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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

ちまたの噂では「政治が混迷を深めている」とのこと。


笑える。


丸山真男がどこかで、こう書いていた。

「日本のマスコミは政局を伝えるばかりで、政治を伝えない」


本来混迷を深めることができるのは、「政局」である。


政治とは、社会にとって何が問題なのかを見極め、問題解決のために、

社会的な規制(法律のことですな)の創造と破壊をすることである。

選挙とか議席数うんぬんは政治にとって手段であって、目的ではない。


だから、政治が混迷するというのは適切な表現ではない。

議席をめぐるドタバタは「政局」であって、「政治」ではない。

政治と政局という言葉の使い方の方が混迷を深めている。


さらに、どこぞの○原○太郎という元首長が、

○新の会と合流したとたんにTPP交渉参加を後押しする発言したとのこと。

この人は、「日本はアメリカの妾だった」とか言っていたが、もしそう思うなら、

TPPは当然反対なはずだし、去年あたりは普通にTPP反対と言ってたと思う。

にもかかわらず、合流してすぐに意見が変わるとは・・・。


「政局」はマジで混乱してます。要は、議席を取りたいということなんすね。


もっというなら、アメリカの妾であるのが嫌ならば、まずやるべきは再軍備とか

何とか騒ぐ前に日米安保条約とさようならでしょう。日米安保があるかぎり、

再軍備しようとしまいと対外的には、アメリカの庇護下にある日本という

図式は変わりません。


ちなみにこの人の発言によって、某領土問題が活性化(?)した。

おかげで、中国に進出していた企業は大損し、一部の地権者だけ大儲けした。

しかも、超大国である中国との外交には禍根が残ってしまう始末。ひどい。


僕にはいまだに日本人地権者から日本「政府」があの土地を買った意味が

分からない。領土を守るためには、その領土が「政府」の所有地である必要は全くない。

その土地を日本国民が所有しているなら、それは対外的には日本という国の領土だ。

○原さんが地方自治体として領土を購入しますといったのは、そうしないと首長は

口をだせないからである。政府が購入せんでも国が口を出せるのは言うまでもない。

ここでも、「政府」と「国」という言葉の使い方に混乱が見られる。


あげくのはてに、自民党の公約に「国防軍」の保持という表記があるというのが、

マスコミでニュースになる始末。


いやいや、日本の自衛隊は、すでに対外的には立派な国防軍ですから。

自衛隊の英語名はJapan Self-Defence Forceでっせ。普通の中学生でも、

self-defence forceを和訳しろといわれたら、結構な割合で「国防軍」と訳すだろう。


つまり、自民党がいってることは、対外的には全くなんの変化も生まない。

自衛隊か国防軍かという日本語のニュアンスの差は、外国語では無に等しい。

しかも、日中関係がこじれたときに、外国の新聞は中国と日本の戦力比較を

やっていて、アメリカの介入なしで、日本の自衛隊が中国の軍隊の戦力を

上回っていると分析していた。日本は、世界から見ると立派な軍事大国である。


自民党がやろうとしていることは、外国から見ればすでに達成されていることである。

むろん、自民党が国内向けに言葉のイメージを争ってますというならば、そんな

イメージ合戦は、緊急性に著しく欠けると言わざるをえない。他に外国からみても

緊急性の高い問題があるでしょうと。下手すると海洋の放射能汚染で外国から

巨額な賠償金が請求されかねない現状で、何言っているんですかと申し上げたい。

名前を国防軍に変えたところで、相手国が軍事的にではなく、経済的に賠償金を

請求するしかたで攻撃してきたらどうすんですか、と。


United Nationsを戦争前は「反枢軸側/連合国側」と訳し、戦後は「国際連合」と

訳し変えたのは、外務省が頭を振りしぼった苦肉の策だったわけだけど、

自衛隊と国防軍の言い換えの主張の裏には、一瞬たりとも頭を振りしぼった形跡が

みうけられない。


そもそも、そこまで「軍」を作りたいなら、そこまで国を守りたいなら、

なぜ自衛隊に入らずに政治家になんてなったんでしょうかね。不思議だ。

政治家になる方が自衛隊にはいるよりも国を守ることになると思ったのなら、

「軍を作りたい」とか言わずに、「みんなも政治家になってよ」と言えばよい。

ちなみに僕は、国を守ることと、国民を危険にさらさないことも混同されていると思う。


だんだん揚げ足取りも気分が嫌になってきたので、次で最後にしておこう。


某総理大臣が解散を決断したときに、こう言っていた。

「近いうちに国民に信を問うと申し上げました。その約束を果たすためであります。」

とかなんとか。


「他の政党に対する約束」は果たし、「国民に対する約束」は果たさななくていいのか?

腑に落ちないことをおっしゃる総理大臣であった。

まぁ僕も決して約束を全部守ってきた人間ではないですけれど。


とまあ、最近、内容がおかしいために、可笑しいと思うしかない事態が続いている。

民主、自民、第三極も、トータルで見たときに、もろ手を挙げて賛成するには値しない。

仮にある分野について優れた主張をしていたとしても、他の主張があまりにひどい。


政党同士が足の引っ張り合いをやると、お互いがあらゆる点において相手と自分が

異なっているということを強調しがちになる。そのためだろうか、相手の批判、自分の

弁護ばかりしていて、「よいものはよい」といえるようなしっかりした意見を聞く機会は

とても少ない気がする。


国というレベルで考えると、将来の国のビジョンをどう描くかは非常に難しい。

政治家の方々が大変なテーマを背負っておられるのは分からなくもない。

しかし、思い返してみれば、国のビジョンは、日本国憲法前文に書いてあるもので

いまのところ十分ではないか?


「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと

努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」


前文を読んだ後に最近の政局を顧みると、なんだか悲しい気持ちにしかならない。

むしろ前文に励まされてしまう自分を感じる。

先達の不屈の理想への敬意を胸に、自分なりに大切に生きていこうと思う次第です。


【選挙が終わり、年が明けてからの追記】

ぶーぶー言ったけど、もとより政治には正しい答えなどない。分かり切ったことだ。

有権者は、正解ではなく、より良い(ベターな)選択を求めて、クールにいろんな立場を

比較考察し、自分なりの意見をきめて投票しなければならない。

こんな当たり前のこと、福沢諭吉がずっとまえにきちんと言ってくれている。

いまさら僕がブログで書くべきことではないのだが、当たり前の事がおろそかになると

とんでもない結論がでてしまうことがある。そういう体制が民主主義である。

当たり前のことを忘れてしまわぬために、ここに記しておいたことをたまに振り返ろう。

今年も10月1日がやってきた。

某ラーメンチェーン店がラーメン一杯ごとに無料券一枚を配る日である。

そして、幾人かの腹を空かせた愚か者達にとっては、戦いの日でもある。


愚か者たちは「戦士」を自称しているが、むろん、自称に過ぎない。

これは、そんな自称戦士たちが、無料券と名誉を得るためだけに貴重な時間と

お金を浪費し、あげくのはてにお腹の調子をやや悪くした顛末の記録である。


昨年と同じく、昼過ぎに老人ホームでの慰問演奏のお手伝いがあったため、

戦士たちは、老人ホーム集合前に各自できるだけ数を稼いでおくことにした。


僕の場合は、最寄りの長岡天神店が一店目。開店時刻の11:00にいってみると、

平日だというのにすでに行列ができている・・・。5分ほど並んではいれたので、

まずは一杯目をいただく。むろん、注文はこってり並である。

Nothingness of Sealed Fibs-長岡京

スープも濃厚で、チャーシューも厚い。久々に手ごたえのある一杯である。

5分で余裕の完食。最後に水を一気飲みして、さっそうと店を出た。11:15。


その後、老人ホームでの演奏を終わってから、メンバー同士で作戦会議。

メンバーの一人が大学で非常勤講師を始めたため、お酒を飲んで自転車を

運転できないという大人の事情があり、今年は電車でいけるお店を回ることに。

15:30。いよいよ今年の戦いがスタートした。


ちなみに今年のメンバーは、博士課程在学中2名、学部1回生1名+僕という

微妙なバランス構成となった。博士課程の2名のうち、1名はすでに今回で

7回目のファイト参戦を誇る猛者。メンバー最年長で唯一の30代である僕が

5回目の参戦である。のこりの二人は今年が初参加。彼らは、これから起きる

現象については知っているが、その現象が与える心理的・身体的なダメージに

ついては何も知らない。

さっそく阪急の烏丸駅にむかって、一日乗車券を購入。そのまま河原町駅に

向かい、そこから二軒目の南座前店に。16:00。夕食時ではないのでほとんど

待たずに入店できた。この店は、場所のせいかわずかにラーメンの単価が

高いのが難点だが、スープのこってり具合はなかなかのもの。うまい。

一杯目から時間が空いていたこともあり、二杯目のこってり並をすぐに完食。

Nothingness of Sealed Fibs-南座前


お次は、学部1回生に祇園の見どころを紹介しながら四条通を東へ。

ひそかに最も敬愛する知恩院前店に向かう。17時ごろに到着したが、なんと

店の前には数人だが行列ができている。約20分ほどまたされて入店。

新メニューの宣伝に誘惑され、「貴公子のみそ」ラーメンを注文した。

でてきたみそラーメンを見てびっくり。なんと天下●品ラーメンに「もやし」が

のっている!!興奮してすぐに食べはじめてしまったので、写真に撮り忘れた。

みそラーメン自体は、意外に食べやすく、あっさりめで口当たりがよい。

率直に言って、普通の意味でおいしかったのだが、天下●品で普通の意味で

満足することは、端的に敗北を意味する。舌は満足でも心は燃えてこない。


やや不完全燃焼気味なまま、知恩院前店を後にし、地下鉄で六地蔵店へと

向かうことにした。六地蔵店へは初めての訪問。移動に時間がかかったので、

到着は18:00ごろ。若干おそれてはいたのだが、かなりの行列ができていた。

30分待ちぐらいということだったので、近くのコンビニでビールを購入し、戴く。

すこしラーメンの塩ッ気にやられていたので、ビールは本当に心地よい。


やっと入店できて席まで行く途中で、団体でラーメンをほおばる女子高生を

見かけた。わおびっくり。最近の女性のパワーには圧倒されます。はい。


Nothingness of Sealed Fibs-山科

こちらのこってりは非常に濃厚で、今回のファイトでは一番濃かった気がした。

スープの気合いは伝わってきたのだが、さきほど飲んだビールの清涼感が

跡形も無くなってしまい、悲しい気分になる。ネギも多めで好感をもったのだが、

いかんせん、ビールのせいでお腹がしんどい・・・。メンバーも口数が少なくなり、

みんな心なしか顔をゆがめはじめている。ビール効果、もろ刃の剣なり。


重い空気のままなんとかラーメンを平らげ、再び地下鉄にのって、山科店へ。

19:30ごろ到着したのだが、なんと1時間待ちの大行列。隣にある本屋さんで

立ち読みすることにしたのだが、20分ほどで飽きたので、再びビールを買って

あーだこーだ立ち話する。後輩のいろんな話を聞いていると、みなそれぞれ

大変なのだなと感じる。とくに博士課程の学生は就職が大変みたいだ。


Nothingness of Sealed Fibs-二条

山科店は、日頃からよく行くので味はよく知っている。オーソドックスで、

他店と比べるとまさに中庸の味わいである。ビール腹にはこたえるぜと

ひいひい言いながら、なんとか食べる。うまいのだが、つらい。


全員なんとか五杯目をクリアしたので、次は地下鉄で二条駅前店を目ざす

ことにした。山科店を出たのが21:00ごろ。腹ごなしに御陵駅まで歩いて、

地下鉄に乗った。二条駅前店までくると、21:45になっていた。

お店の前には、なんと30メートルほどの行列!!


とりあえずメンバーの一人が行列最後尾に並んで、後の二人で向かいの

スーパーでビールを買い出し。今回はロング缶も含めて、待つ準備はばっちり。

待っている間に、授業とサークルの練習を終えた後輩たちが4人新たに合流。

久々の再開に、話がはずみ、待ち時間も全然苦にならない。


結局一時間強並んで、入店。こってり並みを頼むと、今回のファイトで初の白い

どんぶりでの登場。待ったかいがあったなとしみじみした気分でこってりに挑む。


Nothingness of Sealed Fibs-六地蔵

二条駅前店、うまい。麺、スープ、チャーシューどれも文句なし。

ビールの酔いもあって、あまり味も分からなくなっていた気もするが、

白いどんぶりだったのがうれしくて、激しいスピードで完食した。

食べ終わって店をでたのが23:00ごろ。本当はまだまだ続けたいところでは

あったが、なにげに終電一本前だったので、本隊と別れ、家に帰ることにした。


今年はラーメンだけみると6杯と物足りない数字にとどまったが、待ち時間に

ビールをかなり戴いたので、実質的には8杯ぐらいになるはず。

まずは健闘したといえるだろう。


しかし、年々このラーメンチェーンのイベントの認知度が上がってきたのか、

どこへいっても行列ばかり。待ち時間が多くなり、杯数を稼げなくなっている。

もうそろそろ、このファイトも潮時かもしれない、頼もしい若手も台頭してきたし、

後は後輩に任せて、僕はそろそろ引退だなと思っているうちに家に着いた。


帰ったとたん、相方さんから「にんにく臭っ!」と率直なご意見を頂き、我に返った。

すばらしき我が家だ。快く(?)送り出してくれた相方さん、ありがとう。

なぜか感謝の気持ちでいっぱいになった。いや、当然か。たぶんもう最後です。

もう先月の話になってしまうが、昔いた会社の同僚ご夫妻が京都に

立ち寄られたので、一日かけて京都の南東のほうをめぐることになった。


11時頃に京都駅で合流して出発して、まずは三十三間堂を目指して歩き始めた。

それほど残暑厳しくなくて、歩くにはよし。


たしか、中学の修学旅行、相方さんとの散策で来たので、三十三間堂は

これで三回目の訪問。しかし、改めて観てみると以前は全く気付かなかった

ことが気になってくる。


いまは、立派な観光地でたくさんの人が訪れているが、昔はどうだったのか。

聞くところによると、中央の巨像は鎌倉時代、林立する千手観音は、平安時代と

鎌倉時代作のものが混じっているとのこと。


どうして千手観音像は、こんなにたくさんでなければならなかったのか。

このお堂を作ろうと思った人々の思いは、尋常でない強さをもっている。


昔の人は、一人でこのお堂に入ったりすることもあったのだろうか。

僕がもし一人でこのお堂に来たら、正直めちゃくちゃ怖いと思うのではないか。

もしかすると、お堂に入るという行為が罰あたりに感じてしまうかもしれない。

それほどまでに、このお堂の観音密度は異常である。危険すら感じる。


世界の宗教のなかでも、信仰の対象がこれほどまでの密度で並んでいる場所を

僕は寡聞にして知らない。


しかも、千手観音のまえには、風神雷神、二十八部衆など、ハイクオリティの

仏像がこれでもかと並んでいる。もっとゆっくり、静かなときに見たいなとも

思ったが、たくさんの観光客の人たちと一緒に見ているおかげで、ビビらずに

正気を保ったまま観覧を終えることができたのかもしれない。


三十三間堂を出た後は、ちょうど西側にあったお寺の門のところに「血天井」の

看板をみつけたので入ってみることにした。お寺の名前は、「養源院」とのこと。

Nothingness of Sealed Fibs-養源院

二条城の二の丸的な書院造風の入口だなと思いながら中に入ると、お坊さんの

説明が始まっていた。


入ってびっくり、このお寺には俵谷宗達の扉絵で超有名らしい。しかも伏見城で

鳥居元忠らが切腹したときの血の跡がのこった床板を天井に使ってい!!

お坊さんの説明を聞きながら、このお寺の歴史的意義のすごさにびびった。

天井に残った血の後がいまだにくっきりしていたので、心のなかで手を合わせた。


養源院をでて、今度は南下。泉湧寺、東福寺方面を目指す。

途中の甘味処、「梅香堂」にて休憩。小倉ホットケーキ、めちゃうま。


Nothingness of Sealed Fibs-小倉クリーム


東福寺では、紅葉前の通天橋を望む。緑のなかでも美しいものは美しい。

シーズンオフなので、ゆっくり拝観できたのもよかった。方丈も見たけれど、

写真をとるのを忘れた。

Nothingness of Sealed Fibs-通天橋


東福寺からは、タクシーにのって六波羅蜜寺へ。平清盛像、空也像は

定番だが、久々に見てみると、清盛像は記憶よりも大きく、空也象は、

記憶よりも小さく感じられた。じっと空也象にみいっていた相方さんが

空也像の眼にはめられた水晶(?)が怖いと言っていた。


そう言われて気付いたのだが、空也像は単なる美術とは違うのではないか。

たしかに、空也像は写実的である。写実的すぎて今にも動き出しそうだ。

その意味で、空也像は美術としてとても優れた作品なのだろう。


しかし、この像は同時に非写実的でもある。僧の口からでた阿弥陀像は、

現実とは違うリアリティの存在を告げてはいるが、それゆえに写実的でない。

どれくらい前から針金というものがあったのかはよく知らないけれど、たぶん

当時としては最新のテクノロジーだろう。貴重な針金を用いてまで、そして、

その他の点では完ぺきにまで高められた写実性を犠牲にしてまで、この像の

作者は阿弥陀像を空也の口から出した。


念仏が阿弥陀如来に具現するという造形は、現実から信仰への飛躍を意味する。

現実の物理を超えた時点で、、空也像は美術とは別もののなにかへと変貌した。

僕にはそう思える。


この像に垣間見える「現実を超えたい」という思いが、空也の生きた時代の重さを

示しているような気がした。


六波羅蜜寺を後にして北上。建仁寺の横をぬけて、魔利支尊天堂の狛猪を

見て喜んだり、虹を見たりしているうちに、四条通にでた。


Nothingness of Sealed Fibs-こまぶた

そのままぶらぶらして、INOBUNやら錦市場やらラーメン屋さんを巡った。

最後は京都駅構内でおいしいビールをいただき、解散。


たくさん歩いたので運動にもなったし、鎌倉の末法思想という感覚について

もっと調べてみる気になったのも収穫だった。

すごいものは、何回見ても見足りない。京都生活が長いと、ついマイナーな

穴場ばかり狙ってしまうが、やはり名所もすごい。京都恐るべし。

『ゆれる』の西村美和監督の作品。最新作『夢売るふたり』が話題

ということで、前作『ディア・ドクター』を拝見してみた。


なにげないシーンに謎をしのばせる手腕がずば抜けていて、

ストーリーの展開はゆっくりなのに、スリリングな作品になっている。

いつもながら歯ごたえのある良作だと思う。


以下、ネタばれがあります。


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村に一人だけの医師(鶴瓶さん)は村民に慕われているが、実は無免許医で、

そこに新米医師(瑛太)が研修にやってきて・・・というお話。

八千草薫演じるおばあちゃんとつるべさんのやり取りなど、かなり謎めいた

シーンが連続するので、この映画の本当のストーリーはどんなんだったのかは、

観た人によって解釈が変わってくるかもしれない。それぐらいの深みのある

作品になっている。


ストーリーは、鶴瓶さん演じる偽医師が、八千草薫演じる一人暮らしの老女の

病状を偽装するくだりから大きく展開する。老女の娘(井川遥)は医師であり、

本当の病状を知られたら、都会の病院に入院させられてしまう。

死に別れた夫の位牌もある住み慣れた自分の家で最後を迎えたい、というのが

老女の願いだった。


鶴瓶さんが猛勉強して作り上げた偽の病状に、老女の娘すら納得してしまう。

しかし、娘が次に村に戻ってくるのが一年後だと聞いた鶴瓶は、突然診療所から

逃亡してしまうのである。


僕は、無免許医が逃亡したのは、はじめて本当の意味で人(ここでは井川遥)を

騙すことになってしまったのに耐えきれなかったのだと思う。


この映画の前半で示唆されるのは、鶴瓶さんが無免許医であることに村民が

全員気づいているということである。鶴瓶からの「ご臨終です」という言葉がでるより

前に場の空気を読むかのように家族が「ありがとうございます」というくだりや、

看護師が無免許医の指示に従って気胸の急患に応急処置をするくだりをみると、

村民は確実に知っている。言い換えれば、無免許医は村民を騙しているふりを、

村民はずっと騙されているふりをし続けていたことになる。


振り返れば、瑛太演じる研修医がきたときも、鶴瓶さんは「おれ、資格ないんや」と

ハッキリ言っていた。研修医はその意味を誤解していたが・・・。


どうして鶴瓶さんが医師のふりをするようになったのか、映画では描かれていない。

しかし、僕には村民から(無言のままに)頼まれたのではないかと思えるのだ。


したがって、鶴瓶さんが本当で欺いたのは、老女の娘が初めてということになる。

村人、薬屋さん、老女もみな鶴瓶さんが無免許医であることを知っていたのだから。

鶴瓶さん演じる無免許医は、本当は嘘をつくのが嫌な人だったのだろう。

だからこそ、村民に担ぎあげられて、医学の勉強もし、医師の役割を果たしていた。

医学の勉強はしんどい。並大抵の覚悟でやれるものではない。

やはり、彼はいい人だったのだ。僕にはそう思える。


初めて人を騙してしまった鶴瓶さんが選んだのは、逃亡、そして老女の入院する

病院に医師ではなく職員として就職することだった。なぜそこまで、無免許医が

老女を追いかけたのかといえば、医師として最後まで責任を持つとか何とかでは

なくて、単にこの偽医師と老女が互いに愛情を抱いていたからだと思う。

二人の愛情を示すシーンは確信犯的に映画のなかにちりばめられている。


農村の医師不足、無免許医の問題、一見するとこの作品にはそうした社会問題を

背景としてみられてしまう。しかし、この作品が映画として優れているのは、その

社会問題への批評性ゆえではない。

明示されない仕方で「無免許医と老女のラブストーリー」と「最も嘘をついていた

と疑われる人物が最も正直だったという逆説」を描ききっている。このように、

手法としての映画の可能性を如実に体現してくれている、それゆえにこそ、この

作品は称賛されるべきだろう。


この映画で最も人を騙そうとしているのは、西村監督である。

結構前になるのだけれど『テルマエ・ロマエ』をみたので、思ったことを書いておく。


原作マンガを愛読していたので、ストーリー部分については、わりと原作に忠実に

映像化されているなという程度の感想しか浮かばなかった。


マンガを読んでいなかった人にとっては、目からウロコの斬新な展開を楽しめるだろうし、

マンガを読んでいた人も、豪華俳優陣の演技や、若干原作をアレンジしている部分を

を楽しめる作品になっていると思う。


特に、僕のなかで一番ツボだったのは、かの竹内力さんの存在である。


竹内力さんといえばミナミの帝王。しかし、『ママハハ・ブギ』とかでの竹内さんを

知っている僕らの世代からすると、その演技の幅に驚かされる俳優さんの一人だ。

NHKの名作時代劇、『陽炎の辻』での敵役忍者も存在感あったしなぁ。


もし、横山光輝の名作忍者マンガ『伊賀の影丸』が実写化されるとしたら、

竹内さんに「不死身の邪鬼」を演じてほしいと願うのは僕だけだろうか。


さて、『テルマエ・・・』で、竹内力さんは、上戸彩演じるヒロインの実家である温泉旅館の

常連客を演じている。この役は原作マンガにはなかったから、映画だけの楽しみだ。


殆ど台詞はないし、オールバックの帝王スタイルそのままなのだが、その強面のまま

竹内力さんが温泉でくつろいでいる姿は何ともおもしろい。

実は、竹内力さんという俳優さんは、かなりコメディセンスがあるのではないかと思う。

とくに、殆ど台詞を口にしないまま、たたずまいで面白いという人は、稀有ではないか。


もちろん、この映画のキャスティングは全体的に入念かつ巧妙に組まれていると思うが、

僕個人としては、竹内力さんが大ヒットであった。

人気マンガを映画化して成功するというのは結構大変なことなのだと思うのだが、

この竹内力さんのキャスティングという点で、僕は、映画館にいく価値があった気がする。


映画は、テレビドラマとも、小説とも、マンガとも違っているはずだ。

別の言い方をすれば、映画には、映画独自の時間と空間の切り取り方がある。

その独自性を生かさずに、集客が望めるというだけで安易に映画化するなら、

映画という媒体のもつ価値を下げてしまう。


映画化とは、単に映像化することではない。

これは、定義ではなくて、努力して達成すべきことだ。

この努力がなされなかったら、映画は先細りしてしまうだろう。


『テルマエ・ロマエ』の竹内力は、『ピューと吹く!ジャガー』の要潤以来の絶妙なる

キャスティング作として、僕の記憶に残った。

阿部さんについては、一連の『トリック劇場版』に軍配をあげたいので、まぁいいか。