11/24に振替休日をとったので、4連休でした。
11/22の夜に同期邸で徹夜飲みの後、6時間ほど寝て、吉祥寺でタルコフスキーの『ノスタルジア』鑑賞。眠い。
その後、B-BUMPという岩登りのジムにいって、ボルダリング初体験。翌日から腕の内側が猛烈な筋肉痛になってもうて、
自転車で紅葉観にいこうと思ったのにブレーキがかけれなくなりました。しかたがないので、おうちで読書三昧です。
しばらく感想をまとめてなかったので、簡単にばーっと書きます。あいかわらず乱暴で文章としての体裁ができてないのですが。
あ~目がいたい。
1. 『ジョン・レノンを信じるな』片山恭一著 小学館文庫
この作家の代表作といえば、『世界の中心で愛を叫ぶ』なわけだけど、その作品が馬鹿売れしたためか、不当に低い評価しか得ていないのではないかと思う。系統としては間違いなく村上春樹フォロワーであることは疑い得ないが、すこしペダンティックというか、思想的な主張がハッキリしすぎている所が作品の魅惑が削がれている原因かもしれない。村上春樹作品には、「なんかよくわからないけど、面白そうな点」がいっぱいあって、読むたびに印象が違うということがよくあるが、片山恭一の作品では、登場人物の考えが割とはっきりと描かれているので、その分理解しやすくなってしまう。
内田樹先生の御言葉を借りれば、僕たちの記憶に残るのは、「納得のいく言葉」ではなく、むしろ「片付かない言葉」なのだ。カフカの「世界と君との戦いにおいては、世界を支援せよ」とか。意味不明だけど、その意味を考えてしまう。そういう言葉こそが記憶に残る。
とはいえ、この本は、片山作品のなかで僕が1番好きな作品だ。
「僕」の夢に出てきたジョン・レノンの言葉。「わたしの生き方には、どこか自殺的なところがあったのだよ。」この一文で、僕はこの作品を生涯記憶するだろう。レノンの生き方は、ジレンマに正面から向き合って、「誤り」を克服しようという生き方だった。それは、最近の僕の関心にひきつけていえば、最後には「私が存在することが悪ならば、滅びよう」という潔癖なモラルにぶち当たる。このモラルとどう向き合うか、大事なテーマだと思う。
2. 『満月の夜、モビィ・ディックが』片山恭一著 小学館文庫
モビィ・ディックは白鯨のことらしい。1月ぐらい前に見直した映画『ビフォア・サンセット』のなかで、突然「モビィ・ディック」という響きがでてきてびっくりした。
なんとなくだけど、意味がわかりすぎるところと、意味わからないところの差が激しすぎる。多分作者が分かって書いているところと、分からんで書いているところの差がそのまま出ているのだと思う。だから、主人公の「僕」については分かりやす一方、「他者」である「香澄」の描写は分からないことが多い。村上春樹にあって片山恭一にないのは、主人公「僕」の「分からなさ」だと思うのだがどうだろうか。そのせいか、この小説をもう一度読もうとは思わない。この小説で考えられていることのなかで、僕に新しいことはなかった。
3. 『ストーカー』A&B・ストルガツキー ハヤカワ文庫
タルコフスキー監督の映画『ストーカー』原作として有名。
この本で印象的だったのは、題辞に引用されているロバート・P・ウォーレンという人の言葉。
この言葉をめぐって加藤典洋の『敗戦後論』は展開していく。
「きみは悪から善をつくるべきだ、それ以外に方法がないのだから」
→内田樹先生による『敗戦後論』の解説にはこの言葉についてとても美しい説明が試みられている。
「原理的な正しさを求める志向はいずれおのれが存在すること自体が分泌する「悪」に遭遇するほかはない。(中略)加藤はこの論争を通じて、「正義」は原理の問題ではなく、現場の問題であるという考え方を明らかにしていった。言葉を換えて言えば、この世界にいささかでも「善きもの」を積み増しする可能性があるとしたら、それは自分自身のうちの無垢と純良に信頼を寄せることによってではなく、自分自身のうちの狡知と邪悪に対する畏敬の念を維持することによってである。(中略)この穢れた世界の卑しい街こそが私の現場であり、そこを歩むときには街の「卑しさ」を網羅的に列挙できる人ではなく、「卑しさ」から「美しいもの」を掬い上げる術を知っている人についてゆけと私の直感が告げるからである。」
4. 『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著 文春新書
内田先生の最新作を早速読む。なぜ、ノーベル賞受賞者にユダヤ人が多いのか。なぜユダヤ人が迫害されるのか、ユダヤ人はなぜ知性的なのか、こういった問いを検討する内田先生の相変わらずの知的な操作の柔軟さが素晴らしい。
「アナクロニズム」(時間錯誤)というユダヤ人の時間意識をもとに、レヴィナスの「有責性」に言及する部分は感動的である。
「決してあってはならないことなのであるにもかかわらず、私の善性を基礎づけるために、「かつて私は主を追い払った」という起源的事実に関わる”偽りの記憶”を私は進んで引き受けなければならないのである。(中略)この偽造記憶は外部に投射された自責のための擬制としてではなく、まぎれもない事実として受け容れられなければならない。にもかかわらず、罪深い行為は事実としては決して存在してはならない。なぜなら、事実として存在した瞬間に、私の有責性は私の外部に実定的な根拠を有することになり、それは倫理の問題ではなく、単なる「復讐」と「損害賠償」の法的問題に転化されるからである。」
ユダヤ人と非ユダヤ人の違いを内田はつぎのように噛み砕く。「私はこれまでずっとここに致し、これからもここにいる生得的な権利を有している」と考えるのが非ユダヤ人、「私は遅れてここにやってきたので、<この場所に受け容れられるもの>であることをその行動を通じて証明してせなければならない」と考えるのがユダヤ人である、と。この考え方によって、ユダヤ人は、「いま、ここに存在している私」という自足した感覚を持つことができなかった。常に「いつか、別のところにあるべきだった私」という感覚で世界にありつづけるしかなかったのだ。その結果、「私はついに私でしかない」という自己繋縛性を不快に感じる感受性を発達させた。この感受性を「知性」と呼ぶ世界に僕たちは生きている。このまえ少し書いたサイードの「漂流」に近いのかもしれない。
5. 『村上春樹イエローページ1、2』 加藤典洋著 幻冬舎文庫
村上春樹作品について、発表順に論じた評論集。明快で奇抜な論旨に目からウロコがオチまくった。ハルキ作品を呼んだことある人なら絶対読むと面白いだろう。
個人的には、「死者という存在しないものの不在感」を村上が描いているという加藤の指摘がなるほどと思った。永井均は、「生きる」の反対は「死ぬ」ではなく、「そもそも生まれてこなかった」だといっているが、それが腑に落ちた。世界は確実に生者だけでなく、死者によっても構成されている。
それと、モラルとマクシムについての指摘も鋭いと思う。「村上は、モラル(倫理)「我々は・・・すべきだ」の成立が困難になった現代において、それをいったんマクシム(格率)「私は…することにしている」という形に「下落」させることで、「仮死」の状態で生き延びさせようとする。」
また、「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」にまつわる議論で指摘される生き方の指針も、心を打たれる。
「山頂に放り出された人は窒息し、死にかかる。しかし、助かることをあきらめると、世界の暗がりがうっすらと見えてくる。もうすぐ死ぬと言う時間の中に生きるための空気が下りてくる。強い光の中で生きることをあきらめると、もうひとつ、弱い光の中で生きることがはじまるのである。」「「正しさ」ではなく、「心」が求めるほうに歩くこと、それが、この小説の教える世界への近づき方なのである。」
6. 『文学なんて恐くない』 高橋源一郎著 朝日文庫
著者の評論集。オウムの教えの「語り方」、失楽園の「文章のダメっぷり」、「文学の意味」について、ふざけ半分に見せかけながら大真面目に語った評論集。個人的には、最終章「文学の向こう側Ⅰ、Ⅱ」が印象に残った。
加藤典洋の「敗戦後論」を受けて、愚かなことと知りながら、湾岸戦争反対の声明に署名した意図について言及されている。
いくつか、心引かれた文章を引用する。
「僕たちが言葉をもつ限り、言葉を用いる限り、『誤る』ことが必然なら、問題はどのように『誤る』かだけではないでしょうか。」
→どのように『誤る』かを考えること。正しさへの懐疑を忘れないこと。
「言葉を使うものは自分の正しさを疑わない。そして、いつかそれが「言葉が作り出した空間の中での正しさ」ではなく、単なる「正しさ」であるように思い込む。」
→常に、自分の言葉から漏れ出ている事柄、語り落とされている事柄があることを忘れないこと。
「ある本について論じる、ということは、その本にはこんなことが書かれていました、それに対して私はこういう意見です、と書くことではない。ある本について論じる、ということは、その本が世界の他の本とどう違うのか、違うとしたらどこなのか、について書くことなのである。」
→ある本に書かれていることをそう有らしめたもの、著者の生存条件についてまで含めて読み取ること。私の意見はいらないこと。世界の他の本との異なり方についての情報のみが有効であること。
7. 『敗戦後論』 加藤典洋著 ちくま文庫
この本の豊かな内容をまとめるのは困難。最も印象深かった点をいくつか。
大江健三郎と大岡昇平がともに文化勲章を辞退したことについて、その理由の違いを加藤は指摘する。
「大江の文化勲章辞退は国からの贈り物は自分の戦後民主主義の理念に照らし、「汚れ」ているので、受けられない、と聞こえる。しかし、大岡がいっているのは、国からの贈り物を受けるのに自分は「汚れ」ている、というそれとちょうど逆のことである。」
長い戦後を、捕虜を経験した「敗者」として生き抜いた大岡昇平の作品を通して、敗戦という事実によって、自分達を守るために死んでいった多くの兵士たちを否定しなくてはならない「ねじれ」、アメリカに押し付けられたにもかかわらず、日本の美点として保護を叫ばれている日本国憲法の「ねじれ
」について考える加藤の論戦は困難な隘路をたどる。最後に加藤がたどり着いた地点も、とても困難な立ち位置ではないかと思う。敗戦後論最後の文章から。「きっと、「ねじれ」からの回復とは、「ねじれ」を最後まで持ちこたえる、ということである。そのことのほうが、回復それ自体より、経験としては大きい。」
サリンジャーと太宰の作品を通じて「誤り得ること」と「正しさ」について考察する「戦後後論」も面白い。「It's time we let the dead die in vain.(略)文学とはつながりよりも深い、切断の力なのである。」
と、なかなかどうして、いろいろ勉強になった秋だったのである。
見逃した紅葉は来週行くってことで。