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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

今週末は徹夜の残業からスタート。

マジで台風並の大きな仕事のせいで、終電ロスト。

電車がないので、仕方なく漫画喫茶に。冬目景の『羊のうた』を読もうとして、あえなく寝る。

小田急線の始発に乗って家に着いたのが6:20ごろ。風呂入って、朝ご飯r食べて、考え事して、17:00まで眠った。

やっと。横になれる喜びの純粋さに自分でも驚く。


この日は19:00から小学校時代の同級生数人と同窓会。

小学校卒業以来13年?会ってないひとばかりで、ちょっとおそるおそる行ってみました。

正味、ほとんど話したことがない人もいたけど、不思議なことに普通に今の普段の生活の話が出来たのには驚いた。

お母さん業の大変さとか、旦那さんと結婚したいきさつとか。キャバクラとか。


そういえば、一緒にお酒をのんでるのにもびっくり。それだけの月日が経ったのです。

いつのまにか「遊び」が「鬼ごっこ」から「飲み会」に変わってました。


終電とか関係ないので、12時過ぎまで飲んで終了。みんなそれぞれの場所に帰りました。また集まって会えるといいなぁ。


僕は声が低くなったって驚かれちゃったけど、たしかに昔は高かった。

小学生のころ出せていた高音の、あのノドを突き抜けていく感覚をもう一度味わってみたいなとは思う。




なんで、13年もの年月会っていなかったのに、普通に話すことができたんだろうと考えてみる。

僕は中学校から男子校に入った。進学校だから競争が激しい。ストレスフルな環境。

男とは、かくもいろいろと考え込む種族のようである。

きっと、女性に負けないために必死になって生き延びようとしてるんだと思う。蟷螂のオスみたいにならないように。

だから、中学生になって、物心ついてくると、みんな一癖二癖ある奴になっている。

純粋な小学生時代はどこへ?という感じだ。

そうなると、中学・高校の同窓会は必定、気の合う奴しか集まらない。


小学生時代って、僕はなんも考えてなかった。漠然といつか卒業するなんて信じられんなと思ってた記憶があるくらい。

だから逆に、いろんないみでニュートラル。いきなり冗談から入れる。


これからもこのつながりを大事にしていきたいと、切に思いました。


これからも、この世界を一生懸命に生き抜いていく者同士として。

今夜の東京はやや曇り。雲にネオンの光が反射して神秘的な明るさをつくっている。

もう中国から戻って一週間たちそうだけど、あの体験は、夢だったのかも知れないと思う。遅くまで残業が続いて、すっかり日本人に戻ってしまった。

疲れがたまるとついついマイナス思考が堤防を突き崩す。

一句思い付いた。

「いきていく ただそれだけのことと いいきかす」

意味はよく分からないけれど何となく気分は伝わる?


そんなことを考えると久しぶりに涙が頬をつたっているのに気付いた。涙の小さな温かさにおどろきながら、電車の窓によりかかってみる。


神様、どうか僕を眠りにつかせてください。僕の目が僕の本当の姿を見つける前に。あらゆる無意味さをしぶとくひきうけられますように。
昨日中国から帰ってきました。疲れたけどすんごく楽しかったです。

でかい。紫禁城、道路、街、すべてがでかい。

たくましい。車の運転、ライフスタイル、みちばたでたこ上げするおっちゃん。

今回の旅にいくまえ、中国の印象は決して良いものではなかった。日本を嫌っている国だと思っていた。でも間近で見る中国の人々は、暖かく、かつ合理的に日々を生きていた。
外観はコンクリート剥き出しのおんぼろマンション。でも部屋に入ったとたん綺麗に内装が施された快適な部屋が広がる。
車の車線変更は強引の一言。信号もよほど大きな交差点でないとない。
歩行者は車をしっかり見てわたろうとするからか、えって事故が少なくなる。

ふしぎ。中国の方が日本よりも自由と言えることもあるんだ。

そしてなによりも一緒に旅した仲間との出会い。ありがとうです。これからもよろしく!

ここ最近、活字関係ではサリンジャーづくし。

BOOKOFFで見つけた「ナイン・ストーリーズ」、「フラニーとゾーイー」、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア序章」を満員電車で読み終えた。「ライ麦畑でつかまえて」は、2年前に読んだし、いちおうこれでサリンジャー作品は制覇。

最もすきなのは、「バナナフィッシュにうってつけの日々」、「対エスキモー戦争の前夜」、「フラニー」の3編。


いくつか心に突き刺さった文章を拾ってみる。

「死んだ猫になりたい」 意味不明だけど、スピッツの上を行ってる時点でやられる。

「あんたもバディも好きでない人と話をする、そのやり方を知らないのね」 世の中で好きでない人と話さなきゃいけないことってあるから、「嫌い」だけでは社会人やっていけません。難しい・・・。

「ぼくはもう、誰かと一緒に昼飯を食おうとしても、おとなしく話をやり取りしてることができなくなっちまったんだよ。ひどく退屈しちゃうか、さもなきゃ説教でもするみたいな具合になっちまうんだ」 なんか自分のことをいわれているような気がして。。。身につまされます。

「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、 いいか、 元のような、 あらゆる機-あらゆるキ-ノ-ウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」 この言葉は謎。どういういみなのか、棘のように引っ掛かっている。無傷のままの人間に戻るとは、おそらく、サリンジャーのもとめている純粋さへと続いているとおもうけど、ちゃんと考えると、すごい字数がかかりそうなので、また機会をあらためて。


サリンジャー作品の特徴は、複雑性を抱えながら、純粋無垢なものへの回帰を願っているところだと思います。だからませたガキがいっぱい出てくる。とくに「ライ麦畑~」のラストとかは、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」の赤頭巾をかぶった5歳ぐらいの女の子が主人公の親指をかわいい長靴で踏んづけていくシーンとすごい似た感覚を持っていると思う。


知性が好む複雑性は、俗物とは相容れない。知性を振りかざすこと自体が俗物性を帯びているから。だから、自然や純粋な感覚に憧れを持つ。確かに瞬間的に純粋さは知性を開放し、治癒してくれる。でも、すぐに分かることは、その治癒力も長くは続かない。俗物性から逃れることは不可能なのだ。俗物性を嫌うことにすら俗物性が潜んでいるのだから。


ではどうするか。自殺。シーモアはそんな風に生きているように思える。


日常のディテールを愛したいというサリンジャーの思い。どこまでいけるのだろうか。


突然だけど森山直太朗に「いつかさらばさ」という切ない一曲がある。

「僕が君について知っていることといえば、紅茶に砂糖を三ついれることだけさ。こんな言い方じゃ誤解を招くかもしれないけれど、人が2人でいるにはこれぐらいでちょうどいいんだ」

この歌詞はディテールのみを愛するという宣言である。いわゆる、相手の本質を愛するとか、そういうものではなく、多くの人が本質的ではないと思っているような、人の癖や好みだけを愛するという思いである。


僕はこの歌を聴いたときちょっと感動した。


「あらゆるものを2人で分かち合おうとしたときに、ぼくらははじめて本当の孤独を味わうことになるのやも知れない。」


こいつは、闇を知っている。闇を知っているものだけが出せる優しさを持っている。そう感じます。


支離滅裂だけど、本当に言いたいことは、こんな感じ。

朝日を見て、祝福されているとか美しいと思うばあいと、「光に突き刺されて痛い」とか「今日も生きねばならない」と思う場合と極端な状況を、僕は交互に体験している。気分の問題といえば、それまでだが、そこをできるだけロジカルに折り合いをつけたい。ただそれだけ。


なんだろうか。どこへもたどりつけない一本道から、必死にはみ出そうとしている自分のイメージが浮かんできた。足がもつれると地面をころがってでもはみ出そうとしている。


行き先のない道すらからもはみ出して、その道の根拠を思考できるのか。「思考できているつもりにはなれるのでは?」というのが僕の希望だ。この思考は、あるかどうかわからない古代遺跡の発掘に似ているかもしれない。何かがありそうだから発掘するのもよいが、何もなさそうなところから何かを発掘して見せようともがくのも、僕はきらいではない。


サリンジャーは何もないところに早くたどり着きすぎなのだ。僕にはそんな勇気は全然ない。

先週末は、完全に「時効警察」とともに過ぎ去った。


TSUTAYAでドラマの新作として入荷されていたのをみてしまったのがいけない。

土曜日に1話から4話、日曜日に5話から9話を見通して、めでたく完全制覇!!。


時効警察


ストーリーは、総武警察署時効管理課の霧山修一朗が、時効になった事件を趣味で捜査するというもの。

ミステリーという体裁ながら、総部署の面子総動員のコントが炸裂。

オダギリジョーと麻生久美子のコンビ漫才もかなりつぼにはまった。なんか楽しい雰囲気が伝わってきて、ついつい見入ってしまう。


いやーあっという間にすぎた2日間でした。観始めると家から出れないから飯は全て出前。そば、ピザ、寿司。

DVDはまだ今日も借りてるんで、明日返すまでにもう一回観ます。では。


もし、興味があれば是非。おもろいです。ギャグをみると脳が鍛えられるしね。