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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

日曜日朝8:00、久々に早起きしてしまう。

映画「シムソンズ」を見に行くのだ。この計画は突然携帯メールに入っていたメッセージからスタートした。

「明朝10:00つきみ野駅」

いつものとおり、極端までに簡素化されたメール。

僕もいつものように返信する。「じゃ、カーリング勉強しとく」

すぐにまた返信が入る。「席の予約お願い」

どうやら勘は当たったようだ。さすがに「つきみ野」まで言われておいてはずすと、あとあと大変だ。


最近妙に、ストレートな映画が好きになってきている。小難しいものを見続けた反動だろうか。

それにしても「シムソンズ」面白かった。


強引=ちょっとばか=ちょっと傍若無人=でもみんなを巻き込める


うらやましき等式の連鎖。考えてみれば、何かに熱くなるって結局、ある種のバカにになるのと同じなんだよね。「何かに熱くなりたい」、「バカでありたい」、そんな少し懐かしい思いがまたよみがえってくる。


とってもありがとう。シムソンズ


見終わって、少し歩く速度が早くなっている。お互いにそれに気付いてにやける。

そんな日曜日。変わり目となるかも。


もう一週間ほど前になってしまうが、話題の映画をついに観てきました。

白バラ


この映画はドイツ人の強靱な思考力を教えてくれる。


裁判の尋問で、裁判官が「国立大学に通って学資をもらっておきながら、ヒットラーにたてつくのはけしからん」という議論の運び方をする。もちろん、ゾフィーや兄は信念を曲げることは無いのだが。

日本の国立大学はまさに、戦時中、軍部の言いなりだった。もちろん、国が出資している以上、国民にとってわかる形で成果が望まれるという考え方もあるとは思うが。


この裁判官の立論は、この映画の中では立場的にそのおかしさが分かるようになっている。しかし、周りを見渡すといろんな所に同じような考え方が見つかる。

・介護者が被介護者に対して思うこと。

・親が子供に対して思うこと。

つまり、「なにかをしてやってるんだから、こっちの言うこと聞け」という思考は結構ある。そして、ゾフィーたちは明確にその考え方を否定する。それは良心、神かもしれないがより超越的な審級を理解しているからだと思う。その審級に照らしたときの自分の感覚を信じているからだと思う。「自分の感覚を信じる」、そうできることではない。どれだけまわりの判断に流されてしまっていることだろう。


だから、この映画はある意味で宗教的である。

連合軍の空爆を天の啓示と捉える独房のゾフィー、ベッドでひとり祈りを唱えるゾフィー、教会にしっかり通っているとかではなく、自分の信じたことを貫くという意味で信心深い。

それにしても、ドイツ人の思考力は立派だ。

日本人は伝統的に「忠義」を誓う武士道の倫理観が支配的だった。そのことはつまり、自分の直接の支配者の言うことに忠実に従うということであるから、その支配者が間違っているかどうかなんて関係ない。むしろ勝ったら正義、負ければ悪みたいな割り切り方をしているようにも思える。ということは、日本人にはゾフィー達が持っていたような超越的な審級がなかったということだ。だから敗戦近くなっても、日本が間違っていたときづいても国を見捨てはせず、その状況の中でいかに死ぬかということを考える。日本とドイツ。どちらの思考が世界に有効なのか。明らかだと僕は思うが。


同じ突き通すなら、自分の考え抜いたことをつきとおしたい。周りに押し付けられたものをつき通すのはイヤだ。だから、僕は選挙にも行かない。「国民の義務だから投票しよう」といわれても、「自分が投じる票の意味が良く分からないから行きません」と答えることにしている。


考えること、分からない時はしっかりと判断留保すること。考え抜いて譲れないものにはとことんこだわること。これからもこの映画を思い出してしっかりやっていきたい。

この映画が公開されたとき、まだ僕は京都にいた。すごい観にいきたかったのだけれど、ちょうどいろいろあってばたばたしていて、ついに観にいけずじまいだった。ついにレンタルで鑑賞。

とても美しいラブ・ストーリーだった。


時間的に昔であること、空間的に田舎であることか混ざって一つの大きなノスタルジーを形成している。現代の都会人の心を揺さぶらないはずがない。


「母さんや僕が望むことなんて考えないで。きみがどうしたいかが大事なんだ。きみがしたいことをするならば、そのために僕が傷つくとしても、僕は耐えていける。」

アメリカの自由観の典型が、上の台詞にうかがわれる。


美しいストーリーに魅せられながらも、ここまでノスタルジーを求めるアメリカの現実に少し考えさせる1本。


これ、なんと言ったら良いかわかんない作品です。どう捉えればいいのだろう?

真夜中の弥次さん喜多さん

ものすごい薄っぺらくて思い出す価値も無いような映画かもしれないし、少し考えさせる作品なのかもしれない…。


脚本家として絶大な人気を誇る宮藤官九郎の初監督作品だが、原作マンガのあやしい意味不明感をさらにナンセンスコメディー風に味付けしてて、観ながら突っ込みを入れているうちに観終わってしまうという不思議な一作になっている。


たいていの人間は、最も自分らしい部分は自分の魂だと思っている。けどこの映画に出てくる魂のように、身体を失った魂って傍から見ると(見えればの話だけど。)みんな同じに見えちゃうのかもしれない。これは「すかすか自我」という現代的な状況にも通じる感覚だ。


「外見より中身」という人は「大事なもの=中身=自我」という構造を念頭に置いているはず。でも、その肝心の自我ってなんだ? その人の話術だったり、話すことだったり、雰囲気だったり、そういった諸々もある意味では外見だ。本当に自我って言えるものって実は正体がはっきり分からない。はっきり分からない以上、「魂=個性をもたない」というこの映画と同じ結論に至る。


じゃあ、「外見より中身」と言っている人の主張って、実はたいしたこと言っていない気がする。


「外見」と「内面」について、どっちを重視しようと、そういった外的な手がかりから相手を判断しようとする構造は変わっていないってこと。手がかり、判断材料とは常に「外的」でしかありえないから。じゃあ、どうするのか? 相手を判断するなんてやめちゃう「判断停止」、またはいったん下した判断を常に変えていく「前言撤回」。うわー。これはまさに泥沼の現○○学?


おちもつかぬままに。この映画と同じような終わり方で…。



映画をたくさん観ていると、時として、至高とも言うべき傑作に出会うことがある。                              アナとオットー

『アナとオットー』2000年。紛れも無い傑作だ。

硬質で緊密な構成が生む気品の味わい。詩的で伸びやかな画面が、心をひきつける。


僕は、この映画を見終わったとき、このあとどんな映画をみてもこの作品を超えるものには出会えないのではないかと感じた。


この作品は、決して何かを考えさせる作品ではない。しかし、一つの完璧に高貴な恋愛映画として、僕の心の中でいつまでもあるスペースを占領しつづけるだろう。


すこしでも多くの人にこの作品に触れてもらいたいと、切に思う。