『白バラの祈り ゾフィー・ショル最期の日々』 | Nothingness of Sealed Fibs

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見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

もう一週間ほど前になってしまうが、話題の映画をついに観てきました。

白バラ


この映画はドイツ人の強靱な思考力を教えてくれる。


裁判の尋問で、裁判官が「国立大学に通って学資をもらっておきながら、ヒットラーにたてつくのはけしからん」という議論の運び方をする。もちろん、ゾフィーや兄は信念を曲げることは無いのだが。

日本の国立大学はまさに、戦時中、軍部の言いなりだった。もちろん、国が出資している以上、国民にとってわかる形で成果が望まれるという考え方もあるとは思うが。


この裁判官の立論は、この映画の中では立場的にそのおかしさが分かるようになっている。しかし、周りを見渡すといろんな所に同じような考え方が見つかる。

・介護者が被介護者に対して思うこと。

・親が子供に対して思うこと。

つまり、「なにかをしてやってるんだから、こっちの言うこと聞け」という思考は結構ある。そして、ゾフィーたちは明確にその考え方を否定する。それは良心、神かもしれないがより超越的な審級を理解しているからだと思う。その審級に照らしたときの自分の感覚を信じているからだと思う。「自分の感覚を信じる」、そうできることではない。どれだけまわりの判断に流されてしまっていることだろう。


だから、この映画はある意味で宗教的である。

連合軍の空爆を天の啓示と捉える独房のゾフィー、ベッドでひとり祈りを唱えるゾフィー、教会にしっかり通っているとかではなく、自分の信じたことを貫くという意味で信心深い。

それにしても、ドイツ人の思考力は立派だ。

日本人は伝統的に「忠義」を誓う武士道の倫理観が支配的だった。そのことはつまり、自分の直接の支配者の言うことに忠実に従うということであるから、その支配者が間違っているかどうかなんて関係ない。むしろ勝ったら正義、負ければ悪みたいな割り切り方をしているようにも思える。ということは、日本人にはゾフィー達が持っていたような超越的な審級がなかったということだ。だから敗戦近くなっても、日本が間違っていたときづいても国を見捨てはせず、その状況の中でいかに死ぬかということを考える。日本とドイツ。どちらの思考が世界に有効なのか。明らかだと僕は思うが。


同じ突き通すなら、自分の考え抜いたことをつきとおしたい。周りに押し付けられたものをつき通すのはイヤだ。だから、僕は選挙にも行かない。「国民の義務だから投票しよう」といわれても、「自分が投じる票の意味が良く分からないから行きません」と答えることにしている。


考えること、分からない時はしっかりと判断留保すること。考え抜いて譲れないものにはとことんこだわること。これからもこの映画を思い出してしっかりやっていきたい。