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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

金曜日に部の忘年会があって、今年のオフィシャルな飲み会は無事終了しました。

やったー!!


忘年会って日本人しかしてないんでないかな?

こんなに飲み会ばっかやっている国民もめずらしいはず。


もともと、酒を飲むのには祝祭的な意味があったはず。日常と祝祭の対比。

あらゆる宗教が儀礼を持っていることからもわかるけど、セレモニーって、人間を非日常に連れ出す意味合いを持っている。

宗教の影響力が強いところでは、非日常とは神なわけです。


で、戻って日本の飲み会の多さは何なのだろうか。

きっと、なにか正反対のものが強いための反動で飲み会ばっかやっているのではないかと思う。

あんまりこの先はいわないけど、悩み多き国民なのですね、日本人は。


今年を振り返ってみると、大学時代の同級生と、会社の同期との飲み会がいい思い出になった。

前者では、相手の強烈な反応を楽しみながらだらだらと、時にまじめにいろんな話ができるとこがいい。

後者は、社会人になってそれなりにいろいろあったから、気を使わずに物いえるようになってきておもろい。

中国で一緒になったひとたちとも、これからもっと楽しくできればいいと思う。

すてきな仲間ってええこっちゃなと。あらためてこんなん書いて思います。


とはいえ、あんまり酒も強くないので、あんまりたくさんの飲み会には閉口気味なのですが。。。





異動になる同期が本部勤務最終日。最後の晩餐と称していろいろくっちゃべった。

ふと、なんで、こんなにだべってんだろうねという話になる。

これは僕のダメなところなんだけど、相手の思考経路が見え見えな話を、おもしろいと思うことができない。どっかで聞いたことのありそうな話には深みを感じることができない。

面白味を感じることができないのに、必死にだれかの話に耳を傾けたり、自分からも話そうとする。

やっぱり沈黙が怖いのだろう。時間の隙間を物語で埋めないと不安でしょうがなくなるのだろう。

だとすれば僕たちは、時間をやり過ごすためにくだらない物語を交換していることにはならないか?
もちろん交換する物語が面白いうちはそれでもいい。
でも人間は記憶を増やして生きていくのに、同じ所にとどまりつづけると飽きるという厄介な代物だ。
だんだん新鮮な物語がへっていくのは避けられない。

いや、いいかたがわるかった。物語自体には無限のバリエーションがある。だとしても同じ環境にいつづける限り耳に入ってくる物語は限られてしまうのだ。

時間を埋めるために互いの人生の物語を交換する。しんどい。この閉塞感を打破するためにどうするか。物語を交換するために時間を消費するようにすればよい。
別に物語の交換相手が自分自身でもいい。
自分という語り部を面白く生きればよいのだ。

結論が自分を面白く生きるだなんて、今日の話のスタートから一歩下がっちまってるけど、すくなくとも自分を面白く語れない状況では良い物語の交換はできない。

自分をいかに面白くするのか。やっぱすきなことにつっこむしかないんだろ~か。やはりあの絶望と狂気にまみれる世界へまた足を踏み入れるしかないのか。う~ん。すぐには分からないので、年明けるまでの宿題にします。

忘年会やら、忘年会ではない飲み会やらがつづいて、非常におなかの調子がいまいち。


朝食べると夜までおなかいっぱい感が継続。


↑といってるのに、おかんのつくる朝飯は健康時よりも増量。


「調子悪いときは、しっかりたべろ。たべてしんどくなったら胃腸薬飲め。」 これがおかんのロジック。


完璧に論理的なセンスを逸しているのはいいとして、極力薬に頼らないほうがよくはないですかね? 先輩。



今日も、おかんが剥いてくれたてんこ盛りのりんごを食べると、突如身体を震えが襲った。


げっぷ。 (こんなんですいません)


いままで僕がはなったげっぷのなかではもっとも音量のでかいすげー奴がでた。


じぶんで思う。「おれはいま、たしかに一瞬とはいえブルドックであった。」なんて。


そんなわけで、今日のオレは、朝から「勢い」が違うのであった。


冬の朝、犬のようにげっぷ。悪くない高揚感。



犬はあんまりいいイメージの言葉に使われないけど、もっと大事に使ってやりたいよね。


そんなかんじです。


こんな日には、不思議な動物についてでも、思いをはせてみよう。
うさぎどり?


これは、いったい?




今日は偉い人を招いての夕食会でした。
上司に言われての半分強制参加だったので、正直めんどくせーと思いながら向かったわけです。が、いってみたら僕らみたいなぺーぺーの満足のためにすごい準備をしてきていただいて、ものすごい感激でした。とても熱い話を聞かせてもらいました。ありがとうございました。
偉い人ほど話がおもしろくあってほしいというのが僕のねがいですが、たいていの中途半端に偉い人はつまらない。でもきょうの偉い人は違いました。絶対に「それは違う」といういいかたはしない。相手の考え・発言の意図を理解しようと頭をつかってくれる。人からの質問についても逸らさない。はぐらかさない。答えにくくても全力で答えようとしてくれる。ただただ頭が下がりました。
ぼくもそういう人間でありたいと思い新たにしました。

仕事がんばってみます。
寒くなってきました。
社会人をやってると、日々が「みんながわかること」、「第三者に説明できること」、「より分かりやすいこと」によって埋められてゆくのに気づく。
それはそれで、ビジネスという土俵の上では必要なことなのだ。それはよくわかる。

先週、新書で話題になっている「なぜ若者は三年で辞めるか」を借りて読んだ。
すこぶる明快。論旨の組立もしっかりしていて読みやすい。なるほどなぁとおもった。きっとこういう文章がビジネスで求められる言語能力なんだろう。
でも感心する一方で空虚感もおぼえた。噛み応えがないのだ。僕はだいたいこの本を100分ぐらいで読み通したけど、あまりにもさらっとよめてしまった。どっかでみたような言葉つかいだから先が読めてしまう。

これは僕の個人的な偏向なんだけど、僕は「わかりやすいもの」よりは「わかりにくいもの」が好きだ。それは、「わかりにくいもの」を「わかる」為には言葉では不十分であり、何度も「わからなさ」に向き合ううちに何となく分かってきて、ついに腑に落ちるときのあのしっくり感がステキだと思うからだ。
哲学や思想の楽しみは、あのわけわからん文章にしっくりいってしまうようにかわっていく自分のかわりっぷりを味わうことにある。僕はそう思う。もちろん哲学や思想なんてお遊びの話であって、仕事とはなんも関係ない。
しかし、一度「わかりにくいこと」との遊びを知ってしまった後では、大真面目に「わかりやすさ」を追求するなんて味気なさすぎてつらい。

「わかりやすさ」が第一義的な承認を受ける世界では、「羊のかぞえかた」と「友達のかぞえかた」の違いについて思いめぐらすなんてありえないのだから。

目的、目標にしばられれば、最初に意図されたものだけが見える世界ができる。でも人間の考え出す目的や目標以上に世界やら人間やらは豊かな可能性をもっている。その豊かさとは、まぎれもなく「わかりにくさ」が担保する余剰のことだ。

目を閉じると広がる世界だってある。そういうことだ。