。


実際に確認するのは、安全性そのものではなく(そんなものはない)、

事故を回避するための予防策やら何やらの充実度ではないのか。

もうすこし書き下せば、事故が起きないための整備方法、頻度、そのチェック体制、

また、事故が起きてしまったときに人命を守るための対策などではないのか。


そして、言うまでもないことだが、すべての対策が万全に機能したとしても、

人為的なミスは起こりうる。そのような負の可能性が残されている以上、

絶対に安全な状態などあり得ない。


そもそも、安全である/安全ではないという白黒はきれいに分けられない。

人間にできるのは、「これぐらいの対策を講じているならば安全だと言ってよい、

安全だとみなしてよい」という便宜的な取り決めだけである。そうではないか?


安全性を確認すると言ってしまうと、確認できたあかつきには安全である事が

保証されるのだというように、思ってしまいがちであるが、そんなことはない。


もし、安全性が確認されたから100%安全だと思う人がいるならば、その人は、

人間には完ぺきな予知能力があるのだという迷信に浸っていることになる。

無論、人間が未来を完全に予知することは、まだできない。


このように、○○性という言葉は、しばしば、非常に曖昧な認識・議論を生む。

安全性の確認ではなく、安全対策の確認なのだと、正確に言葉を使うべきだ。


もし、○○性という言葉にこだわるならば、安全性よりも危険性と言うべきだ。

なぜなら、「安全な状態」よりも「危険な状態」のほうが状態の数として多い、

それゆえに、安全性よりも危険性のほうがより具体的なイメージを持ちながら

議論できるからである。


「安全性が確認できた」という表現を、意味を保ったまま言い換えてみると、

おそらく、「危険性がないことが確認できた」となるだろう。


二つの表現を比べると、前者が妙な安心感を与えるのに対して、後者には

俄然胡散臭い感じが漂うように思われる。


言葉には、魔力がある。正確に言葉を使わなければ、たやすくその魔力に

欺かれる。むろん、この魔力があるからこそ、文学や詩が成り立つのだが。


騙されないコツは、言葉の指す内容をできるだけ具体的にイメージすること。

それだけである。このことは、肝に銘じておくべきことだと、僕は思っている。

先日、社会人時代の同期の結婚式に参加するため、軽井沢を訪れた。

関西からだと、一番リーズナブルなのが高速バス。新幹線だと遠回りだ。

13:00開始の式に間に合おうとすると、朝8:00着のバスに乗ることになる。


というわけで、式までの5時間、軽井沢を探検することにした。

あいにくの小雨の中、中軽井沢駅前のバス停に到着した。朝8:13。肌寒い。

バスから降りた人以外、ほとんど人影がない。街ののんびりした雰囲気が面白い。


とりあえず駅舎のコインロッカーに着替えを預けてから、北に向けて歩き始めた。

20分ほどあるくと、内村鑑三ゆかりの石の教会なる場所を示す標識に出くわした。

標識に従っていくと、レストランやホテルのような建物が見えてきた。

どうやら「石の教会」は、結婚式場の一角にあるらしい。


「石の教会」の前に到着すると、8:30を少し過ぎていた。9:00から見学ができるらしく、

とりあえず待つことにして、入口前の不思議な形のベンチに座り、文庫本を開いた。

Nothingness of Sealed Fibs-石の教会入口

9:00になって、教会の地下にある内村鑑三記念館に入った。

内村鑑三とは、『代表的日本人』と『キリスト教問答』くらいの付き合いしかなかったが、

記念館の展示をみて、彼の聖書講義を読んでみようかなという気になった。


6月という季節がら、結婚式が9:00から行われていて、教会内部の見学には30分以上

待ってくれと言われたので、あきらめて外から全景をカメラにおさめて満足。

Nothingness of Sealed Fibs-石の教会全景

雨のなか、さらに北へと向かった。目当ては、北軽井沢にある田辺元記念館。

京都学派の哲学者、田辺元が京大退官後に隠棲していたところである。


はじめは、歩いていけるかなと高をくくっていたが、歩きながら携帯で検索すると

30キロぐらいはありそうだったので、あきらめてタクシーを捕まえた。40分ほど

タクシーに揺られ、途中、地元の人に道を聞いたりして11:00すぎに到着。

別荘地の一角に、ひっそりと哲学者の住まいが残されていた。
Nothingness of Sealed Fibs-田辺元記念館全景

Nothingness of Sealed Fibs-田辺元記念館机
部屋にうずたかく積み上げられていたはずの書物は、現在、群馬大と京大の

図書館にうつされているらしい。本棚には、田辺元が残した全集が置かれていた。


田辺元という人の文章は、僕が今まで読んだもののなかで、最も難解である。

書かれている内容がすごいのか、大間違いなのかすら分からない。途方にくれる。

個人的には、西田幾多郎の文章のほうが、まだ分かりやすいと思えるくらいだ。

今回の記念館訪問を機に、また田辺の本にチャレンジしてみよう。


再びタクシーで中軽井沢方面に戻り、星野温泉のトンボの湯で降ろしてもらった。

11:30くらいだったので、お客さんも少なめ。すばらしいお風呂を存分に堪能した。

もちろん、風呂上がりには、「よなよなエール」をいただく。すばらしいノド越し!!
Nothingness of Sealed Fibs-トンボの湯

トンボの湯をでたのが、12:00ごろ。もう式まで時間がない!とは思ったが、

あまり酔っぱらった顔で式に出るわけにもいかないので、酔い覚ましに駅前の

おそばやさん「かぎもとや」に飛び込んだ。お昼時で、店内は満員に近く、活気満載。

Nothingness of Sealed Fibs-そば
ざるそばを頼んだところ、2分ぐらいででてきた。速さにびっくり。しかもウマい。

あとで聞くところによると、明治創業の老舗らしく、幸運にも名店に行き当たったようだ。


おそばを5分で平らげ、いざ、式へ出陣。

ちょうど雨も止んできて、すばらしい結婚式となった。

披露宴、二次会と懐かしい方々と話しているうちに、あっという間に帰りのバスの時間に。

土曜日の夜だからかもしれないが、バスは割と空いていて快適。

酔った勢いですぐに寝てしまい、目が覚めたら、もう京都駅前だった。


眠たい目をこすりながら、結婚したお二人の末永い幸せを願った。

先日、「大学入試を暗記力重視から、論理的思考力重視へと指針転換」

とニュースが報じていた。

おかしなことをしていると思う。

問題をとくのに暗記力を使うか、思考力を使うか、それは生徒の自由だ。

どれほど試験問題を工夫しても、その問題を暗記力だけで解こうとする

人が現れることを妨げることはできない。

なぜならば、大学入試の試験範囲がちゃんと決まっているからだ。
試験範囲が決まっているからこそ、暗記するという戦略が成り立つ。

だから、本当に論理的思考力を問いたいなら、試験範囲を無くすか、

べらぼうに広くすべきなのだ。

ただでさえ、人類の知は日々蓄積している。

本来であれば、そうした蓄積に対応して、大学入試の範囲も拡大して

いかなければならないはずではないのか?


もしそんなことになったら、大変だ!と思う若者は多いかもしれない。
しかし、今は、ネット上で百科事典よりも多量の情報に容易にたどり着ける。

画像や動画も充実して、勉強そのものがだいぶやりやすくなっている。

勉強がやりやすくなっているのだから、試験範囲は広がってもいい。

僕はそう思う。


そもそも、僕には現状の大学入試が過剰に暗記力重視だとも思えない。
僕のささやかな経験からいえば、よくできる人ほど、いわゆる丸暗記に

よって知識を得ている人は少ない。

情報は体系づけられることで、単なる丸暗記よりもはるかに覚えやすくなる。
何をどのように体系づけたら覚えやすくなるのかを考えるのも、立派な

思考力ではないのか。

また、より具体的で詳細なイメージをもつことで、容易に頭に入ってくる。
例えば、「慈円、愚管抄」と10回唱えるよりも、図書館で『愚管抄』を

パラパラ斜め読んでみるなり、ネットで慈円を検索するほうが、頭に入りやすい。

こんな風に、さまざまな工夫で、自然に知識を頭に入れられれば、

大学入試の範囲くらいで音をあげなくてすむ。

いずれにせよ大学にはいれば、大学入試よりもはるかに広範囲の知識を

身につけなければならない。大学に入る前にある程度、知識の身につけ方を

習得しておくことは大事だと思うのだが。

また、必要な知識がなければ論理的思考力を使えないということも言える。

プロの将棋棋士も、過去の棋譜を大量に記憶していて、その記憶をもとに、

指す手を考えている。


以上のような訳で、僕には、大学入試で、ある程度、知識量が問われるのは

いたしかたないし、むしろ必要だと思われる。