8月末が締め切りのレポート3本がおわって、無事前期が終了。
9月終わりに一科目だけ試験があるけれど、しばし休息である。
さて、今回のお題は『ダークナイト ライジング』。
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以下、激しくネタばれしているので、未見の方はご注意ください。
最初に感じたのは、この作品は『口もと』をめぐって展開されているということだ。
このことは、バットマンとベインの口もとを比べてみればすぐにわかる。
バットマンは、周知の通り口と目の周辺以外はマスクで覆われている。
一方、ベインは、口もとだけダース・ベイダー的なマスクで覆われていて、
その他の部分はおおわれていない。
つまり、顔の部分の表象に関して、バットマンとベインは裏表の関係にある。
いいかえればこの二人は、互いに相補的なしかたで表象されている。
相補的なのは表象だけではない。二人の負う役割も相補的になっている。
バットマンは善と富、ベインは悪と貧困を代表している。
また、バットマンに守るべき個人がいないのに対して、ベインにはいる。
さらに別の言い方をすると、バットマンは自分で考えて判断しているが、
ベインは、ボスの言うことに忠実に従っていたにすぎない。
バットマンは神のように、ベインは預言者的にふるまっているとも言える。
そして、個人的には、このポイントが一番大事のように思うのだが、
バットマンが秘密を守り通して、つまり人々を欺きながら正義を守護するのに
対して、ベインは一切嘘を述べないことによって悪を行っている。
ベインは街を占領してから様々な秘密を暴露したし、民衆を欺きはしなかった。
いや、ベインは「爆破スイッチは市民のうちの一人にもたせる」と嘘ついたじゃないか
といわれるかもしれない。しかし、結局、市民のひとりでもあるミランダが
スイッチを持っていたのだから、ベインは嘘を言っていたわけではない。
僕にはむしろ、バットマン達がベインは嘘をついていると決めてかかった事の
ほうが不思議に思われる。推論としてあまりに単純であるし、もしこの推論が
はずれていたら、まちがいなく街は壊滅していた。
つまり、この映画が示しているのは、
ひとつひとつの行為はまっとうなベインが全体としては悪を行っていて、
逆に、ひとつひとつの行為においては民衆をある意味で騙し続けている
バットマンこそが全体としては正義を守る善である、という逆説的構図なのだ。
映画が進行していくにつれて、バットマンは一方的にベインに負け続ける。
そのことによってベインとバットマンの相補性は逆転していく。
すなわち、バットマンは財産やバットモビールを奪われ、極秘研究していた
クリーンエネルギー用の原子炉が爆弾に転用されてしまう。挙句の果てに、
ベインとの肉弾戦にもやぶれ、ついには正体も暴露されてしまう。
最後に残った唯一の秘密、バットモービルを超える新兵器の存在によって
バットマンはかろうじてベインの武力に勝つことができた。しかし、結局は、
爆弾を利用して、自らの生死を最後の秘密に仕立てなければならなくなった。
しかし、生死を秘密として残したがゆえに、バットマンは二度と復帰できない。
ゆえに、ロビンがでてくるわけである。
生死の秘密が残ったことで、バットマンはヒーローとして辛うじて救われた。
僕にはそう思えた。
結局、この映画は何を言いたいのだろうか。僕なりに考えるとそれは、
「正義を守るためには力がいる。そして、力の源泉は秘密にされなくてはならない」
ということになる。
これは、あらゆるヒーローだけではなく、すべての民主主義国家がもつ、
ある意味でありふれた主張である。
たとえば、政府は秩序(正義)を維持するために権力を用いる。
政府の権力は、主権者である民衆の承認を受けているという建前によって根拠づけられる。
しかし、政府は民衆にすべての情報を開示しているわけではない。
つまり、民衆は、一度たりとも全貌が明らかになっていない細部の不明な政府という
得体のしれないものを承認しているということになる。
バットマンも同じである。人々はバットマンがなぜすごいメカをもっているのか、
バットマンが誰なのかを知らない。しかし、バットマンが誇る力が治安維持に
やくだっているからこそ、人々は、得体のしれないバットマンを承認している。
このような、ヒーローと民主主義国家を結び付ける共通の特徴こそが、
アメリカ映画で独特のヒーローものが延々と作り続けられている理由ではないか。
ちょっと脱線すると、日本におけるヒーローものは、誰が仮面ライダーなのか
などといった詮索をうけて苦しむことはない。なによりも日本のヒーローものは、
子供向けであり、あるいは子供と一緒に見ている母親向けであり、
アメリカ映画のように、老若男女がマジで観るようなものではないのである。
こう考えてくると、アメリカとバットマンの姿が奇妙にシンクロして見えてくる。
もし、この作品の最後でバットマンが下した結論が、アメリカ自身の願望と
重なっているとすれば、アメリカは幾多の戦争でボロボロであり、正直、世界を
守る立場から足を洗いたいと思っているのではないか?
あるいは、いよいよアメリカも、憎しみではなく、愛を駆動力とする社会へと
脱皮したがっているのではないか?
いずれにせよ、ヒーローものとして出色な作品であることは確かである。
しかし、作品に優れた深みを与えている逆説的な構図が、自分で自分に苦しむ
独り相撲の産物ではないか、という冷めた見方も可能かもしれない。
もっと冷めた見方をすれば、この映画は他人事ではない、ともいえるだろう。