早くも社会人となって一年が過ぎようとしている。
振り返ればあっという間であり、思ったよりも不自由であり、社会人となるというよりは労働者になったのだと思い知った一年間だった。
ただ一つ、僕の心が劇的に変わるということがなかったのが悔しい。
それは、僕がいろんな知識に触れる努力を怠ってきたからだし、むしろいろんなことを「あわせよう」と心を砕いていた為ではないかと思う。
生きるということは本質的に自分でないものと自分を交換することで成立している。食物、両親が存在しなければ、僕がこのようなデジタル信号を吐き出すなんてこともありえなかった。自分で無い食物を食べることで自分自身に取り込み、そして用が済めば自分でないものとして体から出す。知識や人の思いだって同じ扱いを受けている。
だから、他のものに「あわせて」いきるというのはかなり自然だと思う。おまけに、「あわせる」ことを要領よくやっていけば、食うに困らないという恵まれた社会に僕は生まれた。だからサラリーマンをすることは、決して悪くないし、仕事だって意義深いと思っている。でも、それでも、時々ふと、「あわせる」という動詞を「流される」という動詞に読みかえてしまう。それも何に流されているのか良く分からないままに。
結局、人生という数直線状で年齢という変数が一方方向にのみ不可逆的に進行する以上、どんな存在も「流され」ている。でも、なにに流されているかを正確につかんでいる人って少ないと思う。僕は社会人になったとき、いろいろあたらしく「僕を流しはじめる」ものをしっかりと理解しながら流されようと決意した。でも、冒頭にもあるように「あっという間だった」と感じているということは、僕の感覚は自分の思うより鈍感で愚かだったのだ。
劇的な心の変化を、ものの見方の変化を、今までぼくに映し出されている世界ががらっと様相を変えるあの瞬間の体験を、僕はもっと味わいたい。そのために、来年は、もっと時間を大切にして、考えを練り、いろんな知識やイデアに触れ、それに精一杯反応していけるよう、準備を怠らないようにしたいと思っている。
世界を理解しようと躍起になる。僕が向いているかどうかは別として、好きなものはしょうがない。やれるとこまでやってみないと、後悔すら出来ない。やったるで!と思う春分の日でした。