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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

普段の土曜日といえば、たいてい近くの映画館のレイトショーに行くのが僕の習慣。

でも今日はあいにく日中にもち銭を使い果たしてしまった。


あえなくテレビで放映中の『ラジオの時間』を観る。


実はこの映画、公開時に見たことある。もう9年前か。ふるびないなぁ。


ほんとよく出来た作品だ。三谷監督の考える脚本は、瞬間の積み重ねが笑いを生むという、とても高度に練られた構造をもっている。伏線の張り方がとても巧妙だ。いつも感心してしまう。

映画はともかく、僕のいつもの思考パターンに近づけていくと、こんな風になる↓


人間には、「この瞬間のために頑張ってきた」と思える瞬間が来ることがある。そんな時、人間は「この場所に入れてよかった」とか「こんなんやっとってよかった」と思うのだ。それはまさしく、過去の人生のあるときを、今の瞬間のための「伏線」だったと思うというのと同じこと。


人生はよく舞台に例えられるが、それは「演じる」という側面のほかに、この過去の人生を「伏線」として捉え直す視線も類比できるからかもしらん。


三谷さんの作品は、多くの登場人物がそれぞれの味を出しているところがいいと思う。

人には、輝いている瞬間がある。それが長い人と短い人がいるのが悲しいけど。


この映画は、ある意味で登場人物が輝いている瞬間だけを描いている。

人間なんていつも輝いている訳ではない。その意味で、この映画はとても「優しい」。

だから、この映画のカメラの視線は、みんなが仲良くやっていくにはどうしても獲得しなくてはならない視線じゃないかと、僕は思う。


『ラヂオの時間』見事です。


たまには、映画を離れて、思いを書いてみよう。


シュバイツァー博士といえば、アフリカ、ガーナで献身的な医療活動をし、ノーベル平和賞を受賞している偉人である。

密林の聖者と呼ばれる一方で、アフリカ現地では植民地主義の先鋭という評価を受けいている。

また、医師としてだけでなく、神学者、オルガン演奏家としても一流の業績を残している。


でも、僕は、彼の行いを評価する試みには関心を持てない。

僕にとっての彼は「30才までは自分のために使おう。それ以降は他人のために使おうと決断する勇気を持った人」としてしか存在しない。

たとえば20代半ばで、彼が死んでしまったら、彼は自分の生涯をどう振り返るのだろうか。


僕は、自分のやっていることの意味を考えずにはいられない。いや、仕事とか人付き合いとかで、意味を考えないようにしていることもたくさんある。でもそういいった自分の中で意味を考えていない行いについては、自分が責任を負っているという感触がもてないのだ。

自分が責任を持つべきと考える事柄については、とことん考えてから行いたい。自分にとって大切なことほど慎重に臨みたい。これが僕の願いであり、意志だ。


シュバイツァーの決断は、時として「汝自身を知れ」というデルフォイの神託を思い起こさせる。

「自身」を知らずに、何ができるというのだろうか。「自身」を知らないものの為す事柄を行為と呼べるのだろうか。「自身」を知らないものが、自らの行いの責任を取れるのだろうか。


「自身」をしらないものとは、「赤子」といっても良いだろう。「赤子」である人間の行いの責任は、「赤子」では取れない。「赤子」は「親」である「神」に責任を取らせるのである。これはいわゆる「他人任せ」と大きな違いは無い。行き当たりばったりの行いが数々の問題を引き起こしている世界の現状は、まさに示唆的である。


シュバイツァーは、30才までを「自身」と「世界」を考えることに費やしたのではないかと思う。そして、たどり着いた軸「生命への畏敬」を起点に彼自身が責任を持てる行いをしたのではないかと思う。


責任感だけで物事をなしてはならない。「責任」を取れる「自身」をしっかりと捕まえてから物事を為すべきだ。僕はそう考えている。そして、「自身」を捕まえることにしばらくは没頭したいと思っている。


その手段として「映画」がある。



音楽をテーマにしたスウェーデン映画。

感動的な音楽もさることながら、キリスト教の呪縛についていろいろと考えさてくれる佳作だ。


そもそも、キリスト教の歴史では、一度音楽は排除された歴史がある。音楽の生む陶酔感は悪魔的なものとして避けられたのだ。

しかし、ケルト・ゲルマンの土着信仰を押しのけて布教していく段階でキリスト教は土着神話や音楽を内部に取り込まざるを得なかった。そのことによって、初めてキリスト教は世界宗教たりえたのである。


キリスト教は基本的に呪縛の宗教である。この映画にかかれているように、キリスト教は自由さを嫌う。最初はもっとも歓迎していた牧師が最後には最大の反対者になるところとか、性の異常なまでの抑圧なんかも人間を押さえつけ、狭量にしてしまっている。


「音楽とは聴くことだ」という指揮者の美しい言葉は、「日常に耳を澄ます」という村上春樹に頻出するテーマを思い起こさせる。

「個人が自分の声を見つける」ことと、「周りの声を聴く」ことと、「ハーモニーを作る」ことという、指揮者のメッセージはあたかも哲学者の説く社会理論のようだ。

それに比べ、キリスト教の牧師はいつのまにか、「他者の声に耳を傾ける」事を忘れてしまったようだ。あらゆることをドグマの観点から判断するという姿勢は、なまの事実そのままを見つめないことにつながっている。


決して、美しいだけでない。人間の抱える苦悩、社会的な病巣といった負の部分にもしっかりと目を向けた、力強い映画だったように思う。

『タイムレスメロディ』という作品をビデオで観た。1999年の日本映画。
『タイムレスメロディ』

「ピアノ、無料でゆずりますだってよ」
「置く場所ないよ」
「ある」
「どこ」
「お店におけばいいじゃん」
「マスターに怒られちゃうよ」
「意外と気づかないんじゃない。」
「気づくって」
「『かわもとさん、これなにかしら』 『見て分からないんですか。あたらしいビリヤードの台ですよ』 『あーよかった。私はピアノかと思ったわ』 『よく見てくださいよ。ほら。鍵盤が白と黒で・・・』
「わかったよ」
「だめー?」
「一応マスターに聞いてみるよ」

って会話にノックアウトです。

この一連の言葉のメロディーは日本映画では珍しいユーモアの成功例として貴重だ。
もっと、「笑い」を。

歌う詩人、ボブの伝記映画をみにいった。
長い。約4時間。でも濃い。
昨年の11月頃、日本映画『アイデン&ティティ』を観て、はじめてボブ・ディランという存在を知った。彼の詩の世界が結構おもしろいと思ったのはその時が初めて。
12月末からボブの伝記映画が公開と聞いて、これは「天啓」に違いない!と吉祥寺まで行ったわけです。

ボブは常に「他人に理解されることを拒み続けた」、あるいは、「他人の理解するボブ像を裏切り続けた」人物といってもいいと思う。ボブはフォーク界のスターとなることで、学生運動や公民権運動の象徴として祭り上げられることを特に嫌ったようだ。インタビューでのやりとりで、記者たちの質問をはぐらかせながら答え続けるボブの姿が印象的だった。

映画としては冗長な気もする。しかし、ボブという人間を一つの側面で決めつけたまま語らないためにはこの長さが必要だったのかもしれない。

僕自身、ボブの音楽のサウンド面はいまいちな気がしないでもない。でもその詩の世界はさまざまな解釈を許す奥深さを持っていると思う。
「単純化するわけでもなく、定義づけるわけでもなく、ただ、友だちになりたいんだ」

「人を理解する」ということは本当は難しい。
実際には、相手を「単純化」することであったり「定義づけ」することであったり、相手を自分の枠に当てはめることにとどまってしまうことがほとんどではないか。人間は「分からない」状態にとどまることを不得意とする生物だから、ついつい分かろうとしてしまう。その結果相手の多様な側面を捉え損なってしまう。
ボブは言う。「ただ友だちになればいい。」

相手に対する自分の理解が、常に不十分、あるいは間違いであるということを予測しながら、つまり相手を根本的には自分にとって不可知な存在として認識しながら、単に仲良くする。

もちろん、ボブの詩に対する上記の僕の解釈も、ボブの一面にすら届いていない可能性は十分にある。
だから、他の考え方を思いついたら、ここに書き込んでいこうと思っている。

とりあえず、ブログ開設第一弾。こんなところでおひらき。