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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

あっという間に3連休が終わってしまった。


今回の3連休の初日は職場のサッカー部でフットサルの大会に出場することに。余裕で遅刻していって普通に顰蹙を買う。すいません。。。


ものすごい日差しの中、4試合を戦うと、もうへとへと。ついに念願の初勝利をあげたのはよかったけど、なにしろ暑かった。しかも試合中に転んで流血。久々にひじに擦り傷なんて作ってしまう。なんか小学生みたいだった。


試合が終わって、みんなで冷やしうどんを食べに行く。結構おいしかった。穴守稲荷もなかなかいい。食べてる間に雷が鳴りはじめたので、皆さん家路に。僕は横浜経由で帰ってきました。途中、数年ぶりに横浜のHMVによって映画『タイヨウのうた』サントラを購入。18歳YUIの音楽に心惹かれました。


自分より若い人の発信するものに魅せられるというのは複雑な心境です。僕はどれほどのことを発信できているのだろうかと自問してしまうので。今は普通のサラリーマンやってるけど、仕事orプライベートで30歳ごろまでにはなにかを発信できる存在になれるよう、リアルでクールな努力を続けようと自戒しました。


サッカーから戻ってからむさくなりすぎた髪におさらばするために散髪に行く。小学生の頃から行ってるところだけど、この年になっていっても小学生みたいな髪型に切られるのはなんで~? しょうがないので、自分の髪型にまつわる悲しみを癒すために『ミッション・インポッシブル3』のレイトショーに紛れ込む。大ピンチにジーンズはいてるトムをみながら、もう少し動きやすい服装あるんでない?と突っ込んでしまった。でも、しっかり2時間楽しめてなんとなく気分よくなりました。


翌日起きると足が予想通りあまりに激しい筋肉痛。痛いだけでなく、すこしでも力を入れると「つる」。全く動けないので、仕方なく布団から出ないで、眠ったまま本読み。本日のご飯は親が差し入れてくれたバナナ3本(朝昼晩で)。でもおかげで本が4冊と、映画が2本観れました。


今回読んだのは片山恭一さんの文庫本2冊と、D・ハンドラーの最新作『殺人小説家』、西田幾多郎『善の研究』。最近小説ばかり読んでるので、そろそろガッチリお堅いのにいかないと頭がさびそうです。映画は『汚れた血』と『ウェイキングライフ』。それぞれかなり多くの刺激をもらいました。レビューは「みんなの・・・」に近日中に投稿しときます。


こうして振り返ってみると、行動範囲が狭い割には妙に充実した3連休だったようで。YUIの歌を聴きながらこのへんで失礼します。

今日は、午後、急に別の部のしかも別の課の上司に言われて飲み会に招集された。

いうまでもなく僕は、この手の飲み会が苦手である。


基本的に、部下を呼び出して説教したいと思うような輩に、面白い話は期待できない。

部下を呼び出しておいて部下の話を聞こうという人であればまだ良い。

結局自分の話しかしないし、それをみんなうんうん聞いているから、結局その人自身はいつも同じ話をすることになる。これがもっとも最悪なパターン。

たまに、こちらから、質問してみると、妙に専門的な話を持ち出して煙にまく。


「ビジネスマンは自分の担当業務だけ見ていてはいけない。発想を豊かにしなくちゃいけないよ。」

「俺は1年前の自分はケツが青かったと今思うんだよね。自分を客観視できるかは大きな境目だよ」


この種の発言は、内容として陳腐なだけでなく、「そうですね」としか言いようのない、いわば「正しい」という烙印が既に押されてしまっている発言である。つまり、その上司が自分の力でたどり着いた言葉ではなく、なんとなく日本のビジネス界にはびこっているモラルを言葉にしてみただけに過ぎない。


こんなの、何回聞かされてもつまんないし、「また同じこといってるよ、進歩ねぇな」というのがこちらの本音である。正直、聞いた振りをしながら「そりゃあなたはご自分を客観視したほうがいいですよ」と思ってしまう。


順番にぶったぎると、ビジネスマンは~という形の言説は単純にビジネスマン以外のマインドを想像できない。その時点で発想の範囲が狭い。ビジネスマンになってビジネス書読んで「すげー」とか言ってるやつは基本的に考えたりていない。あの手の本の内容ぐらい普通に考えれば想像力でわかるでしょ! 金を払って得なくてはならない情報では決してないと僕は思う。だからぼくはあまりビジネス書(とくにすこし思想的な(=心意気的な)話がおおい本)なんて読み始めたら負けだと思う。


客観的という言葉を、慎重に使わない人も、残念ながらまだ考えが足りない。その人が客観的だと思っている見方とは、客観的見方という名前の主観性である。そんなことぐらい、誰もがしっていることだと思ってたけど。


こういうあまり尊敬できない上司が中枢にいるってどうなのだろうか??

今はよくても、あと数年後、数十年後を考えるとすこし寒気がする。


すこし、酔った勢いで毒舌になってしまった。他人が漏らしている愚痴を聞くほどいやな気持ちになることもないよね。失礼しました。

後先考えずにとりあえず、はじめます。


毎朝持っていく文庫本の選択で迷うようになったら、そろそろ注意が必要。
今日はふと大江健三郎を手にしてみた。おそらく手にするだけなら去年から数えて8回目ぐらいだろうけど、いつも結局軌道に乗らないまま、読みきらないまま次の本にむかってしまう。


大江健三郎の文章はまさに「ある世界の体験」をせまってくる。彼の文章を読むことで、その豊かな強烈過ぎるイメージの連鎖を前にして、なにかを体験せずに逃れることとのできる人がどれほどいるだろうか。


例文:妻は諒解をもとめるように、再びのけぞって僕を見つめた。その異様に赤い眼の、いかにもあからさまに絶望的な無力感の印象が僕をぎくりとさせた。
(『万延元年のフットボール』新潮文庫 P.21)


彼の文章は執拗な密度を持っている。
僕はいつもながら、その執拗さが喚起する「体験」に長時間身を浸すことができない。理由はただ一つ。いやおうなく、なすすべもなく巻き込まれている自分がイヤになるからだ。


今日も結局20分ほど付き合ったあとで、本を閉じた。電車も込んできたし。
そして突然、見知らぬおばさんにじろじろと見られて、「みせものじゃねぇぞ」といって自殺してしまうシーモアを思い出し、妙に共感してしまった。


今、朝のことを思い出しながら、サッカー日本代表が奇妙な負け方をした後遺症を抱えながらぐだぐだと誰にとっても意味を持たない文章を書いているわけだが、こういうときにはきっちりとした理論書に救いを求めるしかないのだと経験則が語る。


なにかを考えることによってしか、僕は治癒しない。

だから明日はとりあえずアウグスティヌスとかにしてみようと思っている。

そのうち、堅いのに飽きたらサリンジャーとかにすがるのかな。

大江さんはやっぱりしばらく時間がかかりそうだ。


しばらく映画のレビューを載せれてないが、見ることは見ているので、またちかぢかご報告します。


では。

5/20日、大学時代のサークルの先輩の結婚式に出てきた。


場所は日比谷の帝国ホテル。


もともと式というのはとても気を遣うもので、そういうのが苦手な僕は気疲れしてしまってどうしようもなかった。とりあえず、余興の歌をうまくやりおおせたのだけはよかった。


結婚式2次会は新橋。

新郎、新婦の友人が80名ほども集った。


大学の先輩である新郎は、とても交友網がひろく、当日も新郎側友人、新婦側友人からそれぞれ余興の出し物があり、どれもとても凝っていて面白かった。


ほとんどの人が知らない人だったにもかかわらず、楽しめた。こんなパーティーも珍しいと思う。


話してみると、どの人も個性的で面白い人ばかりだった。やはりレベルの高いところにいるやつらは、面白い人間が多い。


帰り道で、大学時代の先輩と一緒になり、いろんな話をした。ある人が優秀だったりすごい才能がもっていたりしても、それを認めるのは周りの人間なのだとか。周りの人間は往々にして、正しいことを認めようとしたがらないとか。


人間が才能や能力を認められるには、認めてくれる周囲の人間が必要である。

そして、レベルの高い人が集まる場所には、他人の才能を認められる人たちがいる可能性がたかい。


人生には環境の要素がかなり大きな影響を与える。良い環境に身を置くにはそれなりの努力(勉強)が必要になる。つまり、環境は自分次第で選べる。


そのあたりで、僕はあんまり真面目にやってこなかったなぁと思う。ま、これからです。


というわけで、たくさんの刺激をもらった一日でした。

本日、ついにヤブキカケルシリーズ(笠井潔著)を読み終わった。

全5冊。いまのところの最終巻『オイディプス症候群』には2週間かかった。


心に残った言葉をいくつか覚書風に。


「責任を負えないことにまで責任を感じてしまうこと。いつも正義の側に身を置いていたいという自堕落に願ってしまう精神的な弱さこそが”悪”なんだ」


有責性をキーワードとするレヴィナスの倫理とつき合わせてじっくり考える必要がある。


「人を殺さないという倫理の根拠。現象学的に考えれば、きみの存在も僕の意識の水面に映し出された影に過ぎない。しかも意識の外側には何もない。もしも自分が誰かの夢に過ぎないと思うことができれば・・・」


もし自分は誰かの夢に過ぎないと思うことができるなら、その誰かを殺せない。これは哲学というよりも思想の言葉だと思う。たしかに、僕は親友を失った時、2度とそいつと話していたときの僕(不思議なことに僕は相手によって話し方や態度が少しずつ変わってくるのだ)を体験することができないと感じた。それに似ているのかもしれない。


では、このへんで。