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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

金曜日に中間テストがひとつあって、なんとか終了。

僕にしてはめずらしく、一夜漬けではなく三日漬けで臨んだので、

感触はまぁまぁ。


帰り道、寝不足でぼーっとした頭を抱えて駅まで歩いていると

歩道の上に、なんともいえないおさかなさんを発見した。


Nothingness of Sealed Fibs-sakana

ものがなしい。でも、なんだか、つよい。

しばらくにらめっこしていると、自分が見透かされたような気がしてきた。


動かない視線は、ぶれないという一点だけで鋭さを獲得する。

参考にさせていただこう。


そういえば、数週間前に妹が結婚式を挙げた。

祖父母を案内して、久々の上京。式場の近くのホテルに一泊した。

とてもきれいな場所で、翌日はチェックアウト期限のギリギリまで逗留。


ホテル内の喫茶店の窓から見える景色があまりにきれいだったので、

相方さんとふたりで、一時間くらい外を見続けていた。


Nothingness of Sealed Fibs-ホテルから

日々が穏やかに過ぎていく。これに勝るものはない。

勉強に追われる日々からの、いい息抜きになった。


勉強は細かい知識をたくさん扱うので、どうしても、視線の届く距離が短くなる。


たまに遠くをみて、巨視的なものの見方をしてみると、細かい知識の布置が

ハッキリして、理解が大幅に進むことがある。


結婚式であつまった親戚の方々と話していると、無我夢中に過ぎていた

昔の日々が急速に歴史化されて、意味づけられていくのを感じる。

これもひとつの遠くをみる視線の効果なのだろう。


妹の幸せを祈りながら、関西に戻ってきた。

今年のゴールデンウィークは、相方さんのご実家に里帰りした。


いつもは一日ぐらいで帰ってしまい、ゆっくりできなかったのだが、

今回は3泊4日の日程。伊豆を堪能した。


一日目は、移動やら親戚の方々への挨拶やらであっという間に終了。

二日目は、お墓参りのあと、のお義兄さんご家族と近くの動物園へ。


甥っ子二人がめちゃくちゃ元気。走り回ってコケてもすぐまた走る!

急に立ち止ったと思ったら、じっと地面とにらめっこしながら虫を観察。

動物園にきたのに、「アリだ!」と喜ぶ甥っ子達を見ていると、彼らの

思いっきり新鮮な感性に心を打たれた。


ちなみに人生初の「カピバラ」と遭遇。「すげー」と僕が感嘆していると、

「それ、でっかいねずみなんだよ」と甥っ子が教えてくれた。なるほど。

「でっかい」のが体なのか態度なのか、彼の口ぶりだけでは不明だが、

どちらにしても、鋭い指摘だなぁと、なんだか納得。


Nothingness of Sealed Fibs-カピバラ


動物園から戻り、相方さんと二人で、実家周辺をゆっくりと散策。

あてもなくぶらぶらしていると、静かな八幡神社に行き当たった。


Nothingness of Sealed Fibs-八幡神社


鳥居をくぐると即座に空間が変質した。浜風が木々によって音へと変換される。

日差しが木々に遮られ、涼しい空気が漂う。ひっそりとした落着きが心地よい。


西洋の教会のように、レンガの壁で内外が明確に分かれているわけでは

ないが、日本の神社の空間構成力もなかなかのものである。


八幡神社をあとにして、海岸沿いにあるいていると、ご当地名物である

金目鯛をかたどったのぼりを発見。みごとな泳ぎっぷりである。


Nothingness of Sealed Fibs-金目鯛のぼり

三日目は、下田市まで出かけてレンタサイクルで探索。玉泉寺、

ハリスの小経、ペリー・ロードなど、歴史を堪能した。最後に相方さん

おすすめの喫茶店「邪宗門」を訪問。昭和にタイムスリップした気分に。

柔かいチーズケーキとウィンナーコーヒーでまったり。


Nothingness of Sealed Fibs-ホテルにて


下田からもどってきて、今度は相方さんの幼馴染さんの車に乗せて

もらって、最近できたばかりというツリーハウスを見学。


Nothingness of Sealed Fibs-ツリーハウス


ツリーハウスというもの自体、初めて生で見たのだが、周りの野原と

あいまって、自然のなかに自分が溶け込んだような感覚を味わった。


四日目、相方さんの実家を後にして、帰り道の途中に掛川城に寄った。

天守閣は史料に基づいて丁寧に復興された木造3層。二の丸御殿は

当時のものがそのまま残っていて重要文化財。時代劇映画の撮影も

たくさん行われているらしい。非常に見応えのある立派なお城であった。


お城には普段まったく興味がないという相方さんも、楽しんでくれた模様。

たくさんの人が考え抜いて出来たものはよい。あらためてそう実感した。


Nothingness of Sealed Fibs-掛川城

相方さんの高校時代の恩師の先生が掛川近くにお住いということで、

お城見学から一緒に来てくださった。見学後は回転寿司をごちそうに

なりながら、昔話に花が咲く。高校時代の相方さんが、癒し系だった

という意外(?)な話をうかがえて面白かった。


相方さんのルーツについて、理解の深まった4日間となった。

ある国の首相が、その政治的生命をかけて、消費税増税法案の成立を

目指しているという。先日は西宮で法案について「市民との対話集会」も

あったらしい。

これは、出来のいい喜劇なのか?それとも出来の悪い悲劇なのだろうか?

前回の選挙の際には全く「公約」にすら掲げられていなかった法案成立に、

政治的生命をかけるとは、笑わせてくれる。

プロの政治家ならば、公約として何を言うのか、そして、言った公約を守る

ことにこそ、政治的生命をかけるべきではないか?

某ダム建設問題のように、公約通りにできないことが明らかになった時は、

「事情が変わったから公約とは別の方針をとります」ではなくて、いさぎよく

下野してダム建設を推進してきた政党に政権を譲るか、あるいは、再度

総選挙すべきだったのではないのか?


「公約を押し通せなかったこと」は、首相が辞任すれば済む問題ではなく、

一旦政権を返上しなければならないレベルの問題ではないのか?


思い起こせば、消費税率が3%から5%上がったとき、当時の首相は、かの

社会党党首、村山富市氏であった。社会党は消費税と自衛隊への反対を

公約に掲げていたが、村山連立内閣はその公約をことごとくひっくり返した。

旧社会党勢力が残る民主党が、再び同じ轍を踏もうとしているのは皮肉だが、

笑ってばかりもいられぬ緊急事態でもある。

なぜ「対話集会」なのだ?「対話集会」をやるぐらいなら、総選挙をすべし。

はじめから結論ありきの「対話集会」を開いたくらいで、ぬけぬけと「国民の

理解を得られた」などと言わないでもらいたい。


公約を捨てた旧社会党が凋落したように、民主党ももうだめかは分からない。
そんなことはどうでもよい。しかし、公約が守られないような事態が許されるか

どうか、それはどうでもよくない問題である。


政権を取ってから、選挙時に掲げた公約をコロコロと変えられるようでは、

国民は何に対して投票すればいいのかわからなくなる。議会政治の根本が

崩れてしまう。


しつこいようだが、気づいていない人が多いみたいなので改めて言う。


公約を守らない時点で、その政治家の政治生命など、すでに無いに等しい。

僕はそう思う。すでに無い「政治生命」をかけるとおっしゃるので、それは

おかしいでしょうと申し上げているのである。

「厳密にいえば、公約に反しているのではない」と、某政党がいうのならば、

「公約で言っていないけれど、社会的影響の大きい政策を行うならば」と

言い換えてもいい。


選挙に訴えれば、政策実行のスピードは落ちる。しかし、時間はかかっても、

重要なことをちゃんと選挙できめれば、政府が勝手に素早くやってしまう

方法よりも誤りが少ないというのが、民主主義の発想ではなかったか?


首相には、反公約に「政治生命」をかけるのではなく、公約を守ることにこそ、

文字通りの命をかけてもらいたい。この意味で、「不退転の決意」とは、本来、

絶対に決意してはならない点についての決意のように僕には見えたのだ。


丸山真男や小室直樹がさんざん指摘していた日本のデモクラシーの奇妙さは

現在、さらにイビツになっていっているように思えるのは、僕だけだろうか。


桜満開のなか、思いはなかなか晴れない。


後期試験を無事通過できたので、好きな本を日替わりでゆっくり読んでいる。

先日ふと、本棚に置きっぱなしだった坂口安吾『堕落論』(新潮文庫)を手に取ってみた。


坂口安吾という人の文章には、勢いがある。たとえば、


「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」

(堕落論)


がつんとくる名文である。しかし、彼の文章は、単に「巧い」だけではない。

「巧さ」の奥に、緻密な論理性がうかがえる。たとえば、


「堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、

堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。

即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、

ただ自らに頼る以外による術のない宿命を帯びている。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度

というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこから

ハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、

孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、

とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、

この道だけが天国に通じているのだ。」(続堕落論)


一読してわかるように、安吾の文章は明快だ。だから、さっぱりしている。

この明快さは安吾の論理性から生まれていると、僕は思う。

別の言い方をすれば、安吾の名文は、もったいぶったり、思わせぶりな表現を使うことに

よってではなく、純粋にその文章のロジカルな主張の内容によって、優れているのだ。


安吾のいう「墜ちる」とは、日常を生きる、日常という平凡にとどまるということを含む。

人生において、はたから見て「美しく輝いている」といえるような瞬間は限られている。

それ以外の瞬間は、ありきたりで変化に乏しい平凡な日常の積み重ねに過ぎない。

だから、人間は輝かしい瞬間よりも、平凡を長く生きねばならない。

そして、平凡は孤独である。人が人と集うのは、孤独ではなく平凡を恐れるからなのだ。

故に、平凡な日常に墜ちることと、親鸞やキリストの孤独な道とが、通じあうことになる。


善人から見れば、そのような安吾の主張は、ひとつの「思想」にすぎないだろう。

しかし、生きて墜ちる人間、すなわち、父母兄弟、社会制度といったものこそ思想の産物

であることを知ってしまった悪人にとって、安吾の主張は「思想」ではなく、「真実」である。


思想と真実をはっきりと区別するために、安吾が挙げる根拠はシンプルだ。


国と国との対立がなくなっても、人間同志、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。

(「続堕落論」)


人間は、平凡な真実を生き抜くのに耐えきれず、制度という思想を作り出す。

そして、生身の一人としてよりも、国民という人間であるほうが、生きやすいと思いがちだ。

「人」と「人間」が注意深く使い分けられていることを見落としてはならない。


人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。

だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。

なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。

人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

(「堕落論」)


安吾には、墜ちきれない「人間」への、温かいまなざしがある。

この温かさが湧き出るまさにその場所で、安吾は論理性を捨てる。

というよりも、そのような場所において、もはや論理は意味をなさない。

墜ちきった「人」、つまり「人間」であることすらからも墜ちてしまった「人」にとっては、

隣人など存在しないからである。


ちなみに、「勢い」、「論理性」、「温かさ」という安吾の特徴は、小林秀雄には見られない。

そのせいか、安吾会心の小林秀雄論である「教祖の文学」は、すこぶる痛快だ。

安吾を読むと、小林秀雄の織り上げる文章が、もったいぶっていて温かみを欠くようにすら

感じられてしまうから不思議である。


小林秀雄は、間違ってはいない。しかし、彼は、真実を洞察はしても、その真実を

論理的に導くことをしなかった。つまり、小林は、どこまでも最後には感性を置く人なのである。


小林の感性では『不連続殺人事件』を書けないし、安吾の論理性では『本居宣長』を書けない。

この点にこそ、安吾と小林の大きな違いがあるのではないか、と僕は思っている。


余談だが、ちょいとまえにアニメ化された「un-go」は安吾の『明治開花安吾捕物帳』を

現代(近未来?)に翻案したものであり、個人的には秀逸な出来栄えである。

興味のある方はぜひ見ていただきたい。


【追記 5/22】

講談社学芸文庫からでている『小林秀雄対談集』を立ち読みした。

冒頭で小林秀雄と坂口安吾が丁々発止のやりとりを繰り広げていて面白い。


その対談を読んでいて思ったのは、安吾が小林にブウブウ言っているのは、

小林がその境地からしか語っていないという一点に尽きる、ということだ。


最後の答えを見出している場所は、二人ともおそらく一緒だと思う。

ただし、安吾が、どこまでもその神聖なる場所と娑婆の間の葛藤を論理化することに

生命を見出していたのに対し、小林は、彼の境地からこの世のすべてを見返すという

姿勢を崩そうとしない。


もしかすると、小林は、真実を論理的に導いたのかもしれない。

しかし、その過程が小林の言葉となって表面に出てくることはない。

小林は、安吾のように「生きること」から言葉を生み出していくというよりも、

言葉を正確に使いこなすことにこそ「生きること」を見出していたのだと思う。


だから、安吾的にいえば、小林は「墜ちきる」だけの強さをもっていた稀有な人である。

そして、安吾自身は、一度「墜ちきった」にもかかわらず、今度は逆方向に「墜ちる」、

そのことによって「墜ちきれないところに留まる」という、離れ業をやってのけている。


逆に、小林的にいえば、「堕落」だなんだというまでもなく、言葉を道具として正確に

使い切ることができれば、聖と俗は論理などなくても初めからつながっている。


そんな風に二人の言葉を読んでみることもできるかもしれない。

最近、映画の記事が減っている。決して、映画を見ていないわけではない。

ちょいちょいではあるが、見ることは見ている。しかし、なかなか記事を書く

までには至らない。


大学が忙しかったと言ってしまえばそれまでだが、ついついさぼり癖がでて

しまったというのが正直なところである。いかんいかん。


いずれにせよ、2011年のマイベストは青山真治監督の『東京公園』である。

これは揺るがないけれど、忘れないうちにほかに見た映画について書いておく。


■『探偵はBARにいる』
探偵はBARにいる
面白くて切なかった。話の骨格は人情物の時代劇のような感じで珍しくはない。

が、それを補って余りある俳優陣の演技力が光る作品。大泉洋&松田龍平の

コンビが繰り広げる軽妙なやり取りが、やや重たいストーリーとうまくバランスを

とっていたし、小雪の表情には完全に騙された。忘れてはならない高島政伸の

「怪演」と、大泉洋なりの「頼もしくないハードボイルド」は新鮮。続編も期待できる。


■『ステキな金縛り』

ステキな金縛り

しこたま笑わしていただきました。が、今回の作品は、一発系のネタばかりで、

伏線の回収という楽しみについては物足りなかった。『トリック』以来、久々に、

阿部寛のコメディー力を楽しめたのは収穫。草薙剛のキャスティングに拍手。


■『人生、ここにあり!』

人生、ここにあり!

イタリアが法律で精神病院を廃止したことは、知識として知っていた。しかし、

精神の病いを持つ人たちが実際にどのように暮らしているのかについては、

全く知らなかったので、この作品をみて勉強させられることが多かった。

この作品の説得力が、映画というよりは、映画が基づいているところの実話に

よって生まれている様な気がするのが、すこし残念。もし、この映画がすべて

フィクションであったなら、これほど面白くはならなかっただろう。


■『カーズ2』

カーズ2

アメリカ映画のモチーフの一つに、「友情をとるか愛情をとるか」というテーマがある。

西部劇の世界がマジだったころのアメリカで、カウボーイ同士の男の友情と、

異性愛とが非常に拮抗していたのは有名である。なんせ、殆ど男ばかりの世界で、

女性を射止められるカウボーイは、ごく少人数に限られていたのである。必然的に、

あぶれた男達は、男同士の友情に活路を見出しながら、愛情を選んだ元仲間を

恨むという図式が生じる。『カーズ』シリーズの特徴は、子供向け映画のふりをして、

実は、西部劇の要素を確信犯的に織り込んでいる点にある。

むろん、現代のカウボーイ達が、馬ではなくクルマに乗っている点も見逃せない。


そういう視点で見てみると、シリーズ前作は、しゃべれるクルマが主人公である以外は、

非常に陳腐で典型的な「友情か愛情か」ドラマが進行していくだけで、アメリカ人って

クルマがめちゃくちゃ大好きなんだねということを痛感させてくれた以外に特に見所の

ない作品だった。しかし、今作では、クルマによるスパイ合戦というまさかの方針転換が

脚本の充実度を上げていて、エンターテイメントとして十分楽しめる作品になっている。

クルマならではのギャグも登場し、二作目にして初めて、主人公がクルマである効果が

出ている様な気がした。


■『ミッション・インポッシブル ゴースト・プロトコル』

ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル

こちらもシリーズものだが、スピード感、スケール、プロット、どれをとっても抜群の

良質なエンターテイメントであると思われた。個人的には、シリーズのなかで一番。

それ以外に、何も言う必要はないだろう。


■『スマグラー おまえの未来を運べ』

スマグラー おまえの未来を運べ

マンガ原作のバイオレンス・クライムムービー。現在の日本映画界を代表する

演技陣の豪華さがものすごい。安藤政信による美しいアクションしいーンを見るもよし、

小日向さんのチョイと怖いヤクザを見るもよし、ほかにも見所はいっぱいだが、

何といっても高島政宏のぶち切れ演技は、『探偵@BAR』での弟・政伸を凌駕しており、

今後の高島兄弟の行く末をついつい心配したくなってしまう。


ぱっと思いつく中では、これぐらいしか映画館に行っていないので、僕の映画熱も

だいぶ冷めてきたようだ。春休みになっても、映画よりは、本に向かってしまうこのごろ。

10代20代は映画に明け暮れたが、30代は本が中心になりそうである。


さいごに。

映画館で見たわけではないけれど、『川の底からこんにちは』はすこぶる面白かった。

最近の満島ひかりのパワーはすごい。この作品については、また改めて書こうと思う。