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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

アンリ・ベルクソンの『精神とエネルギー』(宇波彰訳、レグルス文庫)を読んだ。

小林秀雄を読む前に、目を通しておこうと思ったからだ。


この論文集には、心霊現象、夢、記憶、意識と脳といったテーマを扱った論考が収録されている。


べルクソンは19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍した哲学者だが、当時台頭してきていた

心理学に対して、本書では、鋭い批判をおこなっている。驚いたことに、その批判は、現在でも全く

古びていないばかりか、現代の科学的な発見をある意味で予見したかのような洞察に満ちている。


いくつか「へぇ~」とつい言ってしまった箇所を書いておこう。


■形而上学の真理を啓示する者らは、進化の頂点に立っているのではなく、起源に最も近く、根底から

くる衝動を我々に感知できるようにします。地球の中心にある火は、火山の頂上においてのみ現れます。

(38頁、引用者による文体変更、省略箇所あり)


火山は、地表からみるとはるか高いところまで頂を伸ばしている。我々の立っている地表からくらべると、

地球の中心からの距離は、火山のほうが遠く感じられる。しかし、ベルグソンの卓抜な比喩によれば、

地表から離れた火山の頂こそが、実は、地球の中心と直結しているのである。逆に、低いところにいる

我々は、地球の中心を直接見るためには、火山の噴火口まで登っていかねばならない。


同じことが、形而上学に言えるのだ。形而上学の真理とは、何か発展の先ではなく、むしろ起源にある。

このべルクソンの主張の根拠は知らないけれど、僕は激しく同意する。


■脳はパントマイムの器官であり、しかもパントマイムしかできない器官である。(61頁)

別の個所で、べルクソンはこうも言っている。「フルに活動している脳のなかを見て、原子の往復運動を

たどり、それらの原子がしていることのすべてを解釈できる人がいれば、(中略)そのひとは、交響曲の

演奏において、オーケストラの指揮者のタクトの動きしか見ていないひとに似ています」(91頁)


「原子の所作を解釈する人」を脳科学者、「交響曲」を精神、「タクトの動き」を科学的に解明された物質

の動きと読み替えれば、強烈な脳科学批判になる。


音符をどれだけ眺めていても、実際に音に変換させなければ、音楽にはならない。同様に、脳内部の

物質をいくら精密に観察したとしても、そうした物質の動きから、意識が起るためには、質的な変換が

なされなければならない。


この変換がどういう種類の変換なのかは、脳科学の手法では明らかにならない。この指摘にも納得。


ほかにも、進行性失語症では、品詞によって、失語になる順番が異なっている。たとえば、固有名詞が

最初に失われ、次に普通名詞、形容詞、動詞の順に失われる(68頁)など、興味深い点がたくさんあった。


この本は、べルクソン哲学の気楽な入門編としても優れているが、脳科学に興味がある人にはぜひ

読んでもらいたい。「科学の実験結果を哲学的に考える」ことの稀有な模範としても貴重な一冊である。

マーク・ストランド著、村上春樹訳、『犬の人生』、中公文庫、2001年を読んだ。

ものすごく前に買ってあったのだが、なかなか手に取らないままだったもの。

詩人マーク・ストランドによる、短編小説集である。


先日、相方さんに『何か面白い本』ない?と聞かれたので、読んだことのない

この本を貸したところ、数日後に「読むべし!」とのリアクションをいただいた。

というわけで、バーゲンの買い出しについていく傍ら、本書を読んだのである。


率直に言って、久々に文学を読んで面白かったと感じた。

物語といえるような壮大なストーリーの枠組みはない。奇妙な登場人物たちが、

不思議なやり取りを続けていく。使われている言葉自体は身近なものが多いが、

その言葉の組み合わせは、わかりやすさとは対極の場所に読み手を導く。


読み飛ばしを拒否する緻密・濃密な文章。ついつい丁寧に一文ずつ読んでしまう。

文学を読んでいるときに、これほど集中力を喚起されたのは本当に久々だった。


いくつか僕の琴線に触れた言葉について書いておきたい。


■私は常に、変化せぬもののために、行動にあがらうもののために、人間の

心の真ん中に存する静謐のために、常に語ってまいったのです。(p.61)


これは、『大統領の辞任』という作品のなかで、辞任を発表した大統領のさよなら

演説に含まれる一節。この大統領は、「真に現代的な大統領になりたい」と望んだ

がために、気象の予測にけた外れの精力を傾けた。


「私が望んでいたのはつまり「何事も起こさない」ということだった」(p.61)という

言葉にもみえるように、真に現代的な大統領であろろうとした人は、政治的な

指導者よりも、むしろある意味で時代錯誤的とも思える宗教的指導者・預言者で

あらんとしていたかのように見える。


■真実は耐えることのできるものであったのだ。(p.89)

『犬の人生』のなかの一節。この言葉を僕なりに言い換えるなら、次のようになる。

人間に耐えられないものがあるとすれば、それは真実ではないものなのだ。

真実ではなく、真実に対する意味付けこそが人を殺したり、人を壊したりする。 

真実をしっかりとみつめる目にとって、世界は常に人を支える基盤であるはずだ。


■我々が自分たちのために選んだ世界の裏側には、もうひとつべつの、選ばれ

なかった、説明のつかない世界が存在し、それが我々を選ぶことになる。(p.150)

本当の主体は何なのか。我々は、選ぶ側なのか、選ばれる側なのか。

ストランドは、その両方を肯定しているようにおもえる。僕もその点には同意する。

しかし、その同意に含まれる真実については、もうすこし理論的に解明する余地が

残っていると思う。


ここに挙げた言葉は、いずれも作品の文脈と分かちがたく結びついているので、

一部分だけを抜き出すよりも、文脈の中でこそ、その意味の厚みが実感できる。

そういう書き方をストランドはしている。だから、テキストを「読み解く」楽しみを

それぞれの読み手が自分なりに堪能できるようになっている。


世界が欠落する一点としての、私。その意味での私は、世界の内部に居場所を

もたない。しかし、そうした世界の欠落であることによって、この意味での私は、

普通の意味での私を含んだ世界全体を保っているのである。


厳しい現実から真実を区別するために、ストランドの言葉は力強く寄与している。

僕には、そう思われた。

身が固まって、初めてのお正月。


30日までお仕事の奥さんにあわせ、31日から二人の両親の家を訪ねた。

親戚が集まって、にぎやかな三が日を過ごすことができた。


親戚まわりの合間をぬって、東京で医師として働いておられる先輩を訪問。

5時間ばかりぶっ続けで話して、頭がしびれた…。

心や精神について考えると、脳の消耗がすごい。


昨年は、大学でついに専門課程がスタートしたこともあり、あまりブログを

更新できなかったが、興味ある本も読めたし、映画も結構見に行けた。

今年は、もう少し、自分からアウトプットできるよう、時間を見つけて文章を

つづるように心がけたいものである。


まだ半人前の日々が続きますが、引き続きよろしくお願いいたします。

みなさまにとっても良い年となりますように。

もう11月半ばである。久々にゆったりとした週末を過ごしている。

来週からは、濁流のような実習がはじまるが・・・。今を楽しもう。


さて、さる10月1日は、例年某ラーメンチェーン店がラーメン一杯ごとに

無料券一枚をくれるというキャンペーンをやっている日である。

京都に舞い戻ってきてからはや、四年。これまで三回、自転車で

京都市内の店をできるだけまわって、無料券を大量にゲットするという

後輩の退廃的な計画につきあい、周囲の失笑をかってきた。


今年は身が固まったし、10月1日が土曜日にあたったこともあり、

貴重な週末を無為に過ごしてしまっていいのかと慮っていたのだが、

相方さんからは、「行ってきたらええやん」というものすごく意外な一言。

正直、僕自身も本当に毎年参加したいと思っているのか自信がないほど、

精神的にも胃的にも厳しい戦いになるわけだが、相方さんの一言で、

今回欠席するための口実がなくなってしまった。


というわけでついに四回目の参戦である。

 

10月1日はやや肌寒い日であった。例年だと11時に銀閣寺店に

集合してスタートという流れなのだが、今年は、当日、老人ホームで

演奏するお手伝いがあったので、まずは京都のお隣の某市文化会館

に集合。スタンバイと本番を含めて3時半に出番が終了したので、

そこから戦闘スタートすることにあいなった。


まずは、老人ホーム近場の桂五条店へ。

遅いスタートということで、この時点ですでに4時半。まだ空は明るい。

あまり何件も回れないと思ったので、なにを血迷ったのか

「こってり大」を注文。今年は、全部「大」でいくぞとひそかに決意。

桂五条店のスープは非常に安定したこってり具合で、いつも楽しみに

しているが、今年も期待を裏切らないすばらしいこってり具合であった。
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しかし、食べ終わってみて、思いのほか、おなかがきつくなって

いることに気づく。思い返してみれば、老人ホームで演奏のお礼に

ということで、アイスとおやつをごちそうになったのだった。

演奏があるので、朝飯もちゃんと食べてきちゃったしな・・・。

例年に比べ、空腹の準備が足りなかった模様。


早くも前途多難を意識し、同行の後輩のみなさまといつもの

スーパー銭湯で休憩。一時間ほど、風呂につかりながら、

さっぱりする。このタイミングでさっぱりしたところでなんの意味も

ないのだが、それを言い出したら・・・いや、言うまい。


スーパー銭湯をでると、空が暗くなっていた。ここで徳島から

やってきた後輩がレンタサイクルで合流。京都駅八条口店へ向う

ことにした。すでに日が落ち、自転車を漕ぐと肌寒い。ただ、人通りが

すくないので、自転車を飛ばすにはいい時間帯になってきた。

奇跡的に、桂から京都駅まで、一回も赤信号に引っかからずに到着。

去年は、麺が売り切れていて入れなかったので、今年はまだやってて

ラッキー。すでに、すこし行列に並んだが、7時ごろには入店できた。
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こってり並をかるく完食。口当たりは桂五条点よりもソフトな感じ。

すこし甘味がでているのが京都八条口店の特徴だろうか。

ちなみに、今年は全部「大」でいくぞという秘かな決心は、二店目にして

早くも挫折。堂々と口にしていなくてよかったと思う。

食べ終わってから、次どこにいこうかという話になり、とりあえず大宮通

を北上して行くことに決定。


途中、中国旅行から帰ってきたばかりお後輩がおなかを壊していて、

デパートのトイレに寄ったりしていたので、二条店についたころには、

20:30になっていた。ところが、二条店は、すごい行列ができていたので断念。

二条店は去年も行ったのでスルーし、去年いけなかった北野白梅町店へ。

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すこし行列ができていたが、二条店よりはだいぶまし。10分程度で入店できた。

ここでは、辛味をいれた「こっぴり」がおいしい。二年前と同じものをたのんだ。

相変わらずおいしい。店間の移動時間や、行列に並んだりで、意外と時間が

かかっているので、わりと楽に食べられた。


お次は、北野白梅町からはかなり近い仏大前店。こちらも到着すると、行列が

できていた。しかし、5分ほどで入店。「こってり並」を注文した。21:10。
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食べてびっくり、ここのスープは、塩っ気が強い!普通のコンディションなら

「濃いスープ」なのだろうが、すでにラーメンやけしている胃にはこたえる「濃さ」

である。「濃さ」を紛らわすために水をがぶ飲み。しかも北野白梅町で食べて

から20分ぐらいしか立っていないので、おなかは急激に危機を迎えることに。


かなりテンションが落ちた状況で仏大前店を後にし、チャリをこぎ出したのだが、

まだフィニッシュするわけにはいかないということで、同志社前の今出川店を

目指した。到着は、23:00ごろ。こちらはそれほど長い行列になってなかったが、

入店には10分ぐらいかかった。
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「こってり並」をいただく。今出川店は、数年前だとあまり気合いがない感じの

スープだったが、最近はなかなか手ごたえのあるスープになってきていて、

結構お気に入りである。とはいえ、おなかは厳しく、味もあまりよくわからない。

ねぎがうまかった。


立て続けに3軒まわったので、ちょいとやすもうということで、前の大学時代の

サークルボックスを襲撃。そこにいた若者を巻き込んで、ひとしきりうたった。


初対面の後輩のかたがたもたくさんいらしたわけだが、世代を超えて同じ曲を

歌えるというのは、ありがたいことである。結局、そうした初対面方々とは、

実質なにもしゃべらなかったので、僕が何者かもわからんままやったかも

知れないけれど、願わくは、ちゃんと勉強して、僕みたいにならないことを

祈るばかりである。


うたっているうちに真夜中を大幅に過ぎ、フィナーレを飾るべく、北白川本店に

向かった。店前には長蛇の列。店前から始まって、うらの駐車場のところまで、

人がぎっしり。約30分ほどまって、入店。「こってり並」とビールを注文。
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うたったためか、おなかはややいい感じ。しかし、ビールを飲むと、とたんに

厳しくなったが、最後ということで心は何となく晴れやかであった。


深夜一時に食べ終わり、解散。引っ越したので、北白川総本店から我が家

まで、約一時間半弱の自転車行である。


身を切る風に耐えながら、家についたら、2時半を回っていた。シャワーを

浴びて、すぐに寝た。


翌日の日曜日は、当然前半を寝倒し、相方さんに「ニンニクくさい」と言われ、

食欲は全くわかず、ほぼ何もできないまま終わってしまった。


しかし、なにかをするために時間があるわけではない。

むろん、なにかをしないために時間があるわけでもない。


僕と時間の関係は、そう言い切れる程度まで自由なのである。

なんのこっちゃ自分でもよくわからんが、考えるネタにはなる。

もう一月以上まえのことになるが、大学の同級生のおっさんたちで、

金沢に小旅行に行ってきた。時は九月のおわり。

後期の授業が始まる前に、いっちょ景気づけようというわけである。

あのころは、この恐ろしい二学期が待っているとは思っても見なかった。


あさ9時くらいに、京都駅に集合して、ビールを買い込み、いざ

サンダーバードへ。天気は曇り。少々肌寒い感じではあったが、

暑苦しいよりはだんぜんよい。


2時間ほど、夏休み中の出来事を情報交換しているうちに、いつのまにか

金沢駅に到着。まずは、おいしいものを食べて、腹ごしらえということで、

市場にむかい、金沢出身の同級生がすすめるお店で、海鮮丼を注文。


でてきて、びっくり。こんな贅沢な海鮮丼は初めて拝見いたしました。

あまりにおいしかったのと、ビールがすすんだのもあったのだろうが、

調子に乗って、飾りの貝殻を持って帰ってきてしまった。


あとで聞くとそんなことをしていたのは、僕だけだったらしい。旅の恥は

なんとやらである。


Nothingness of Sealed Fibs-海鮮

すこし、あかくなりながら、金沢市内を散策。目指すは兼六園ではあるが、

兼六園に向かう道の途中に、尾上神社という風変りな神社があったので、

立ち寄ってみた。


明治初期に建てられたこの神社は、一部洋風なテイストを盛り込んだ

門をもっている。これは、へんてこだ。神社のなかでは今まで見た中で

最高の変わり種ではないだろうか。神社建築はどの神社も基本的には、

社殿の作りが似ているので、あまり変わり映えがしないのだが、この

尾上神社の門は、よい。


神社境内を一蹴して、腹ごなしと酔いざましを済ませたつもりになって、

いざ、兼六園に。
Nothingness of Sealed Fibs-兼六園
園内の時雨亭の縁側から庭を望む。単に庭をみるのと、こうして建物の

中からみるのでは、だいぶ印象が異なる。休憩をかねて15分ほど、庭に

見入ってしまった。


兼六園の見学がおわって、次は金沢城をとおもっていたら、なんと現在は

修復中ということで、肝心のタイルが飾られた城壁が拝めなかった。無念。


Nothingness of Sealed Fibs-金沢城

宿の近くの宝泉寺の境内から、金沢市街を眺めた。落ち着いた街並みは

とても上品で、京都よりもゆとりを感じさせる。あまりかっこつけていない

ということなのだろう。


夕食は全員で焼き鳥を食べに行き、そのあとは自由行動。久々に麻雀を

やって、ちょびっと負けた。寝たのはあさの5時。


翌朝7時に起きて、チェックアウト。雨だったので、21世紀美術館に向かった。

社会科見学かなんかの中学生たちのあとをついてまわって、館内を一周

した後に、すぐ近くにある旧制第四高等学校の記念館に行ってみた。


旧制第四高等学校といえば、西田幾多郎や鈴木大拙の母校である。

無料で見学できる記念館で展示されている写真の中で、西田の容貌は、

予想以上に宇宙人っぽかった。目が少しつりあがり、耳殻がとがっている

ので、集合写真であっても、まっ先に西田へと目が行ってしまう。

西田の眼力は、いともたやすく写真からはみ出してくる。


再び21世紀美術館にもどって、そこから市場までいってでお昼ごはん。

食事後、ぶらぶら相方さんのお土産をみてから、サンダーバードで帰京。


夏休み最後の息抜きにはちょうどよい小旅行となった。