後期試験を無事通過できたので、好きな本を日替わりでゆっくり読んでいる。
先日ふと、本棚に置きっぱなしだった坂口安吾『堕落論』(新潮文庫)を手に取ってみた。
坂口安吾という人の文章には、勢いがある。たとえば、
「人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
(堕落論)
がつんとくる名文である。しかし、彼の文章は、単に「巧い」だけではない。
「巧さ」の奥に、緻密な論理性がうかがえる。たとえば、
「堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、
堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。
即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、
ただ自らに頼る以外による術のない宿命を帯びている。
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度
というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこから
ハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、
孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、
とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、
この道だけが天国に通じているのだ。」(続堕落論)
一読してわかるように、安吾の文章は明快だ。だから、さっぱりしている。
この明快さは安吾の論理性から生まれていると、僕は思う。
別の言い方をすれば、安吾の名文は、もったいぶったり、思わせぶりな表現を使うことに
よってではなく、純粋にその文章のロジカルな主張の内容によって、優れているのだ。
安吾のいう「墜ちる」とは、日常を生きる、日常という平凡にとどまるということを含む。
人生において、はたから見て「美しく輝いている」といえるような瞬間は限られている。
それ以外の瞬間は、ありきたりで変化に乏しい平凡な日常の積み重ねに過ぎない。
だから、人間は輝かしい瞬間よりも、平凡を長く生きねばならない。
そして、平凡は孤独である。人が人と集うのは、孤独ではなく平凡を恐れるからなのだ。
故に、平凡な日常に墜ちることと、親鸞やキリストの孤独な道とが、通じあうことになる。
善人から見れば、そのような安吾の主張は、ひとつの「思想」にすぎないだろう。
しかし、生きて墜ちる人間、すなわち、父母兄弟、社会制度といったものこそ思想の産物
であることを知ってしまった悪人にとって、安吾の主張は「思想」ではなく、「真実」である。
思想と真実をはっきりと区別するために、安吾が挙げる根拠はシンプルだ。
国と国との対立がなくなっても、人間同志、一人と一人の対立は永遠になくならぬ。
(「続堕落論」)
人間は、平凡な真実を生き抜くのに耐えきれず、制度という思想を作り出す。
そして、生身の一人としてよりも、国民という人間であるほうが、生きやすいと思いがちだ。
「人」と「人間」が注意深く使い分けられていることを見落としてはならない。
人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。
なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。
人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
(「堕落論」)
安吾には、墜ちきれない「人間」への、温かいまなざしがある。
この温かさが湧き出るまさにその場所で、安吾は論理性を捨てる。
というよりも、そのような場所において、もはや論理は意味をなさない。
墜ちきった「人」、つまり「人間」であることすらからも墜ちてしまった「人」にとっては、
隣人など存在しないからである。
ちなみに、「勢い」、「論理性」、「温かさ」という安吾の特徴は、小林秀雄には見られない。
そのせいか、安吾会心の小林秀雄論である「教祖の文学」は、すこぶる痛快だ。
安吾を読むと、小林秀雄の織り上げる文章が、もったいぶっていて温かみを欠くようにすら
感じられてしまうから不思議である。
小林秀雄は、間違ってはいない。しかし、彼は、真実を洞察はしても、その真実を
論理的に導くことをしなかった。つまり、小林は、どこまでも最後には感性を置く人なのである。
小林の感性では『不連続殺人事件』を書けないし、安吾の論理性では『本居宣長』を書けない。
この点にこそ、安吾と小林の大きな違いがあるのではないか、と僕は思っている。
余談だが、ちょいとまえにアニメ化された「un-go」は安吾の『明治開花安吾捕物帳』を
現代(近未来?)に翻案したものであり、個人的には秀逸な出来栄えである。
興味のある方はぜひ見ていただきたい。
【追記 5/22】
講談社学芸文庫からでている『小林秀雄対談集』を立ち読みした。
冒頭で小林秀雄と坂口安吾が丁々発止のやりとりを繰り広げていて面白い。
その対談を読んでいて思ったのは、安吾が小林にブウブウ言っているのは、
小林がその境地からしか語っていないという一点に尽きる、ということだ。
最後の答えを見出している場所は、二人ともおそらく一緒だと思う。
ただし、安吾が、どこまでもその神聖なる場所と娑婆の間の葛藤を論理化することに
生命を見出していたのに対し、小林は、彼の境地からこの世のすべてを見返すという
姿勢を崩そうとしない。
もしかすると、小林は、真実を論理的に導いたのかもしれない。
しかし、その過程が小林の言葉となって表面に出てくることはない。
小林は、安吾のように「生きること」から言葉を生み出していくというよりも、
言葉を正確に使いこなすことにこそ「生きること」を見出していたのだと思う。
だから、安吾的にいえば、小林は「墜ちきる」だけの強さをもっていた稀有な人である。
そして、安吾自身は、一度「墜ちきった」にもかかわらず、今度は逆方向に「墜ちる」、
そのことによって「墜ちきれないところに留まる」という、離れ業をやってのけている。
逆に、小林的にいえば、「堕落」だなんだというまでもなく、言葉を道具として正確に
使い切ることができれば、聖と俗は論理などなくても初めからつながっている。
そんな風に二人の言葉を読んでみることもできるかもしれない。