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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

不夜城で歌いまくって疲弊したノドに、ようしゃなく風邪ウイルスが入り込み、連休は予想外の養生スタートとなってしまった。反省。しかもあとから知ったのだが、歌舞伎町で歌う姿が上司に目撃されていた。恥づ。


養生=読書と相場が決まっている。ほかにやることなどない。


しようもなく以前から気になっていた小説を手に取った。

柴崎友香著「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?」。

普段は女性作家の作品をあまり読まないのだが、柴崎友香だけは例外である。「きょうのできごと」を初めて読んだ時からも、なつかしい関西弁の台詞もあってか、すっかりお気に入りになっている。


やばい。今作にも。もうれつ感動してしまった。


柴崎友香のもつ視線は、現在数多いる小説家のなかで、最も鋭敏で柔和だと思う。

あらすじを言ってしまえば、ものすごく簡単にいえてしまう。

でも、この作家のすごさは、ストーリー展開にはない。むしろ、ゆっくりと流れていく時間を濃密に過ごすことに全てを賭けている。


「毎日がこんなにおもしろいしこんなにきれいやのに、それを何もないってどうして感じるのかな」

この本の作者は、ちょっとしたことを、いとおしく見ている。かっこいい。それができる人ってかなり少ない。

この感覚をより多くの人が身に付ければ、世界はどんなにか暖かくなることだろう。


瞬間を楽しむ、その瞬間の連鎖こそが時間となる。時間は小説になる。


この小説には日常をいきいきとさせる魔法がある。


たしかに最近の僕は、従来の物語作家のような大きな目標へまい進する姿勢ではなく、柴崎友香のような日々の日常を楽しむ姿勢に共感している。

ただ、そろそろその一歩向こうに見え隠れする世界が言葉にならへんかなとも思っている。


その意味で、この小説は僕の精神的な部分にも大きく影響を与えそうだ。また何度も読み返すことだろう。

keshigomu TSUTAYAで「記憶は消えても愛は消えない」キャンペーンなるものが開催されている。

記憶喪失や、記憶消失などと愛をテーマにした作品のコーナーがもうけられている。

対象作品は『エターナル・サンシャイン』、『バタフライ・エフェクト』、『50回目のファーストキス』、それと『私の頭の中の消しゴム』。


『エターナル・サンシャイン』は劇場で見て、とてもいい作品だと思った。『バタフライ…』と『50回目・・・』はビデオで借りてみたが、どちらも個性があって面白かった。(詳細な感想はみんなのシネマレビューに投稿してます。)


キャンペーン最後の作品として『私の…』を見たのだが、正直4作品の中では一番ダメだったと思う。


なんでか。それは、問題をどうにかして解決しようという姿が感じれなかったからだと思う。

人間の悩む姿が伝わってこなかった。


結局、この作品では、記憶が消えて愛も消えてるとしか思えない。それは誰もが思いつく単純な事実だと思う。でも、例えそれが事実だとしても、愛は消えて欲しくないと願うのが人情だし、その願いと現実のギャップを目の前にしてどうすればいいのか一生懸命考えるのが人間の一番良い所ではないかと僕は思っている。けどこの映画、その辺が全く伝わってこない。


記憶が消えて愛が消えるのがある意味当然である以上、記憶があって愛が消えること(要は普通に振られること)のほうがずっと悲しくないか? と僕は思ってしまう。どうにかできることに失敗するほうが悲しい。


やはり、好きな作品を語るより、嫌いな作品を語るときは歯切れが悪くなる。

そこをあえてズバッと言えば、この映画は僕にとってはくだらない映画でしかなく、見たことで何ら新しいものに出会えなかった。それだけのこと。


韓国映画、結構最近ダメ作品が多い。ブームが起きたころはもっと質の高い映画多かったけど・・・。

ちと行く末が心配です。

入社後ずっと教育担当として指導してくれた先輩が異動することになり、金曜日、送別会があった。

お子さんを2人も抱えながらばりばり仕事をこなしていくすごい女性だった。お世話になりました。

僕が幹事をしたのだが、選んだイタリアンのお店を先輩がたが気にいってくれて嬉しかった。


11:00まで送別会があって、そのあとは大学時代のサークルの先輩・同期で東京に就職した奴らと再会。

本当は僕以外の3人が飲んでいる店に合流するはずだったのだが、酔った僕は新宿5丁目付近で道に迷い、靖国通りぞいまで迎えにきてもらうという失態ぶり。だって伊勢丹が多すぎて、地図の伊勢丹がどこに当るのかサッパリ分からんかったのだ。


合流後はたいしたことも話さずに、即愛唱曲メドレーに突入。歌舞伎町の広場で熱唱してきました。気持ちよかった~。通りがかりの人に拍手してもらったし。


約1時間半ほど歌ったあと、すでに電車もなく、しょうがないので近くのバーに男4人で押しかける。僕ともう一人はほとんど寝てた。記憶なし。1つ上の先輩が酔った勢いで、やたら食べ物をオーダーしまくり、眠いのに食わされる。最悪。眠いし、食いすぎでだんだん気持ち悪くなるし、まわりはおしゃれなカップルばかりなのに、雰囲気壊しまくりで店員に注意されるし。完全にグダグダなサラリーマンでした。


なかば追い出されるようにバーをでたのが3:00ごろ。バーからでたところの歩道で、第二回愛唱曲メドレー開始。今回は30分ぐらいで切り上げ、「琵琶湖周航の歌」を歌いながらカラオケ店へ。店に入りながらも4人でハモリ続け、店員とはアイコンタクトのみで部屋を頼む。指定された地下1階の部屋に入ってみると、なぜかVIPルームで、みごとぼったくられていた。


みんなで寝ぼけながら90分間歌いつづけ、店を出たのが5時ごろ。新宿の歩道には不夜城で一日を過ごしたサラリーマンや学生らしき人がぎっしり。さすが新宿。それと同時に複雑な気分になる。この国はいったいどんな国なんだろうと。


歌を通してつながっている仲間って、いい。会った時も、思い出話や今の現状について情報交換するなんて事はせずに(そういうことはたまにすると楽しい)、ただ歌っていればそれだけで楽しい。現在を楽しむことができる。


幸い僕は年の近い、音感のいい仲間に出会うことが出来た。単なる空気の振るわせ方の違いが重なると、美しく心地よいハーモニーになる。


多分、この日のことは一生忘れない。


家に帰ったのが午前6時半。土曜日をほとんど寝たおしたのは言うまでもない。

4月から後輩が入社してきた。


めっさ落ちつかない。そわそわしっぱなし。負けられへんし。



そんなことはさておき。


ふと思い出す。


誰かを好きになるって、結局、その人のせいで落ち着きをなくしたりすることじゃなかったっけ?


特に好きになりたてのころ。


その人の言葉や、しぐさにいちいち振り回されていたのが懐かしい。


振り回されるってなにか。要は僕の予想を心地よく裏切ってくれるということ。


僕とは違うあり方で存在する世界の原点を見つけること。


よく分からない本を分からないなりに頑張って読んでいくのに似ている。


「よく分からないけど、面白そう」


恋愛だけでなく、あらゆる知性のモチベーション。


ミソは「分かったから面白い」のではなく、「ようわからへんけど、面白い」というところ。


「分かる」前に伝わる「面白さ」でないと人をひきつけることはできない。


おそらく、そういうなぜかわからんが伝わってくる「面白さ」こそが、人間を駆動している。


僕も含めて。


以上、とりとめもないままに。

村上春樹短編集『レキシントンの幽霊』を読んだ。


「めくらやなぎと、眠る女」のなかの一節が気に入った。


「やらなくちゃいけないことなんて、どこにもひとつもない。でもここにだけは、いるわけにはいかないんだ。」


ボブ・ディランの歌に「やりたいことをやるだけさ。だからうまくいくんだよ」という美しい詞がある。


一見、春樹の文章とは正反対のことをいっているように見える。


でも実は、春樹とディランは同じことを互いに反対の立場から表現しているだけなのだと思う。


ディランの言う「やりたいこと」とは、もっとも正確な意味で「自分のやりたいこと」を指している。

ようするに、あらゆる「他人が僕に望むもの」を退けて、純粋に自分だけの感情を抽出したとろで

現れるのが「自分のやりたいこと」なのだ。


ディラン自身、世間から貼られるレッテルをとことん嫌がった。それは、自分が好きでやっている音楽が、世間的になんらかの意義をもつことで、「~のために音楽をやっている」という考えかたのパターンに収まってしまうからだと思う。


だから、春樹の「やらなくちゃいけないこと」とディランの「やりたいこと」は次のように言い換えられる。。


「やらなくちゃいけないこと」とは客観的にみてやらねばならないこと。

「やりたいこと」は主観的に見て主体が端的にやりたいこと。


この世の中には、あまりにもおおくの事物が満ちていて、時に気が遠くなりそうになる。そのなかで、ひとつだけ確かなのは、絶対的に「やらねばならないこと」として定義できる事柄は存在しないということ。

「僕が存在している」という感覚以上に重要なことなんてない。そして、その感覚は「やる」「やらない」というカテゴリーには入らない。端的に事実として成立しているのみ。


「本当にやらなくちゃいけないことなんて、どこにもひとつもない」


この種の闇を理解しない人とは、僕は関わりたくない。奴らは、充実した外見をしたただのスッカラカンなのだ。奴らが、狂ったり、暴れたり、世界を動かしたりする。


この種の闇を理解する人は、一見うちろむきだけど、中身はたくましい。彼らはなにか大きなことを成し遂げるなんて出来ない。でも、彼らこそが世界を守っているのだ。


僕はそう思っている。