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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

土曜日は会社の同期で花見に行った。集合時間が夕方だったので、それまでの時間に渋谷でちょっと気になっていた『好きだ、』を観にいく。


好きだ、

すごく静かな映画。台詞が少ない。おまけに、あらすじを書いてしまったら5行で終わりそうなぐらい。


「好きだ、」の一言がいえなくて17年経ってしまった男女のお話。あ、1行でいってしまった…。


基本的に「間」を描こうとしているのは分かる。実際の人間なんて、どこかの脚本みたいな気のきいた台詞は出てこないし、ある意味とてもリアリティを感じる。

全体的な雰囲気は悪くない。


でも、一つ気になることがある。台詞が少ない分、俳優の横顔をアップで映すシーンが多いことだ。


日本の名匠小津安二郎監督は「間」を描くことにあまりにも長けていた存在だった。小津のすごさは、ほとんど顔のアップを使わないで「間」というよりむしろ「場」を描いてしまっていたことである。小津の映画では『好きだ』と違って、台詞がぽんぽんでてくるけれど。


だから、僕はこの映画を観たとき、「台詞の少なさ=沈黙の多さ」を「顔への接写」で中和しているという印象を受けた。それはそれで問題ない。


むしろ、現代の人間の方向性として、「会話=情報の交換」が途切れた時に、「何かを良く見つめてみる=感覚の強度を求める」という現代人が良く使っている逃げ道の図式をこれほどまで見事に観客に伝えている映画はこれまで無かったように思うのだ。


だから、この作品で小津のように「場」を描こうとしなかったのは正解なのだろう。もし、沈黙が訪れる「場」を描いてしまったら、それは映画監督だけでなく、観客にも「辛い」映画になるはずだ。


なぜ、僕を含めた現代の人間は「沈黙」を畏れるのだろうか。ぼくは、ある1人を除いて相手とのいるときに沈黙が訪れるとついつい饒舌になって、くだらない内容のおしゃべりをしてしまう。


ある意味、脅迫的に。なんでだろうか。また一つ考えるべきことが増えた。

新年度のせいか、朝の電車が混んでいる。

電車の時間は、本を読むかなにか聞くかしないともったいない。

でも、あまりに混んでいるので本を開くどころではない。


それでも今日ついに岩井克人の『ヴェニスの商人の資本論』を読み終えた。

時間かかかりすぎ。


岩井さんはちょっと感傷的な部分でのべている文句が気に入る。

「自分の目で見たことをガッチリ背負って戻る」

「再び会わずに終わりながらもふと、その言葉を思い出させる人の声のような、不思議な響き」


なんでか知らないが、大学生になってから、「ひっそり」とか「誰にも知られないで」という

ことに魅力を感じるようになった。けっして人間としてあまりいい傾向とは思わないけれど、僕にとっては大事な欲望であり、衝動だ。いつのころからか、自分の経験した事実の意味を、その全ての意味を理解し、自分の存在の痕跡を残さないように消滅する。それが僕の願いになっている。


まだ週半ばかと思うと多少寒気がするけど、後輩が入ってきたのでダラダラとしてもいられない。


明日も早起きです。



夜遅くなると、小田急線から横浜線への接続が悪くなって、20分ほど待ち時間ができる。


そういうときには大体飯を食いに行く。早くて安いところ。


今日は「かつや」なるファーストトンカツレストランに入ってみる。

カウンターに座ってカツどんを頼み、周りをみわたすと結構込んでいる。僕の両隣にもお客さんがいた。


でてきたカツどんをなんとなく口に運んでいたのだが、ふと右隣を見ると、40台の女性が、分厚い紙の束と文字通りにらめっこしている。

そして、ページの頭の部分に「天秤座の運命」という文字が・・・見えた。


その女性は漬物だけで粘りながら、一枚一枚丁寧に回答らしきものを書き込んでいる。

明らかに、そっち系の人だ。しかもよくみると、相当分かりやすい変人オーラを出している。身体を前後に揺らしながらカウンターに置いた占いシート(?)につぶやきながら、たまに「なにか」が降りてくるのを待つしぐさも。


というわけで、変な人がいて、飯を食べて、よく分からん深夜でした。

新年度も頑張っていきたいです。

この作品は、実際にルワンダでおこった大量虐殺を描いている。とても重たい映画だ。

ホテル・ルワンダ


ずでにルワンダの紛争は過去の出来事だし、いまさらどうしようもないのであるが、とはいえこの映画を見ることでいろんなことを考えることができる。


ふと思うのは、優しさでは狂気に勝てないということ。いつの世も、結局、世界を動かしているのは、狂気と凶器をもったやつらだ。優しさはいとも簡単に狂気に圧倒されてしまう。


狂気と対抗するには、「怒り」やもう一つの「狂気」を自らに課すというジレンマに耐えなくてはならない。

ガンジーの行動でさえ、一種の「「戦い」という意味をもっていた。戦いを選ばない「優しさ」は死んでしまうしかないのではないか。


「いいやつほど、先に死んでいく」 ナチスの収容所を経験したユダヤ人のえぐられるように渇いた格言。


その厳しい意味を理解すると、世界が「愚か者」に動かされていることを痛烈に思い知らされる。

沢山の虐殺されたひと、少数の虐殺する人。狂気が力を持つと恐ろしいことになる。でも力を求めるのがそもそも「狂気」ぐらいしかない。


絶対にしてはならないのは、「優しく」倒されてしまうということに「負けるが勝ち」と同様な価値の変換を適用すること。「優しくさゆえに負けるjことが「いい」ことであってはならない。このとき「優しい人」は、めいっぱい自分の無力さに打ちひしがれて倒されねばならない。価値転換を行うことによって、自分の気持ちを楽にするのではなく、優しさのはらむ「弱さ」を自覚しながら敗れ去ること。この時点で、ある意味「優しさ」は「強さ」へとつながる。


狂気の支配する恐ろしい事態に自分がまきこまれたとき、どうするか。

そして、狂気はなぜ起こってしまうのか。考えねばならないことは尽きない。

早くも社会人となって一年が過ぎようとしている。

振り返ればあっという間であり、思ったよりも不自由であり、社会人となるというよりは労働者になったのだと思い知った一年間だった。


ただ一つ、僕の心が劇的に変わるということがなかったのが悔しい。

それは、僕がいろんな知識に触れる努力を怠ってきたからだし、むしろいろんなことを「あわせよう」と心を砕いていた為ではないかと思う。


生きるということは本質的に自分でないものと自分を交換することで成立している。食物、両親が存在しなければ、僕がこのようなデジタル信号を吐き出すなんてこともありえなかった。自分で無い食物を食べることで自分自身に取り込み、そして用が済めば自分でないものとして体から出す。知識や人の思いだって同じ扱いを受けている。


だから、他のものに「あわせて」いきるというのはかなり自然だと思う。おまけに、「あわせる」ことを要領よくやっていけば、食うに困らないという恵まれた社会に僕は生まれた。だからサラリーマンをすることは、決して悪くないし、仕事だって意義深いと思っている。でも、それでも、時々ふと、「あわせる」という動詞を「流される」という動詞に読みかえてしまう。それも何に流されているのか良く分からないままに。


結局、人生という数直線状で年齢という変数が一方方向にのみ不可逆的に進行する以上、どんな存在も「流され」ている。でも、なにに流されているかを正確につかんでいる人って少ないと思う。僕は社会人になったとき、いろいろあたらしく「僕を流しはじめる」ものをしっかりと理解しながら流されようと決意した。でも、冒頭にもあるように「あっという間だった」と感じているということは、僕の感覚は自分の思うより鈍感で愚かだったのだ。


劇的な心の変化を、ものの見方の変化を、今までぼくに映し出されている世界ががらっと様相を変えるあの瞬間の体験を、僕はもっと味わいたい。そのために、来年は、もっと時間を大切にして、考えを練り、いろんな知識やイデアに触れ、それに精一杯反応していけるよう、準備を怠らないようにしたいと思っている。


世界を理解しようと躍起になる。僕が向いているかどうかは別として、好きなものはしょうがない。やれるとこまでやってみないと、後悔すら出来ない。やったるで!と思う春分の日でした。